小説家が読者に届ける、たった一つの重要なこと ~伝わらない言葉に意味はない~
## はじめに
あなたは小説を書くときに、過剰に『正しい日本語』を気にしていませんか?
誤用とされる単語の正確な利用、そして正しい難読漢字の選択。
けれど、読者にとっては大切なのは、ただ一つ――『伝わること』です。
誤用とされる単語であろうと、難読漢字を利用せずとも、伝わればいいのです。
むしろ『正しさ』を追い求めるあまりに、かえって誤読解すら招くことすらあります。
読めない難読漢字は、ときに害悪ですらあるのです。
本稿ではその危うさを――哲学史の流れをを踏まえて喝破します。
このエッセイには、哲学の解説があります。
それを踏まえて、俗論の『正しい日本語』を否定していきます。
## 俗論の『正しい日本語』
例えばあなたも見た、聞いたことがあるんじゃないですか?
『確信犯』の使い方がどうとか、『違和感』は感じるものじゃなく覚えるものだとか……
で、この文を読んで……意味を誤解するんですかね?
「あいつの煽り、絶対確信犯だぜ?相手の反応で遊んでやがる」
「彼のかすかに微妙な反応を見て、違和感を感じた」
ね?普通に通じるでしょう?
例えば年配の方ですと「ヤバい」は「危ない」といった意味合いで使いますが、今では肯定的な感嘆に使われますよね?
そう、言葉の意味は移ろいゆくものなんです。
国語辞書などを見ても「○○、転じて△△の意味」などはザラにありますね。
辞書などに書かれていることなんて、すべて後追いですよ。
## 正しくても通常は避けた方がいい『難読漢字』
たとえば「驟雨」と書かれていたら、あなたは読めますか?そして意味は分かりますか?
ここで「驟雨」と、ルビでも括弧でも読みがあったとして、言葉の意味が理解できなければ無意味ですよね。
これは、極めて文芸的な表現ですからね、おおよそ文学部大卒クラス?
芥川龍之介や谷崎潤一郎などの文豪が利用していましたが、今ではスッと理解できる方が少数派でしょう。
ここでは、例えば「驟雨(しゅうう:ここではにわか雨の意味)」とするのが精一杯でしょうね。
それくらいなら「にわか雨」で工夫できないか、という検討が必要でしょう。
どうしても「にわか雨」が嫌ならば、たとえば「突如、激しい雨に襲われた」など、より伝わりやすい言い回しを検討する必要があるでしょうね。
あなたも小説を読んでて、唐突に難読漢字にぶつかって思考が引っかかったこと、ありませんか?
その時に「この作者は頭が良い」と思うでしょうか?
意味を調べてみれば、「にわか雨とか夕立ね」となるだけですね。
これを軽い文体の中で使っても、ただの自己満足だと思われるのが関の山ですよ。
最悪「読者に知識マウントを取ろうとしている」と思われて、印象を悪くして、読むのを止られても不思議じゃない。
そういう意味で、文芸的にも日本語としても正しくとも、軽妙な文体や一般小説では避けましょうね。
## そもそも小説は国語教材目的ではない
小説は読んでもらえて、はじめて意味があります。
あなたが愛してきた小説達は、国語授業で使うような整った日本語で書かれてましたか?
もちろん、国語教科書に載るような作品もありますね。
ただ、それは歴史という暴風に耐えて生き延びた結果、『国語』たり得ると認められた作品でしょう。
もしかしたら、当時は「軽薄な文章」と言われていたかもしれませんね。
先に「辞書などに書かれていることは後追いだ」と書きましたが『国語教科書』さえ後追いですよ。
あなたが小説で
「ヤバい!ヤバいヤバいヤバい!このハンバーガーむっちゃ美味しい!」
と書いて非難される方が、おかしいんですよ。
『確信犯』『違和感』なども、正直そのレベルの……くだらない話なんですね。
では、ここからガラにもなく……少し真剣に哲学からこのことを説明しましょう。
## 哲学の大まかな歴史:実存主義
皆さん、キルケゴールはご存知ですか?
「死に至る病」は、名前は相当有名だと思いますが……まあ名前を知らなくても構いません。
実存主義の祖と言われている近代哲学の始まり……と言っても過言ではありません。
「神と人との関係、その関係に関係する……」など、一見して意味の取りづらい表現が並んでいて、私も当時苦戦しましたよ。
キルケゴールは宗教観が強く「(神との関係を失った)絶望こそが真の『死に至る病』である」と訴えたんですね。
実存主義の有名人では、ニーチェとかハイデガー辺りが、オタク文化をある程度修めていたら……一度は聞いたことがある名前かなと思います。
この頃には宗教と哲学が分離されてきましたね……ニーチェは「神は死んだ」と訴えて論を組み立ててます。
高校の教科書だか副教材だかでは「ニーチェはニヒリズム」といった、誤解を与える書き方がされてるそうで要注意。
ニーチェは、ニヒリズムからの脱却を訴えた人です。
さて、この実存主義は……一言で言うと「主体が世界を意味づける」という主張です。
主体思想とは関係ありませんので、ご注意くださいね?(笑)
具体的には「個人の自由と選択こそが真理」ということを叫んだ思想です。
この叫びに一定の真理はあると思いますが、結局は……個人の主観に委ねられる思想でした。
やがて……実存主義は廃れていきます。
若者が一度はかかる麻疹のようなもの──そんな扱いを受けるようになった、と言えば伝わるでしょうか。
……そんな実存主義に鋭く切り込んだのが『構造主義』という思想でした。
## 哲学の大まかな歴史:構造主義
構造主義は、1960年代フランスが中心でした。
構造主義の祖は、社会人類学者「レヴィ=ストロース」の「悲しき熱帯」でいいでしょう。
『悲しき熱帯』は、「親族の基本構造」という理論から出発し、ヨーロッパ中心主義に対して「熱帯には熱帯のルールがあり、そこに文化の上下はない」と主張しました。
……無駄だったのでしょうね。未だにヨーロッパ中心主義から脱却できていないのが現実ですから。
レヴィ=ストロースのやったことは、まさに何かと何かの関係性を読み解くことです。
そして、この構造主義はソシュール言語学など、多大な影響を与えていますね。
シニフィアンとシニフィエ……この言葉を知ってるだけでも、ちょっと賢くなった気がしませんか?(笑)
この構造主義は……一言で言うと「主体も言語構造に規定される」という主張です。
ちょっと分かりにくいかな?
具体的には「個人など構造によって規定された幻だ」という内容で、実存主義を切り捨てた思想です。
この具体例に沿うのは「言語があり、その言語に思考が決まっていく」なんですけど……
日本人にとって雪は基本的に雪ですよね、エスキモーは雪を、百種類を超えるほどに細分化して名前を付けているそうです(百種類を超える、は都市伝説かもしれませんが)。
日本人にとっては、そのエスキモーの言語を知らなければ、雪をそれ以上細かく見るという発想自体が出てこないと思います。
「構造によって規定される」というのは、こういうことですね。
他の例だと……パッと例が浮かびませんが、ペットボトル飲料を考えてみましょう。
このペットボトル飲料は、最低限でもペットボトル容器と飲料があって、そう呼べますね。
しかし、ペットボトルに牛乳を自分で注いでも、ペットボトル飲料とは呼びません……呼びませんよね?
ペットボトル飲料の最低限の要素は、ペットボトル容器と、「購入時に入っていた」飲料、となるでしょう。
うっすらと分かってきたのではないですか?
ペットボトル飲料という概念は、単体では説明できません。
工場という存在を無視して、語ることもできないのです。
当たり前の話だと思いますよね?
ですが、その「当たり前の話」が、当たり前ではなかった時代にこういう思想が立ち上がったのです……。
真剣に思想を突き詰めて言語化し、常識にしていった最初期に構造主義の哲学者がいるわけですね。
しかし、構造主義は既にあるものの分析しかできません。
それを解消するために誕生したのが『ポスト構造主義』です。
## 哲学の大まかな歴史:ポスト構造主義
ポスト構造主義は、その名の通り、構造主義の完全否定ではなく、むしろその延長線上にあります。もちろんソシュール言語学なども原則踏襲しています。
幅広く語ると脱線するので、ここではデリダだけに注視しましょう。
デリダと言えば「脱構築」で有名ですが、私自身そこまで詳しくないの で、本稿では詳細は省略します。
またパロールとエクリチュールについても語っていますが……本稿では直接の関係はないので省きます。
デリダは「差延(différance)」を提唱しています。
これはソシュール言語学の応用として「意味が他の言葉との差異でしか構成されない」を訴えたのです。
身体的性別については、原則として人は男性か女性のいずれかに分類されます。
ここで、仮に身体的性別女性の人が世界から消滅して、人が口から卵を産んで繁殖する存在になったとします(おー、怖い怖い)。
この時「女性」という概念そのものが消滅するわけです。
全ての人が「男性」なのですから、この概念自体も不要になります。
ここで「差違で構成できない言葉は意味を持たない」というのは実感できるかと思います。
また、身体的性別に関わらず、心の性別や恋愛対象の性別まで含める……いわゆるLGBTQ+の話題ですね。
今までは「男性か女性か」だった所が、複雑な条件で判定しなければならなくなります。
これは、性別自体が拡張されたと見なければならない話ですね?
これは「他の言語との差異」が複雑な条件になった……というわけです。
『LGBTQ+』というのは、『+』に「他の諸々も含む」という相当乱暴な表記で――一般的には「LGBTQIA+」となります。
まあ、性的マイノリティが主題ではないので、それは置いといて……興味のある方は各自お調べください。
ここで「差違で構成できる要素は意味を持つ、ゆえに言葉が必要」となります。
なお、差違という用語はソシュールの構造言語学由来の概念です。
差延とは、差違に加えて時間的遅延の概念を付け加えたものです――時の経過によって差違が発生する、という解釈でいいでしょう。
……少し、社会派的な話題すぎましたか?
ここで、当初の話題に戻りましょう。
『確信犯』とは元々「ある人が犯罪だと理解していても、それが正しいと思うから実行する」の意味だったはずですね。
ですが、今の「ある人がわかっていて犯罪を犯す」といった意味への変遷もまた『差延』ですよね?
とりあえず『故意犯』という言葉もありますが、この単語自体があまり使われないという現実もあり……廃れました。
『違和感』とは元々「おかしいと感じる」の意味で『違和感を感じる』とは「おかしいと感じるを感じる」になるから「頭痛が痛い」と同列だ、そういう批判を受けるわけです。
ですが、今や『違和感』とは「そういう感覚」という意味合いになっているわけですね。
この変遷もまた『差延』です。
このように、俗論の『正しい日本語』には、デリダの思想すら踏まえていない点があるわけです。
長々と哲学の話をしましたけど『正しい日本語』は存在しない、その論拠になればと思います。
少なくとも、百年単位の思想的背景を持つ論に対して「語源としては……」「文章的には……」と いった反論が、いかに滑稽で浅薄か――そのことをご理解いただけたなら、これ以上の喜びはありません。
## おわりに
そもそもですよ?『正しい日本語=標準語』だと思ってる節がありませんか?
この『標準語』だって、元をたどればただの『東京弁』に過ぎませんよ。
たかが一方言が、国のバックアップを受けて大きな顔をしている……それが実態です。
『正しい日本語』という言葉が、いかに虚構に塗れているか、その一端でも理解して頂ければ幸いです。




