第5話「夢を囮に」
真夜中の商店街は、昼間よりもざわついていた。
だが、そのざわめきは人の声ではない。看板がきしみ、空気がざらつく――夢と現の境目が、夜啼きのせいでひび割れていた。
「奴は“大きな夢”を探してる」
先頭を歩くアルトの声は低く、研ぎ澄まされている。
「長く抱き続け、強く願い続けた夢。……今夜それを喰えば、きっと何十人分もの記憶が一度に崩れる」
「それを囮にできる?」雫は刀の柄に手を置いた。
アルトがこちらを見る。
「できるのは、お前だけだ。血刀は持ち主の意識を強く結びつけた記憶を、まるごと“放つ”こともできる……罠としてな」
そしてゆっくり続けた。「…ただし、戻ってこない」
喉がひりつく。
心の奥に、大事に抱えてきた夢がある。
妹と二人、自転車で海まで走った夏の日の約束――「来年はもっと遠くまで行こう」という笑顔。
それはもう、現実では叶わない。だからこそ、夢としてだけ残っていた。
(失くすのは……怖い。でも、守れるなら)
雫は頷いた。
「囮になるのは、私の夢だ」
廃ビルの屋上に立つと、真下の路地から夜啼きの歌が聞こえてきた。
それは子守唄のようでありながら、人の願いを舐め取るような湿り気を帯びている。
雫は刀を抜いた。
刃先にその夢の情景を全て重ねる――潮の匂い、妹の後ろ姿、夕焼けに透けたブレーキランプの赤。
痛いほど鮮やかな“夢”が、刀身に宿っていくのを感じた。
「……来い」
声に応えたかのように、夜啼きの仮面が闇を抜けて現れた。
黒い羽根を広げ、口元から靄を伸ばす。
それは、雫の放った夢に喰らいついた瞬間――。
「今だ!」
アルトの叫びと同時に、雫は踏み込んだ。
刃が胸元から仮面までを縦に裂く。
中から溢れたのは、無数の小さな光――奪われた夢の欠片たち。
光は夜風に乗って散り、それぞれの持ち主のもとへ帰っていくように見えた。
夜啼きは悲鳴を上げる。
その声は、怒りでも飢えでもなく、どこか安堵にも似ていた。
戦いが終わり、夜啼きの姿は灰色の羽だけを残して消えた。
雫はその場に膝をつく。
胸の奥が空洞になっている――海辺の夢は、確かにもうなかった。
見上げると、路地に人々が目を覚ましていた。
サッカー少年がボールを抱えて、「あ……これ、練習しなきゃ」と笑っている。
その顔を見て、雫は少しだけ笑った。
「……どうだ、初囮作戦の感想は」
アルトが横に立ち、問いかける。
「……二度とやりたくない。でも、やる価値はあった」
喪失と安堵、その両方の重みが声に滲む。
「……夜啼きの件、上に報告されるな」
アルトが夜空を見やり、眉を寄せた。
「上?」
「吸血鬼の保守派だ。血刀を使う人間がまた一人現れたと知れば、黙ってはいない。お前は、もう獲物じゃなく“脅威”だ」
その言葉が、雫の背筋をほんの少し冷たくした。
でも胸の奥ではもう、迷いは少なかった。
守るべきものが妹だけではなくなったのだから。
海の夢はもうない。けれど、目の前の夜は、確かにある。
「……来るなら来ればいい。私は斬る」
アルトはその言葉に、小さく笑って――背を向けるのだった。
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