第4話「夢を喰らうもの」
夜市の明かりの向こうで、人々が倒れていた。
露店も、路地の影も、全員が目を閉じ、静かに眠っている――まるで同じ夢を見ているかのように。
「……全員、寝てる?」
雫が呟く。
アルトは人垣の外れに立ち、低く答えた。
「ああ、“夜啼き”が近い証拠だ。こいつは吸血鬼でも異形の中でも、少し変わり種だ。血じゃなく、夢を喰う」
「夢……?」
「夢を喰われた人間は、二度と同じ夢を見られなくなる。時に、それは生きる支えを奪うことになる」
アルトの目が、淡い赤の光で細くなる。
その声にはいつもの冷静さとは違う、薄い怒りが混じっていた。
遠くから、鈴の音が微かに響いた。
澄んだはずの音が、次の瞬間には湿った喘ぎ声に変わる。
路地の奥から、くぐもった子守歌のような音が流れてきた。
やがて“それ”が姿を現す。
煤けた羽根を背負い、顔だけは仮面のように白く、口元はひたすら動いている。
仮面の上の黒い穴から、冷たい視線が落ちた。
雫の瞼が重くなる。
(……あれ、私……)
意識が霞みかけた、その瞬間——
「目を閉じるな、雫!」
アルトの声で、意識が引き戻された。
「歌を耳に入れるな。脳を直接くすぐってくる。意識を航路から外すんだ」
雫は舌を強く噛み、痛みで覚醒を保つ。
その横を、ひとりの少年がすり抜けた。
年の頃は雫と同じくらい。けれど次の瞬間、少年の体はふらりと倒れ、地面に落ちた瞬間に深い呼吸に変わる。
手から転がったのは、サッカーボール。
「あの子……!」
雫が駆け寄ろうとした瞬間、仮面の口元から黒い靄が伸び、少年の額に溶け込んでいく。
ぴくり、と少年の指が痙攣した。
アルトの声が低く響いた。
「夢を喰われる……!」
迷いは、ゼロになった。
雫は刀を引き抜く。
心の中に強く浮かべたのは、幼い頃に見続けた夢――妹と二人で、碧い海を泳ぐ夢。
(……この夢を渡しはしない)
踏み込む。
鋼が夜気を裂き、仮面の頬を浅く斬った。
だがその瞬間、胸の奥にひやりとした空洞が生まれる。
……さっきまで覚えていたはずの「夢の中の妹の笑い声」だけが、すっぽり抜け落ちていた。
「……くそっ」
夜啼きはかすれた笑い声を漏らし、闇の中に飛び去った――追撃しようとする雫を、アルトの手が制す。
「今は無理だ。夢を喰った直後の夜啼きは、速すぎる」
消えた通りに、眠る人々と倒れた屋台だけが残る。
少年を揺り起こすと、彼は目を開けた。
だがその顔に、落胆の影が浮かぶ。
「……あれ、サッカー、って……なんだっけ」
目の前のボールを見ても、意味が分からない様子だった。
雫は拳を握りしめる。
代償は、少年からも容赦なく奪われていた。
「放ってはおけないな」
アルトが低く言う。
「今度は仕留めるぞ。奴は今夜のうちに、もっと大きな夢を狙うはずだ」
「……大きな夢?」
「人間が何十年も抱き続けた、人生そのものの夢だ」
雫の胸に、静かな怒りが灯る。
失わせたくない。二度と、誰の夢も。
刀の柄を握る手に、自然と力がこもった。
夜啼きの足跡を追う旅が、始まるのだった。