第3話「奪われる前に、捨てろ」
夜の匂いは、湿った舗道に沈んでいた。
夜咲雫は、アルトの背を追いながら人気の途絶えた商店街を歩く。
シャッターに貼られた張り紙の日付は去年のまま止まり、路地裏からは微かな鉄錆の匂いが漂ってくる。
「……どこに行くの?」
「“夜市”だ」
アルトは振り返らずに答える。足音は軽いが、進む方向は迷いがない。
「都市の影にできる裏の市場。血も、肉も、記憶も、金と同じ値で取引される場所だ。
そこに、お前が探してる吸血鬼は……まだ属していない」
「じゃあ、なんで――」
「教えるためだ。刀の使い方をな」
やがて二人が立ち止まったのは、古びた時計店。
ショーウィンドウの中の時計はすべて午前零時を指し、ピタリと秒針を止めている。
アルトが扉を叩くと、奥で鈴のような音が響き、錠前が自動で外れた。
中は、空気そのものが歪んでいた。
天井近くに影の帳が垂れ、棚に並ぶ小瓶の中には、人間の眼のように瞬きする光が漂っている。
「……これ、全部、記憶……?」
「そうだ。切り離された断片。数分のものもあれば、人生の半分もある」
その説明を遮るように、奥のカウンターから痩せぎすの店主が現れた。
顔の皮膚は紙のように薄く、目は妙に大きい。
ゆっくりと雫を見回し、口端を吊り上げる。
「おや、眩しいな。まだ削れてない記憶の匂いがぷんぷんする」
雫の背筋に寒気が走る。
だがアルトは素知らぬ顔で、道の奥を顎で示した。
「払ってもらうぞ、お前の“要らない何か”を。──訓練だ」
「……要らない何か?」
アルトの目が、わずかに真剣になる。
「血刀は、斬るときに何を代償にするかを決められる場合がある。
獲物に集中する瞬間、その記憶を強く意識すれば、狙って失えるんだ。
敵に奪われるより、先に自分で捨てろ」
その言葉に、雫は息を呑む。
奪われる前に、捨てる――そんなことを、本当にできるのか。
「やるしかない。これから相手にするのは、“連鎖喰い”だ。
一人を噛めば、その人の記憶に繋がる人間からも断片を吸い取る。
妹のことまで巻き添えにされたくないだろ?」
心臓が、どくんと跳ねる。
あの顔が消えるなんて、絶対に許さない。
突然、店の奥の壁が波打ち、人影が滑り出た。
長い手足、歯の奥で蠢く黒い舌――人間の形をした生きた感染源。
「チッ……嗅ぎつけたか」
怪物は雫を目に留め、笑った。その瞬間、周囲の空気が重くなる。
頭の奥に、他人の笑い声や足音が雪崩れ込んでくる感覚――記憶を辿って侵入してくる。
(やられる……!)
刹那、雫は刀を引き抜いた。
脳裏に浮かんだのは、小学校の通学初日。転んで膝を擦りむき、泣きじゃくった自分を、妹がからかう笑い声。
大切だけど――足手まといにされるほどの記憶じゃない。
(これを……捨てる!)
刃が空を裂き、怪物の腕を断った。
次の瞬間、胸の中のその「笑い声」がふっと離れ、戻ってこない。
代わりに──押し寄せていた侵食が、ピタリと止まっていた。
「……やった……?」
怪物は驚愕の声を上げ、残った腕で壁にしがみつきながら後退した。
だが、逃げる前にアルトの長剣が貫き、影となって消滅する。
静寂が戻る。
雫は刀を納め、眩暈を堪えながらアルトを見上げた。
「……捨てられた、な」
「……気持ちのいいもんじゃない」
「だが、守った。妹の記憶ごと、な」
アルトの赤い瞳は、わずかに柔らかくなっていた。
その視線に、雫は自分でも訳の分からない安堵を覚える。
外に出ると、夜市の入り口に人だかりができていた。
ざわめきと恐怖が広がっている。
「何が……?」
「“夜啼き”が活動を始めたらしい。
街ひとつ丸ごと眠らせて、夢を喰う化け物だ。……ここからが本番だぞ、雫」
その名を口にしたときのアルトの声は、今までで一番低かった。
雫は刀の柄を握る。
奪う者と、奪われる者。その境界線に立つ覚悟が、少しだけ重くなった。