第2話「赤い瞳の青年」
夜風が、汗を冷やす。
斬ったばかりの吸血鬼の首は、屋上の端で闇に吸いこまれ、跡形もなく消えていた。
息が乱れたまま、夜咲雫は刀を下ろす。
銀髪の青年は、相変わらずそこに座っていた。
長い脚をぶらつかせ、まるで退屈そうに夜景を眺めている。
「……あんた、何者?」
雫の問いに、青年は口の端を僅かに上げた。
「名乗るほどの者じゃない。だが……黒鉄アルト、と呼ばれている」
聞き慣れない響きと、異国めいた発音。
アルトは立ち上がり、ゆっくりと近づく。その距離が縮まるごとに、雫の背筋に冷たい電流が走った。
「吸血鬼……?」
「そうだ。だが、今夜お前を喰う気はない。むしろ、その刀に興味がある」
雫は思わず一歩下がる。
アルトの眼差しは、敵意でもなく好奇心でもなく――何かを測るような静けさを湛えていた。
「血刀。古い封印術の産物だ。吸血鬼を斬れば記憶が代償として喰われ、使い手から永遠に失われる。……知らなかったのか?」
「……少しは、聞いてた。でも、返ってこないって……」
「人間は、思った以上に記憶に縋る。失って初めて、骨の芯まで凍る」
アルトの声は淡々としていたが、その奥にわずかな痛みが混じる。
雫は口を結び、質問を狙いに変えた。
「なんでそんなことを、あんたが知ってるの」
「……俺も、かつて一つ、大事なものを斬られたからだ」
アルトがそう言った瞬間、風が強く吹き抜けた。
彼の銀髪が月に照らされ、赤い瞳が一瞬だけ鋭く輝く。
階下から、重い物を引きずるような音が響いた。
雫とアルトが同時に屋上の縁を覗き込む。
ビニール袋を大量に抱えた中年の男――いや、その影は異様に長く、ブヨブヨと形を変えていた。
袋から滴る液体は、月光の下で赤黒く光る。
「……まだ仲間がいたか」雫が刀に手を掛ける。
だがアルトが手を上げた。「待て。そいつは、お前には重い」
「舐めないで」
「忠告だ。あれは“記憶喰い”だ。噛まれれば、お前の記憶は一度に三つは消える」
雫の心臓が跳ねた。妹の顔が、声が、温度が――一気に奪われる映像が脳裏を過ぎる。
迷いは、刹那。
「それでも、やる」
全身に力を込め、雫は飛び降りた。
靴底がアスファルトに叩きつけられ、そのまま影の怪物に斬りかかる。
刃は確かに肉を割いたが、同時に異様なぬめりが腕に絡み、牙が迫った。
「下がれ!」
アルトの声と同時に、強烈な衝撃波が走り、雫の体は後方に弾き飛ばされた。
次の瞬間、アルトの手に黒い長剣が現れ、闇の怪物を一刀で叩き斬る。
影は悲鳴もなく崩れ、赤黒い霧となって消えた。
雫は肩で息をしながら立ち上がった。
「……助けられたの?」
「助けたんじゃない。お前の記憶を守っただけだ」
アルトは視線を逸らし、小さく吐息をついた。
「今のお前は、まだ戦い方を知らなすぎる。そんな振り方では、すぐに空っぽになるぞ」
悔しさが込み上げる。でも、言い返す言葉はなかった。
胸の奥で、代償の痛みと、生ぬるい無力感が渦巻く。
「……習う気はあるか?」
アルトがふいに問う。
「戦い方を?」
「それだけじゃない。俺たちの世界の歩き方をだ。刀に呑まれたくなければな」
言葉の奥に、冷たい現実と、わずかな期待が混じっていた。
雫は短く息を呑み、そして――
「……教えて。全部」
アルトは口元にわずかな笑みを浮かべ、夜空を見上げた。
遠くで、鐘のような音が鳴った。
二人の夜は、その音に導かれるように、さらに深く沈んでいくのだった。