第1話「妹を喰った夜」
夜はいつも、灰色からやって来る。
街外れの川沿い。湿った空気の中、夜咲雫は屋上の縁に立っていた。
制服のスカートを握りしめる手は、細かく震えている。
足元の木箱の中に、それは眠っていた。
――刀は、冷たい呼吸をしている。
指先が鍔に触れた瞬間、骨の芯まで凍るような感覚が走った。
その声なき囁きが、脳の奥に直接流れ込んでくる。
「引けば、奪う。奪えば、消える」
思い出すのは、あの夜。
妹・灯の笑顔が、血の色に染まったこと。
暗闇の中で、微笑む長身の影。牙と、赤い瞳と、しなやかな白い手。
吸血鬼は笑いながら灯の喉笛に噛みつき――
その瞬間、雫の中の何かが決壊した。
「……赦さない」
鍔に力を込める。
刃が鞘を離れた刹那、空気が裂ける音。
鋼の煌めきが屋上の闇を裂き、彼女の視界の隅が淡く削り取られた。
――チクリ、と胸の奥が痛む。
何を失ったのかは、すぐにはわからない。
だがこの痛みが、代価として支払われたことだけは理解できる。
屋上の向こう、路地に人影があった。
背筋の曲がった老女……の皮を被った何か。
それは血のにおいを撒き散らしながら、階段をひたひたと登ってくる。
「人間は早い方がいい、嬢ちゃん。ぬるくなった血は不味い」
しゃがれた声。笑った瞬間、その口の奥に鋭い牙が光った。
雫は一歩踏み込み、刀を水平に払った。
金属同士が打ち合うような、不快な悲鳴。
次の瞬間、吸血鬼の首が宙を舞った。
刀身に、闇色の靄が絡みつく。それがスッと彼女の額へ吸い込まれた。
視界が一瞬、真っ白になる。
息をつき、辺りを見る。
だが――
そこにあるはずの「妹と並んで歩いた通学路」の映像が、頭の中から滑り落ちていった。
思い出そうとしても、どうしてもその道筋が浮かばない。
「……また、ひとつ」
吐き出すように、呟く。
勝利の代償は、痛すぎる。けれど、それでも――
雫は刀を握りしめたまま、夜を睨んだ。
耳元で、低く澄んだ声がした。
気づくと、銀髪の青年が屋上の縁に腰掛けていた。
月明かりを受けたその目は、宝石のように赤い。
「面白い道具だな。それは――血刀、だろう?」
雫は息を呑む。
青年は牙を見せもせず、静かに続けた。
「お前、まだ知らないだろう。奪われた記憶は――返ってこない。
それでも、振るうか?」
彼の瞳には、奇妙な同情が浮かんでいた。
第一夜は、まだ始まったばかりだった。