── 第二章・基礎を刻む ──**
放課後の書道室には、和太鼓の低い音が途切れ途切れに響いていた。
太鼓のリズムに合わせて、部員たちがそれぞれの布の上で黙々と筆を動かしている。
詩織の目の前には、白布がまるで大きな海のように広がっていた。
その上に、今日だけでも何度も書いてきた同じ文字――「一」。
咲良先輩の声が、背後からやさしく響いた。
「詩織ちゃん、その線――腕じゃなくて肩から動かしてみて。」
詩織は息を整え、両足を少し開いて重心を低くする。
筆の重みを、腕ではなく背中に預けるように意識する。
「いち、に、さん……」
心の中でゆっくり数を刻みながら、筆を滑らせる。
布の上に太い直線が生まれ、墨の香りがふわりと鼻をくすぐった。
隣では、美琴先輩が軽やかに筆を動かしている。
彼女の線には、どこかリズムがあった。
見る人を楽しませるような跳ねと止めが、自然に生まれている。
美琴先輩が筆を止めて、詩織に笑いかけた。
「詩織ちゃん、肩が固いー!
リラックスリラックス! この音に乗って、筆を踊らせるんだよ〜!」
そう言って、美琴先輩は太鼓のリズムに合わせて小さく腰を揺らしてみせた。
詩織は思わず吹き出して笑ってしまう。
「踊る、って……筆なのに……!」
美琴先輩はウインクをして答えた。
「だってパフォーマンス書道だもん! 書くのも踊りだよ!」
向こうでは、楓先輩が新入部員の大地に指導している。
「足元見ない! 前を見ろ!
『一』は力強いんだから、最後まで気持ちを切るなー!」
大地は汗だくになりながらも、何度も何度も大筆を振り下ろしていた。
咲良先輩が、再び詩織のそばにしゃがむ。
「詩織ちゃん。
文字は、きれいに書こうとしなくていい。
君の中にある力を、そのまま線にしてみて。」
咲良先輩の目はとても優しいのに、どこかで強い光を湛えていた。
詩織は小さく息を吐いた。
太鼓の音が胸の奥に響く。
墨の匂いが、気持ちを研ぎ澄ませる。
今度こそ――
書こうじゃなくて、ぶつける。
詩織は力いっぱいの「一」を布に刻んだ。
筆先が走るたび、ほんの少し掠れた線ができたけれど、不思議と悔しくなかった。
咲良先輩が、静かに頷いて言った。
「……そう。それが、詩織ちゃんの線だ。」
外では、夕陽が西の空を朱に染めている。
書道室の中では、墨の匂いと太鼓の音が、まだまだ鳴り止む気配はなかった。