── 第二章・はじまりの筆 ──**
四月の風が、まだ少し冷たい。
桜の花びらが舞い落ちる坂道を、詩織は鞄を抱えて駆けていた。
靴の音が弾むたびに、胸の奥で小さな声がささやく。
「今日から……私も、書道部……!」
部室の前で、一度だけ深呼吸をする。
昨日までは扉の向こうに行くのが怖かったのに、今日は少しだけ楽しみで仕方ない。
そっとノックすると、すぐに元気な声が返ってきた。
「はーい! あ、詩織ちゃんだ!」
扉を開けた美琴先輩が、満面の笑みで両手を広げた。
「入部届、持ってきた? ねぇねぇ、署名してくれた? じゃーん、これで君も書道部ファミリー!」
詩織は頬を赤くして小さく笑い、鞄から折りたたんだ入部届を取り出す。
書類を受け取った美琴先輩が、おどけて高々と掲げた。
「部長ー! 新しい仲間が正式に入部しまーす!」
奥で大筆を手入れしていた咲良先輩が、顔を上げて笑った。
その笑顔に、詩織の胸が少しだけ熱くなる。
「ようこそ、詩織ちゃん。」
それだけの一言が、詩織には十分すぎるくらいに嬉しかった。
練習開始
机の上には、数枚の半紙と、先輩たちが使い込んだ大筆、小筆が並べられている。
硯に墨がすられていく音が、心地よく耳に響いた。
咲良先輩が、大筆を持ちながら詩織の隣に座る。
「今日は、書道部の基礎を教えるね。
詩織ちゃん、昨日は小筆で『花』を書いてくれたから……今日は大筆に挑戦してみようか。」
大筆。
あの体育館で、咲良先輩が大布に揮毫した、あの筆だ。
目の前で見ると、自分の腕よりも長くて、思わず尻込みしてしまう。
「お、重そう……」
小さく呟くと、美琴先輩が隣でくすっと笑った。
「最初はみんなそう思うんだよ〜! でも慣れたら楽しいから!」
咲良先輩が、筆の握り方を優しく教えてくれる。
「肩に力を入れないで、筆の重さを信じてみて。」
「線は腕で書くんじゃなくて、体で流す感じ……そう。」
詩織は、言われた通りに筆を布の上へ下ろす。
墨が広がり、思った以上に太い線が一気に生まれた。
「わぁ……!」
びっくりした声に、美琴先輩と大地が拍手をする。
咲良先輩の声が、すぐ耳元でささやいた。
「詩織ちゃんの線は、いいね。まだ小さいけど、ちゃんと息をしてる。」
咲良先輩の言葉は、褒め言葉というより、何かを確かめるみたいだった。
でも、詩織は胸がいっぱいになって、小さく「ありがとうございます」とだけ言った。
終わりの合図
基礎練習がひと段落すると、みんなで机を拭いて、筆を丁寧に洗う。
美琴先輩が言った。
「この時間が好きなんだよねー。なんか、部活が終わっていく感じがして。」
楓先輩が後ろからいたずらっぽく声をかける。
「でも、本番の練習はこれからだよ! 詩織ちゃん、体力つけておかないとだめだからね〜!」
詩織は、筆を洗いながら小さく笑った。
「はい……がんばります!」
その声は、昨日までの自分より、少しだけ大きかった。