── 第一章・咲良の独白 ──**
部室に誰もいなくなると、急に墨の匂いが濃くなる気がする。
夕方の部室は、昼間よりずっと静かだ。
窓の外では運動部の声がまだ響いているのに、この部屋だけが時間の外に取り残されているみたいだった。
咲良は、机の端に置かれた大筆をそっと持ち上げた。
もう何度も握ってきたはずの重さが、今日は少しだけ遠く感じる。
「……っ。」
筆を握る右手に力を込めると、手首に巻いたテーピングが、わずかに擦れてきしむ音がした。
無意識に奥歯を噛む。
ごまかせているつもりでも、もう長くはもたないかもしれない。
詩織の書いた「花」が脳裏をよぎった。
あの線は、なんの淀みもない。
怖いくらい素直で、まっすぐだ。
(いい後輩が来たな……。)
そう思うと同時に、胸の奥で苦いものが疼く。
――私には、もう、あんな線は書けない。
指先が震えるようになったのは、いつからだっただろう。
大会に出るたび、賞を取るたび、周りから期待されるたびに、
「書けない自分」を隠す技術だけが上手くなっていった。
この『桜嵐』は、私の集大成だ。
誰にも言っていないけれど、これを最後に大筆を置くつもりだった。
だからこそ、完璧に仕上げたい。
……でも、筆は待ってくれない。
咲良は机に筆を置き、手首をさすりながら目を閉じた。
扉の向こうで、小さく誰かの笑い声が聞こえた気がした。
きっと、まだ残っていた美琴か楓が、廊下で話しているのだろう。
「……ごめんね、みんな。」
誰にも届かない声で呟いて、咲良は静かに笑った。
どんなに手が震えても、部長としての顔だけは崩すわけにはいかない。
あと少しだけ――あと一度だけ、夢を咲かせる。
もう一度だけでいい。
『桜嵐』を、あの子たちに見せてあげたい。