── 第一章・仮入部の日 ──**
部室の机の上に置かれた一枚の半紙を、詩織はじっと見つめていた。
咲良先輩が磨ってくれた墨の香りが、ほんのりと鼻をくすぐる。
「そんなにかしこまらなくていいよ、詩織ちゃん。緊張するよね。」
斜め向かいで笑っているのは、美琴先輩――MC担当の先輩だと、さっき自己紹介で教えてくれた。
詩織は声が出せなくて、こくりとうなずいた。
右手には、咲良先輩から渡された小筆が握られている。
指先にまだ力が入らず、筆の先が小さく震えた。
「はい、じゃあ――まずは好きな文字を書いてみようか。お題とかはないから。」
咲良先輩がそっと言う。
その声には、不思議と背中を押される温かさがあった。
「……す、好きな文字……」
思わず小さく声が漏れた。
筆を構えて、半紙にゆっくりと筆を下ろす。
墨が滲んで、白い紙に一筋の線が生まれた。
詩織が選んだ文字は――「花」。
書き終わった瞬間、顔が熱くなるのを感じた。
何を書こうか迷って、結局あの桜の舞う景色を思い出してしまったのだ。
「わぁ……かわいい文字だね!」
美琴先輩が覗き込んで、小さく拍手をしてくれた。
詩織は思わず恥ずかしくて、両手で半紙を隠した。
咲良先輩が笑いながら、そっとその手をほどく。
「上手だよ、詩織ちゃんの『花』。
線がやわらかくて、素直な筆だね。」
やわらかい。
素直な筆。
そんなふうに誰かに言われたのは、初めてだった。
奥の机では、舞担当の楓先輩と詩織と同じ一年生の大地が、花吹雪を作っている。
切り絵の桜が小さな箱にどんどん積み重なっていく。
楓先輩が気づいて手を振った。
「詩織ちゃん、いい感じじゃん! 私も後で一緒にやるから教えてねー!」
詩織は恥ずかしさで声が出ず、ただ小さく笑い返した。
それだけで、胸の奥が少しずつほぐれていく。
部室の外では、夕焼けが窓を赤く染めている。
誰かの笑い声と、硯を洗う水音。
墨の匂いと紙のざらつき。
全部が、詩織にとってはまだ知らない世界だった。
片付けのとき、咲良先輩がそっと肩に手を置いた。
「詩織ちゃん、また明日も来れる?」
詩織は、今度は迷わず頷けた。
「……はい。」
自分の声が、思ったよりはっきりしていて、ちょっとだけ誇らしかった。