── 第八章・嵐の息吹 ──**
体育館の照明が少しずつ落とされ、観客席がざわめきを潜めていく。
暗幕の向こう――
ステージ袖には、墨と太鼓と人の息遣いだけが詰まっていた。
詩織は胸に手を当てて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
耳鳴りのように、自分の心臓の音がはっきり聞こえる。
すぐ隣で、太鼓のバチを握る大地が、低く小さく息を吐いた。
いつも寡黙な彼の手首も、わずかに震えていた。
「……大地くんも、緊張するんだね……。」
詩織が小声で言うと、
「……あたりまえです。」
短く、でも確かな声が返ってきた。
美琴は楓と顔を見合わせ、互いの肩をポンと叩き合っている。
楓がふっと笑った。
「失敗しても死にはしないって言い聞かせてんの。」
美琴が続ける。
「でも失敗したくないから手ぇ冷たくなってるんだよねー。」
二人はお互いの手を握り合い、わざとらしく肩を揺すって笑った。
咲良は袖の壁に背を預けて、静かに全員を見渡した。
自分の右手を隠すことはもうしない。
包帯の上から左手でそっと握り、心の中で言葉を繰り返す。
(……大丈夫。
ここに立っているだけで、私は十分だ。)
舞台袖に置かれたバケツの水に、太い筆が並んでいる。
墨壺から立ちのぼる香りが、やけに深く肺を満たした。
詩織は深く一礼して、仲間たちに声をかける。
「……全部、書き切ります。
先輩の分も、私の線で。」
咲良がそっと頷く。
「頼んだよ、詩織。」
幕の隙間から、体育館の観客席がちらりと見えた。
生徒たちの顔。先生方の姿。親子連れ、地域の人々。
誰もが、次の瞬間を待っている。
舞台監督の生徒が、袖に駆け寄ってくる。
「……あと一分です。」
心臓が、また大きく脈を打つ。
太鼓のバチが汗で滑りそうになる。
筆を握る手が、ぐっと強くなる。
楓が小さくつぶやいた。
「吹き飛ばそう、全部。
この布の上に、全部置いて帰ろう。」
美琴が笑った。
「せーの、で行こう!」
咲良が静かに告げる。
「行こう――
私たちの『桜嵐』を、起こすんだ。」
その声が合図だった。
袖の暗がりから、詩織が一歩、舞台の光へ踏み出した。