── 第六章・前夜の風 ──**
文化祭前夜。
学校はすでに誰もいない時間。
書道部の部室だけが、小さな灯りを漏らしていた。
大布はすでに体育館の舞台裏に運び込まれた。
残るのは、最後の確認と、それぞれの心の整理。
咲良は部室の畳に座り込んで、左手でそっと筆を動かしていた。
すぐ隣には詩織が、墨の補充用の小瓶を抱えて座っている。
「……本当にもう書かないんですか?」
詩織の問いに、咲良は少しだけ笑った。
「うん。明日は詩織が全部書く。
私は……君たちを、ちゃんと見届ける。」
静かな墨の音だけが響く。
美琴と楓は、机に突っ伏したまま眠っていた。
緊張と疲れで、ほんの少しだけ夢の中にいる。
大地は体育館に戻り、太鼓の最後のチューニングをしている。
きっと、誰よりも音の細部にこだわっている。
詩織は小さく呟いた。
「怖いです……。
今までで一番大きな文字を書くんですもん……。」
咲良は詩織の手を、包帯を巻いた右手でそっと握った。
「大丈夫。
君の線はもう、私の線を超えてるよ。」
詩織の瞳が潤んだ。
「咲良先輩……泣かせないでください……。」
その時、机で寝ていた美琴が顔を上げてぼんやり笑った。
「……何泣いてんの〜。
明日は泣く暇ないからな、詩織ちゃん!」
楓も目をこすりながら、眠そうに言う。
「嵐、止める気ないからね。
全員で吹き荒らして、校舎ごと飛ばすつもりだから。」
詩織は涙を拭い、大きく息を吸った。
「はい……絶対、やり切ります……!」
咲良は眠気に耐えながら、小さく心の中で呟いた。
(……ここまで来れた。
私が書けなくても、みんなが書いてくれる。
だから大丈夫――。)
窓の外には、静かな夏の星空が広がっていた。
『桜嵐』の前夜。
それぞれの胸に、風が吹いていた。