── 第四章・初夏の息吹 ──**
地域文化祭の準備に追われる合間を縫って、
咲良が提案したのは「初夏の課題作品」の制作だった。
部室の窓を開け放つと、まだ少し青さを残した風が畳の上を撫でていく。
部員それぞれの目の前には、真新しい半紙と筆、そして小さなすずり。
咲良が座ったまま、みんなに語りかける。
「本番の嵐を起こす前に、一度心を静めよう。
初夏の空気を一文字にして、自分の線を確かめて。」
美琴は筆を立てたまま首をかしげる。
「『初夏』か〜……
私、こういうとき何書けばいいんだろ。
『青葉』とか?」
楓が笑って隣で言う。
「美琴は『陽炎』とか似合うんじゃない?
フワフワしてるし。」
「む! フワフワってどういう意味!」
大地は黙って筆をすずりに浸し、もう迷いなく『涼』の字を書き始めていた。
しんとした静けさの中で、半紙に墨が染み込む音がやけに心地いい。
詩織は、自分の前の半紙をじっと見つめた。
(……何を書こう?
咲良先輩の代わりをするんじゃなくて、
私の線で、この季節を――。)
迷いながらも、ゆっくり筆を運んだ。
『風薫』
かすかに揺れるような、その二文字に
そっと初夏の風を閉じ込めた。
咲良は右手を庇いながら、左手で小さく文字を書いていた。
筆先には迷いがなく、柔らかく、でも芯の通った線。
その字を見た詩織の胸に、また小さな灯がともる。
全員の作品が並べられると、部室の中は
まるで静かな季節の詩集のようだった。
『涼』『陽炎』『薫風』『萌黄』『水鏡』――
同じ初夏でも、書く人によって全く違う線が生まれる。
楓が作品を見回して笑った。
「不思議だね。
書道って、こんなに一人一人違うんだ。」
咲良が優しく言った。
「だから面白いんだよ。
みんな違うから、一つの舞台で一つの『嵐』になるんだ。」
詩織は自分の『風薫』をそっと両手で持ち上げた。
(私の線で……
咲良先輩とみんなの『桜嵐』を、絶対に完成させる。)
小さな誓いが、静かに胸の奥で芽吹いた。