── 第四章・痛みの向こう側 ──**
リハーサルが終わった体育館。
誰もいないステージの上に、咲良は一人で座り込んでいた。
照明が落ち、太鼓の音も、部員たちの笑い声も遠ざかった後。
ひときわ静かな空気の中で、咲良は右手をそっと見つめる。
掌から手首へ――
微かに赤く腫れた指の付け根が、ずきりと脈打つ。
何度も墨を擦り、何度も大筆を振り切った。
痛みはずっと前からあったけれど、認めたら書けなくなる気がして――
だから黙っていた。
そっと握りしめると、鋭い痛みが走る。
思わず小さく息が漏れた。
「……っ、……はぁ……」
「咲良先輩……?」
不意に、背後から詩織の声がした。
咲良は慌てて手を隠すが、もう遅かった。
詩織は息を弾ませ、心配そうに近づいてくる。
「先輩……手……どうしたんですか?」
咲良は笑顔を作ろうとしたが、上手くいかない。
「……大丈夫だよ。少し、酷使しすぎただけ。」
詩織は咲良の隠した手を、そっと両手で包んだ。
指先に触れると、熱を帯びているのがわかった。
「……大丈夫じゃ、ないじゃないですか。」
詩織の声は震えていた。
美琴と楓も、遅れて体育館に戻ってきた。
状況を一目見て、二人の顔色が変わった。
「ちょっと、咲良! 何これ、どういうこと!」
美琴が低い声を出すのは珍しかった。
咲良は小さく息を吸い、苦笑した。
「ごめん……本当に、大丈夫だから……。
ほら、まだ動くし――」
だが、試しに軽く握った瞬間、思わず肩が跳ねるほどの痛みが走った。
楓が詩織の隣にしゃがみ込み、咲良の手を優しく掴む。
「……もう、嘘つかないでよ。
みんなで『嵐』を起こすんだって言ったの、咲良だろ?」
詩織の瞳には涙が滲んでいた。
「咲良先輩が一番無理してたんじゃないですか……。
私に任せるって言ったのに……!」
咲良は俯き、小さく震える声で答えた。
「……ごめん……。
どうしても……最後まで、書きたかった……。
みんなと一緒に……。」
誰も咲良を責めなかった。
責められるわけがなかった。
だからこそ、詩織は強く誓った。
「じゃあ、私が書きます。
咲良先輩の分まで……絶対に、書き切りますから!」
楓と美琴が詩織の背中に手を置く。
大地も黙って体育館の隅から近づき、静かに頷いた。
咲良の目に、滲んだ涙が一粒、頬を伝って落ちた。
「……ありがとう。
私の大好きな、最高の書道部だよ……。」