── 第一章・入学 ──**
四月。
桜が舞う駅前のロータリーを、詩織はぎこちなく歩いていた。
真新しい制服の襟を何度も指でつまんで直すけれど、緊張で喉が渇いて仕方ない。
「大丈夫、大丈夫……」
誰に聞かせるでもない小さな呟きが、風にかき消される。
駅前から学校までは徒歩十五分。
昨日までは地図の上だけの道のりだったのに、今は制服姿の新入生たちの列が、どこか頼りなく続いている。
ふと、前を歩く男子がふり向いて笑った。
「入学式ってさ、親と来るもんじゃね?」
その隣の友達が笑い返す。
「うちの母さんも最初は来るって言ってたけど、朝起きれなかったって。」
詩織は目を伏せて、歩調を少しだけゆるめた。
同じ制服の子たちは楽しそうに話しているのに、自分だけがひどく遠いところに立っている気がする。
校門が見えたとき、あまりの人だかりに思わず立ち止まった。
正門には「祝 入学式」の看板が大きく掲げられていて、その前で保護者や新入生が次々に写真を撮っている。
詩織は一人で、スマホをポケットに入れたまま、人波の隙間を縫って中へ入った。
体育館はまだ少し寒かった。
列に並んで座っていても、背中をぴんと伸ばしていないと、どこかへ流されてしまいそうだ。
壇上では、校長先生が長い祝辞を述べていた。
耳に入ってこない。天井を見上げると、照明の光が霞んで揺れている。
式が終わると、上級生たちが一斉に体育館の壁際に並んでいた。
部活の勧誘だ。色とりどりのポスターが一瞬で視界を埋める。
演劇部、吹奏楽部、テニス部、放送部……。
どこへも近づけないまま、詩織は立ち尽くした。
そのとき、不意に耳に飛び込んできたのは、和太鼓の音だった。
ドン――ッ。
低く重い一打が、空気を震わせた。
人の輪の向こうで何かが始まっている。
気づけば、詩織は人混みを押し分けていた。
視界の奥、体育館の中央に広げられた大きな白布の上で、紺色のはかまを着た女の子が大筆を振りかぶっている。
それは、まるで桜吹雪をまとった剣舞のようだった。
太鼓のリズムに合わせて、布の上を駆ける足音が聞こえる。
筆が走るたび、黒い線が生き物みたいに布を泳いでいく。
客席の歓声も、後ろのざわめきも、すべて遠のいていた。
筆を置いたその子が、観客に向かって深く礼をした。
詩織の胸が、ドクン、と音を立てた。
「……すごい……」
小さくこぼれた声は、もう風には消えなかった。