第二話 寝起き
「よろしくね、私ヒナノ!」
こいつ——有栖川日菜野は、ブラックホールをいとも簡単に相殺してしまうほどの軽さと明るさで、玄関までついてきたこいつ——ユイに挨拶をする。
ユイが戸惑い、おろおろしながら手を前に出すと、まるで蛇のような恐ろしい瞬発力と速度で、捕食者の如くその手を狩り取った後、握手をして腕を縦にぶんぶんと振りまくった。ユイが恐怖し、同時に全く悪意のない日菜野の笑顔を見て戸惑い、目尻に海水の約三三パーセントの塩分濃度を持った水滴が浮かび始める。
……本当に、嘘だと言ってくれ。俺の頭はイカれちまったのか?まるで、井戸から出てきた伽耶子を傍目に、貞子とウェディングケーキに入刀するほどあり得ない現象がこうも連続で起きてしまうと、脳味噌ってのは処理できない情報を溜め込んで、内部爆発を起こしてしまうらしい。現に俺は、整理しきれずに全く同じ光景がデジャヴのように投影された夢の中で、レム睡眠の波を何者かに抑え込まれたまま長続きした、たった一度のノンレム睡眠を終えようとしている。
「すぅ……すぅ……むにゃ……すうぅ……すぅ……」
現実世界に意識が徐々に向き始めた。もういっそ、このままもう一度寝たいと思えるような不規則で心地の良いアラームが、仰向けで寝ているであろう俺の右耳を無事に昇天させていく。もしこんな代物を作り上げた開発者がいたのならば、そいつは目覚まし時計に親を殺されたような奴なのだろう。規則的で耳を腐らせていくあの音に戻る日常など、もう二度と考えられない。まあ、まだ初日なんだがな。
そんなことを考えているうちに、次第に瞼にかけられていた時間停止魔法が効果切れを起こし、徐々に網膜に光が差し込み始める。
さあ、火曜日の朝が来た。絶望の朝だ。火曜日とは、最も人間に苦痛を与える曜日である。
もし、苦しみという概念を数値化できる何らかのシステムが開発されたならば、その世界的総量が最も多くなるのは、もちろん火曜日であろう。
掃除の行き届いた休日明けの心を汚すためだけに存在していると言っても過言ではない月曜日に受けた致命傷を抱えつつ、二十四時間一四四〇分、辿り着くことのない水曜日という名のチェックポイントに向けて歩き続ける。
そんな、閻魔だろうがキリストだろうが仏陀だろうが、恐れ、畏怖する最恐の曜日。それこそが、火曜日なのである。
そんな、瀕死確定の一日を余儀なく過ごすことに対し、無理矢理に決意宣誓をさせられる早朝の苦しみは、皆にも十分、いや、十二分に分かってもらえるだろう。
だが、今日の俺は一味違う。
火曜日に対する恨みつらみを心の中で呟きながら、上眼瞼挙筋とミューラー筋のウォーミングアップを終えた俺は寝床からゆっくりと起き上がる。この間約百三十四秒。
そして、完全に開き切ることに成功した瞼をこすりながらベッドの壁側を確認する。
結果——いる。
生まれてこの方、大量のラノベやら漫画やらを読み漁ってきた。その中で、特に異世界転生モノを読んでいる時に、毎回とても気になっていたことがあるのだ。それが、「異世界と元の世界の時間軸は一緒なのか?」という疑問。
異世界ではない極端な例ではあるが、みんなお馴染み、あの四角い世界に俺が転生したと考えてみよう。
誰もいない孤独感はさておき、あの世界では約二十分の間に昼夜が変化していく。つまり、一日の就寝時間を約六時間と仮定すると、就寝中に大体十八回程度夜明けが来る計算になるわけだ。たった二十回連続で就寝を繰り返すだけで、誕生日プレゼントが貰えてしまう世界。そんな状況に、実際問題陥ってしまうのだろうか? じゃ、本題に戻ろう。
昨日のユイの動向だが、キコルが俺の家から出て行った後、ふらふらした様子でベッドに戻って寝落ちした。そして、おおよそ八時間程度が経った後、帰宅部の俺が学校という名の戦場、教室という名の激戦区、廊下という名の塹壕から無事自宅に生還したタイミングで目を覚ました。
これは完全に俺の考察の範囲内であるが、ユイが向こうの世界で死んだときの瞬間を描いたであろう絵の中で、ユイの周りを囲む屈強な大男どもは完全に酔い潰れていたのだ。つまり、あの絵の内部時刻は酔い潰れる人が続出するであろう、飲み会がお開きになる直前の深夜過ぎから朝方。
もしこれが本当ならば、「時差ボケは生じない」、と考えるべきであろう。昨日俺が寝たのは深夜の二時ごろ。その後七時過ぎまでに異世界でユイが殺され、こっちの世界に逆転生を果たしたと考えるならば、どちらの世界線でも時間軸は変化しない、という結論が出る。
もう一つ根拠を挙げるとするならば、完璧な体内時計を所持しており、惰眠を貪るという素晴らしい経験を味わえない哀れな人種ども以外が目覚ましなしで眠った場合、基本的に八〜十時間程度で目を覚ますことになるだろう、という点である。
まさか、現実世界で起こったことを、フィクションから得た知識で考察する日が来るなんてな。
俺はそんなことを考えながら幸せそうに眠るユイの涎を指で拭い、優しく微笑みかける。その透明な液体で煌めく人差し指を加えるのか、だって? 否、それは俺の、あった所で意味のない残酷な理性の働きかけによって未然に防がれた。
俺は、理性のマインドコントロールによって、反射的に手を水で洗い流す。石鹸で洗わなかったのは、俺の本能が必死に抵抗し、爪痕を残そうとした結果であろう。
俺が洗面所から戻ると、ベッドの上で座り込、むにゃむにゃと寝惚けながら、大あくびをかますユイの姿があった。
ここ一日半の間で俺が見た彼女の姿は、眠っているところと絵を描いているところと、涎を垂らしながら眠っているところと、意味不明な謎言語で寝言を呟きながら眠っている所だけである……ああ、寝る直前に飯を食っていたな、その後歯磨きをさせた直後に寝落ちして、現在に至るが。
「……おはよう、ユイ」
銀の長髪は、相変わらず鏡のように艶めいている。流石に洗濯していない服で二回も寝られちゃ困るので、俺の学校指定のワイシャツを貸してやった。なぜわざわざワイシャツか? そりゃあ、純粋な欲望である。居候させて、飯まで食わせてやったんだ、流石にバチは当たらんだろう。
面白いことに、頭の左右側面に盛り上がるような寝癖がついていた。まるで猫だな……超大型の。
「ウラ・ラ、ユ?」
まさか、「おはよう、ユ」と言っているのではあるまいな。「ユ」って。俺はユウキだぞ?
「……なあ、床で寝るって手はどうだ?俺も落ち着かないんだ、お前だってそうだろ?」
きょとんとしているユイ。
それはシングルベッド、一人用なんだよ——、そう伝えられるようになるのは、まだまだ先になりそうだな。
まだ初日だが、平和で、前よりも豊かで少しだけの背徳感を抱く毎日を、俺はこれから歩んでいくのだろうか。ずっと、続いていくのだろうか……いや、違うな。
続いていってほしい。
そう、俺は全知全能の奴らに祈っておくとするよ。