第一話 逆転生美少女
閉じた瞼の裏が、段々と漆黒から淡い紅色に染まっていく。こちらをざまあねえなとでも言うかの様に大地を照らす太陽様が、平日という名の地獄の始まりを告げていた。
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ああ、目覚まし時計が鳴っている。もうやめてくれ、その単調な音。耳がおかしくなりそうだ……ん?
毎朝、一人暮らしの俺の部屋で鳴り響く音。それは、いつも通りならばその普遍性のみを保つ悪魔の朝礼だけだったはずだ。いつも通り、ならな。
「……はっ?」
ベッドの中、壁に背を向け、吐息だけで昨日使用した歯磨き粉の種類が分かるほどの近距離で、丸まったまますうすうと寝息を立てている美少女がいた。おいおいおい、状況が追いつかないぞ。
俺は、混乱する脳内を必死に処理するためにすぐさま布団を引っぺがしながら、ゴミ箱を確認する。
どちらも、服を着ていた。俺は、いつも通りのジャージ。謎女は、真っ白なドレスのようなものを身につけている。幸いなことにゴミ箱の中やベッドの周囲にも、そういう類のものは見当たらなかった。
「ふぅ、よかった……」
ひとまず、一番恐れていた俺の懸念——俺が、無理やりこの女を連れ込んで襲ったんじゃないか——は杞憂に終わったわけだ。なら……
「こいつ、誰だ?」
昨日の記憶は、鮮明に残っている。日曜日を満喫するため一日中FPSに勤しみ、寝る直前に宿題が終わっていないことを思い出して慌てて終わらせた。就寝時間は、大体深夜の二時。
つまり、未だ俺のベッドで腹を見せ、涎を垂らしながら幸せそうに寝ているこいつは、俺が一度目のノンレム睡眠を開始した二時過ぎから、パニックで脳の活動がフル稼働を始めた現在時刻の七時以前。このどこかで、俺の部屋に忍び込んだと考えられる……と、そんな事を考えている間に、ベッド上の謎女がゆっくりと瞼を開けた。
「ん……むにゃ……」
こちらを向いた美人。右目が白、左目が緑のオッドアイは宝石の様に煌びやかで、寝癖がアホみたいについた銀の長髪は鏡の様に爛々と太陽の光を反射していた。やっぱすげえな、垂涎ものだ……まあ、今のところはな。こいつには、俺に夜這いを仕掛けようとした疑いがまだ残っているんだ。こんな奴に仕掛ける馬鹿はいないってか?……やめてくれ、傷つくじゃないか。
「……お、おはよう?」
人間的最低限の礼儀として、取り敢えず挨拶をしてみる。だが、どっかのラノベのメインヒロインを叩きのめすほどの美貌と胸を持ったそいつは、きょとんとした顔のまま何も言わない。数秒の沈黙ののち、ようやく口を開き始めた。
「リ……ナァ、タ・イ……ユ? クウ……ア、シューメ!」
「……はっ?」
一日の、しかも数分の間でこうも繰り返し唖然とする経験など、この先の生涯、何度生まれ変わってもあり得ないだろう。え、何? その呪文みたいなやつ。一体何語だ?
授業で英語を習い、韓ドラを齧り、中華サイトを駆け巡り、色んな国の映画やらゲームやらを主音声で嗜んできた俺でも、全く理解することができなかった
かの有名なソシュールでさえもこの言語を聞いたら卒倒し、全ての言語学が終焉を迎えるだろう。それほどまでに、彼女の言葉は全く聞き覚えのないものであった。
「……あー、ワタ・シィ……ワカ……ラ・ナイ」
「……?」
……適当言ったが、案の定伝わらないか。そう思っていると、全身の毛穴という毛穴の存在を神に抹消されたかのようなきめ細やかな肌で全身を覆った彼女はベッドから降り、可愛らしい、オロオロとした表情と身振り手振りで何かを伝えようとする。
……なんだ? 左手で、何かを押さえている? 右手は……ああ、そういうことね。
彼女は右手で、ペンを持つような仕草をしていた。恐らく言語交流が不可能だと判断し、絵を描いて何かを伝えようとしているのだろう。
ちょっとだけ、待ってくれよ。そう心の中で呟きながら、俺は学校の指定鞄に入れていたルーズリーフとマジックペンを彼女に差し出した。
彼女がそれを俺の手から奪い取り、黙々と何かを書き始める。
……数分くらい経っただろうか。俺は、彼女から渡されたルーズリーフ数枚を見て、驚愕した。
「……絵、うっま……」
なんということだろう。まるでピカソの抽象絵画を真っ向から否定するようなリアリティと臨場感。俺が渡したのって、マジックペンだよな?これを、今すぐ俺名義でオークションの競売にかけたら一生ノージョブのまま遊び暮らせるだろう。それほどまでに繊細で、感動的な写実絵画だった。
……と、感動している暇はない。こんな所今すぐにでも飛び出して画家になり、億万長者の豪邸暮らしをするべきなんじゃないかと思えてくるこの少女はこの絵を使い、現在進行形で俺に何かを伝えようとしているのだ。えっと……
一枚目
真っ白な服を来た女性に何者かがタックルのような動作をしている。その手には、ナイフのようなものが握られており、その周辺部分が黒色に染まっている。
二枚目
女性が倒れ、周りの人が集まってくる。先のナイフ野郎が引き剥がされ、ボコボコにされている。
三枚目
場面が変わり、真っ黒な空間。その先に、一筋の光が見える。そこに向かって女性が必死に駆けている。
四枚目
女性が光の元へ辿り着き、それに触れると視界が明転する。
五枚目
俺の部屋が描かれている。絵の中の俺自身が、唖然とした表情で現実世界の俺を見つめている。
……要するに、だ。
「まさかお前……転生して来たのか?」
意味がわかっているのかは分からないが、彼女は勢いよく首を縦に振った。なるほど、転生か……なる、ほど……
「……いやいやいや、転生とか簡単に受け入れんな俺! だいぶおかしいどころの話じゃねえぞ!?」
思わず大声が出てしまう。彼女が少しだけ驚いたような表情を浮かべる。すまないな、それだけ、とんでもないことなんだよ。
……とはいえ、明らかに地球のものとは思えない謎言語。俺の自宅という名の完全密室の中に音もなく入り込み、よもや俺のベッドで添い寝までしていたという、色んな意味での謎現象。上手すぎる、赤子だろうが老人だろうが、猿でも理解出来るんじゃないかというレベルで状況経緯が描かれた五枚のルーズリーフ。
これはもう、認めざるを得ない。
「……お前、名前は?」
「……?」
「あー、そうか……」
俺はそう呟き、自分の胸を指差しながら言う。
「オレ、ユウキ! カミシロ、ユウキ!」
そう言った俺——神城結城の言葉を理解したのか、目の前で未だ困惑気味の彼女の目に、少しだけ喜びの顔が浮かぶ。
“逆転生”——そう、俺がついさっき名付けたその謎現象の餌食になったであろう目の前の女は、俺と同じように自分の胸を指差しながら言った。
「ユイ! ユイ!」
そうか、こいつの名前は“ユイ”と言うのか。
そう言った彼女——ユイは、元気良く俺に手を差し出してくる。
「アス・ラ、ユウ!」
“よろしく、ユウ”とでも言っているのかな。挨拶一発目からあだ名とは、こいつとはすぐに打ち解けられるかもしれんな。そんなことを考えながら、俺もユイの真似をして挨拶をしてみる。
「アス・ラ、ユイ!」
俺はそう言いながら、彼女の手を強く握った。
……あれ、なんかこれ、俺がこいつをここに住まわせる感じの流れになってね?それって——
ピンポーン
その音を聞いた俺は、現時点で頭の中を駆け巡っていた思考という名の超高速レースを強制中断させた。何、簡単なことさ。言語が通じない謎女、ユイを、ここに居候させるだけ。そう思いながら、俺は何も考えずにドアを開けた。
「遅いじゃない結城、また寝坊!? ほら、早く制服着て——って、誰? その子」
……まずい、完全に忘れていた。俺の天敵であり、俺の世話役であり、俺の幼馴染でもある——
「え、めっちゃかわいい! よろしくね、私ヒナノ!」
有栖川日菜野——俺が、絶対にユイと会わせたくない、いや、会わせてはいけなかったはずの女であった。