あらま、クリスったら感傷モード?まだ早いわよ♡
あらあら、クリス、一人で考え込んじゃって~☆
ここからが本番よ♪
(by 亡霊姫★)
(これで、最低限の準備は揃えた……)
深く息をつく。最近は浅い呼吸が多かった気がする。
これではお腹の子にも良くないかもしれないと、ゆっくりと撫で擦った。
アーゼリット侯爵たちは頼もしくはあるが、寵姫派と真っ向から敵対したが故に、武力や財源という意味では心許ない。
政敵を弱らせる目的で何かと理由をつけて押収されたようだ。
更に宮廷との距離もあり、彼らの力だけで王都を獲ることはできない。
裕福かつ王宮と近しく、かつ完全に敵に取り込まれていない貴族の助力が必要だった。
だがそういう者に限って狡猾で腰が重く、王妃を悩ませていた。
彼らを何としても引き込む必要があった。
ここからが正念場だ。一息つこうとすると声がかかった。
「王妃陛下、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何かしら、ファビエンヌ」
目を向けた先にいるのは、いつも顰め面しい表情をしている筆頭侍女だ。
後ろには帝国から連れてきた侍女も数人控えている。
彼女が話しかけてくるとは珍しいこともあるものだ。
「何故ここで、ご懐妊を公表なさったのですか?
彼らはこうなっては、いよいよ形振り構わなくなるでしょう。
御身とお子様に危険が及ぶのは避けられません」
そのことか、と合点がいく。
無論、危険であることなど百も承知だ。
それでも、危険を冒すしかない時と場合がある。
これまでは嫌がらせこそあったが、本格的な命の危機は無かった。
向こうもそれほど愚かではない。
王妃が死ねば、死因が何であれ即座に帝国との戦端が開かれることになると分かっていただろう。
それはお互いに望ましくない、だからこその婚姻だ。
だが、もうそんな段階は終わったのだ。
今回のことで一方的に殴り倒されて終わった寵姫側が大人しくしているわけがない。
危険は段違いになる――そんなことは分かっている。
分かり切っていた。それでも。
「多少の危険を引き受けてでも守らねばならぬものがあるのです。
どんな事情であれ、人目を忍び、こそこそと生まれた者を誰が敬いますか?
それが敵から身を守るためでっても、実際に何か後ろ暗いことでもあるのではと邪推される。
衆愚とはそういうものです」
そこで一度言葉を切り、深く息をつく。
薄青に沈んだ琥珀の瞳に、淀んだ感情が束の間浮かんだ。
思い出すのは母国の監獄にいた頃のことだ。
連日連夜飽きもせず、虫が沸き出るかのように、壁の隅から、床の罅から、格子の隙間から忍び込んできた囁き。
政変で転覆した王家と王族は好き勝手な伝聞で散々に貶められ、汚された。
それは政変後の活動を円滑なものにしたいという、悪意や策略もあった。
けれどそれ以上に、奴らは楽しんでいたのだ。
これまで己の上に君臨していた者を引きずり落とし、泥に塗れさせて、その様を見て笑うことを。
あちこちに反響して捩れる下卑た笑い声を今も思い出せる。
「そこに真偽も経緯も事情も関係なく、ただ、その方が面白いから。
一度広がった風評は取り消せません。
そうやって後々まで下劣な者どもの食い物にされる。
――王の生誕が、そのようなものであっていいはずがない」
妊娠など方便で、人知れず迎えた養子と言われるかもしれない。
実は王の子ではないなどと言われるかもしれない。
我が子がそんな噂に取り憑かれるなど、想像するだけで身の毛がよだつ思いがする。
ただでさえ生まれる前から敵だらけだというのに、そんな風聞が広まってはつけ込む隙を与えるようなものだ。
口さがない噂を封殺し我が子の正当性を訴える。
そのためには、正真正銘王の子であると大々的に喧伝した上で、王宮で産み落とす必要があった。
「どの道前哨戦も探り合いも終わり、そろそろ攻勢に転じるべき時期でした。
医師たちの尽力もあってどうにか安定期に入りましたし……
これから一層、貴女たちに苦労をかけると思います。
ですが全ては皇帝陛下の御意志を叶える為に必要なこと、わたくしを守ることが陛下の御心に沿うことであると信じなさい」
「はい、王妃陛下」そう声を揃えた返事が返ってくる。
ゆっくりと窓に向けて顔を反らした。
「聞きたいことはそれだけ?
……少し疲れました。下がりなさい」
「はい。差し出がましいことを申しました」
ファビエンヌは一礼して、侍女たちを引き連れ部屋を出ていく。
一人になったクリスベルタは、ぼんやりと虚空を見つめていた。
子供。この身の内に子が宿った。
これまで秘めてきたそのことを明るみに出すことは、改めて自らにそれを知らしめる効果もあったらしい。
心境に、波紋が広がるような変化が生じ始めていた。
空虚に静まった心にひたひたと、何かが滲み出してくる。
後戻りはもうできない。
それなのにどうしてか、水の中にでもいるように、不思議なほど心は静かだった。
(……この子をラシエがお護りにならないはずがない。
神のご加護があるのだから、きっと大丈夫)
腹に手を置く。
ここには次代のジディスレンの王がいる。
あんな紛い物ではない本物が。
王となるべくして生まれる男が。
それは予感ではなく確信だった。
けれどクリスベルタにとってそれは、最も重要なことではない。
大切なことはそんなことではない――。
腹に手を当てたまま、我が子に語りかける。
「あなたをここから連れ出してあげる」
自然と声がまろび出た。
誰もいない部屋に、その声は虚ろに響く。
構わず祈るように目を閉じる。
この子のためなら、何でもできる。
恐れるものなど何もない。
夜闇を照らす灯のように、それだけが確かに見えている。
「……あなたを。そこから連れ出してあげる」




