第十話 まずは一歩分の魔法を②
「…………」
王妃はふわりと視線をアーゼリット侯爵に向け、口を開く。
美しくも、掠れたような声だった。
「……この国の礼儀は、難しいものですね。
……ヴァリナ夫人もヨゼフも、私が至らぬばかりに、怒らせてしまってばっかりで」
「お怒りとは、たとえばどういう……?」
思いの外あっさりと舞い込んできた好機に、侯爵は慎重に返した。
王妃は伏し目がちに微笑み、目元に指を添える。
「いいえ、私がもっと早くジディスレンの流儀に慣れていれば、叱られることもなかったはずですから……。
二人とも、きっと良かれと思って……ただ、言葉が通じないと、何もかも誤解されてしまいますのね」
王妃はそう言って、はらりと涙を一粒落とした。
露のようなそれが、はらりと扇の上に落ちる。
綻びつつも堪えに堪えたものが、決壊したかのような一瞬だった。
王妃は暫し無言だったが、やがて絞り出すように声を落とす。
「――……わたくし……こんなにも疎まれるようなことを、してしまったでしょうか。
命からがら母国を離れ、国王陛下に嫁いで……やっと誰にも脅かされない安らぎを享受できると、思っていましたのに」
息も抑えがちだった。
僅かな風に枝葉が立てる音にすら、肩を震わせる。
王妃がどれほどの抑圧を受けて毎日を過ごしているか、ありありと知らせる姿だった。
アーゼリット侯爵はそれに、確信を強めた。
この王妃は巷で言われているような、人形のような人質ではない。
「……さぞかし、お辛かったことでしょう。
ですが、貴方はお一人ではありません。
少なくとも我々は、王妃陛下のお輿入れを心より歓迎しております」
万金に値する情報だ。
これで王妃が、教育係や通訳に苦しめられていることが確定した。
そして、彼と王妃は共通の敵を持つ者であるということだ。
彼は迷わず、王妃に励ましの言葉をかけた。
その脳裏に今の情報を活かすため、幾通りもの戦略を浮かべながら。
報復する時が来たのだ。
久しく封じていた、戦意と復讐心がこみ上げてくる。
けれど、それを表すのは今ではなかった。
「……味方になって下さるの?」
「ええ。
私に、ヴァルネート侯爵に、カルヴァン伯爵は確実に。
他にも王宮を追われた者たちは、当分お目通りは叶わぬでしょうが……彼らも王妃陛下のお声掛け一つで奮起することでしょう。
王妃陛下、我々は間違いなく貴方様の味方ですとも。
ご用命があれば、いつなりとお声がけ下さい」
「…………ありがとう。
そう言って頂けて、何よりも嬉しく思います」
王妃は涙を零しながらも、小さく微笑む。
王宮の庭園の、大通りをやや外れた片隅で。
最初の小さな誓約は、そんな風に結ばれた。




