第零話 いつかのどこかで、出会いました
途方もない難産であった。
前日の夕暮れから始まった陣痛は、確実に産婦の心身を蝕んでいた。
産みの苦しみに貴賤はなく、平民であっても王妃であっても、それは変わらない。誰にも代わってはもらえない、ただ一人の戦いだ。
ことに、その陣痛は非常に長く重かった。産婦の悲鳴に近い呻きが、断続的に漏れ聞こえていた。
立ち会う少数の人々も出産を支えるべく、入れ代わり立ち代わり動き回る。
そんなことを、何時間も続けていた。
永遠にも思われた――それこそ、産婦にとってはそれに等しい苦しみだっただろうが――その時間と引き換えに、遂に、その時が訪れる。
辺りを震わす、誰もが待ち望んだ赤子の産声。それとともに、断続的に続いていたうめき声は、やがて弱まり、穏やかになっていく。
束の間の静寂が落ちる。そして、罅割れるような絶叫があがった。
それは晴れた空に、淡く月が浮かぶ昼中のことだった。
その日、ひとつの水滴が、歴史の大河に流れ込む。
北の王国イーハリス。郊外の離宮の奥深く。ひっそりと隠れた、白の産室。
ある日そこで、一人の女が子を産んだ。
始まりはただ、それだけのことだったのだ。
――水底には、異世界が広がっているらしい。
珊瑚の宮殿。真珠の寝床。神秘的な人魚たち。
地上よりもなお鮮烈で、不思議で、美しい世界があるのだと。
ゆらゆらと揺れる世界で、少女は、幼き女王はいつか聞いたそんなお伽話を思い出していた。
(乳母やだったかしら、侍女たちだったかしら……)
そんなものはなかった。どこにもなかったのだ。
あったのは、ここは人間が生きられる世界ではないという、至極当然かつ絶対の事実だけ。
ああ、と口からひときわ大きな泡が溢れる。目の前が暗くなっていく。ここで死ぬのだと、誰に教わるでもなく悟った。
でも、それで良い。この上生きたとて意味はない。くるくると、回想の影が頭を回る。
お伽話は出鱈目だった。水の世界には何もなかった。何もなかった、けれど――……。
水底の、水の最後の終わりには。
(お姫様が、いたわ)
落ち行く少女の、その手を伸ばしてもぎりぎり届かない距離。
淀んだ青の世界に浮かび広がる血のような真紅。
毛皮と宝石で飾り立てたそれは、寒い寒い祖国のものだ。
古びた型のドレスをまとい、扇の影から睥睨してくるその姫。
美しいその顔に、はっきりと嘲笑と蔑みが浮かぶのが見えた。
そして視界は闇に閉ざされ、何も分からなくなった。
あらあらあら、何かと思えば。人間が落ちてくるなんてざっと百年ぶりかしら?
…………憎らしい面影があるわね。あの簒奪者の末裔かしら?
うふ、どうしよう?このまま引き裂いて鮫の餌にしてやるのもまた一興。
妾を殺した男への怨嗟、その程度で晴れはしないけれど、余興としてはそれなりに。
でもこんなこと、この数百年無かったのにねえ。ひょっとして地上で何かあったのかしら?
…………………………、
…………把握把握~ちょっと見ない内に、人界は大混乱してるじゃないの!
妾が死んだ時と勝るとも劣らない!
お前、女王だったのね。でも、追い落とされて逃げてきたと…………。
亡国の何とやらってやつかしら!!そんなとこまで共通しているだなんて!!
で、お前はどうするの?
このまま死ぬ?そのまま何にもなくなって、海の藻屑となってしまえば、そこで終わり。
綺麗さっぱりなくなるわ。それはそれで幸せでしょうね。
嫌?何で?
このままじゃ死ねない……あっはははは、お前たちに殺された人間どももそう思っていたでしょうね!
勿論妾もそうだったわ。
なのに、生きたいの……へえ、そう——……
お前は…………へえ、そう、クリスベルタっていうの。
それならクリスと呼ぶわ。お前、妾の力を使う気はある?
これは、そうね、契約よ。
妾という魔女と、お前という人間の——そして、家は違えどイーハリスの王統に連なる者同士として。
妾が魔法を授ける代わりに、お前が魂を捧げるの。
ね、どう?
死んでから数百年、ず~っと海中に漂っていたけど、少々飽きも来ていたことだし。
そろそろ地上に出るのも悪くないわ。
たとえ契約者が、憎んでも飽き足らない血を継いでいてもね。
でも、少しでも興覚めと思ったら、その瞬間殺すわ。覚悟はしておきなさいね?
……うふふ。そう、そうなの。業の深いこと。
狂気と魔法は、互いに増幅しあうもの。
地上に戻ったお前はそこで、どんな連鎖をまき散らすのかしら?
さあ、妾に面白いものを見せて頂戴!!!
ふ、くく、っは、きゃっははははははははははははは、あ~~あ~~!!