隠れ島
*
船が波間に落ちこむたび、体が浮き上がり振り落とされそうになる。
「舵を絶対放すなよ!」
遠くから声が聞こえる。しびれた手で舵の持ち手を握り直す。次の瞬間船が押し寄せてきた高い波に乗り上げ、マリクは船ごと一回転すると海面へと叩きつけられた。
暗い水底を必死でもがき、明るい水面に出たとたん、ひっくり返った船の縁に頭をぶつけた。衝撃で再び沈みかけるマリクの腕を誰かがつかみ、引き上げると船腹にしがみつかせた。
「…大丈夫か」
むせながら顔を上げると、すぐ側でジョン船長が船腹につかまっている。
「船長ー大丈夫ですかー」岸の浜辺に立つグランたちは、マリクより船長の心配をしていた。
「まずマストを外して船をもとに戻す。できるな?」
マリクは懸命に頷く。そして思いきり息を吸い込み、海中に頭を突っ込んだ。
目を開くと、ジョン船長が水中で開きっぱなしになっていた三角帆を縮めていた。
マリクははっとした。浮力のせいで、いつもは前髪に覆われたジョン船長の右目が露わになっている。
深く、削られたような傷跡から目が離せなくなっているマリクに船長が手でマストを指し示した。慌ててマリクはひっくり返った船の下へと潜り込んだ。
「あそこまで見事にひっくり返れるのも才能だな」
何とか戻ってきた小舟を、岸に揚げるのを手伝いながらグランが言う。
「小舟とはいえ…船が頭から海に落ちるのを初めて見た」
ジムも感慨深げに言うので「感心することじゃない!」とフランシスが怒鳴りつける。「船長、大丈夫ですか。早く着替えないと体に障ります」
乾いた布を受け取り、船長が「ああ」と呟く。再び隠れたその右目をまだ見ているマリクにも布が投げつけられた。
「お前もだ。言っておくが馬鹿でも風邪はひくぞ」
「まあ…フランシスは少し心配症だからな」
山の急な斜面を登りながらジョン船長が言う。もうすぐ夕飯という頃、マリクは船長に誘われ島で一番高い山の中腹を目指していた。
「この島の緯度はグランドのルードとほとんど同じだが…ルードより北赤道海流の影響が強いぶん、気候はずっと温暖だ」
ふとマリクの脳裏に何かひっかかったが、それが何かは分からなかった。後ろを振り返ると、道の下に広がる林のなかから幾筋もの細い煙が上っている。ダムピール号の乗組員たちが夕飯の支度をしている煙だ。
この周囲十五キロ程度のサヴォイア島(地図での名前は違うが)は、ジョン船長とその仲間たちが密かに隠れ処としている島で、水の調達や船の修理などはいつもここで行うらしい。
マリクが前を向くと、ジョン船長の背中がだいぶ遠くなっている。慌てて後を追ったため、途中で石につまづきそのまま転げ落ちそうになったところを、またジョン船長の手がつかんでくれた。
「大丈夫か」と訊いた船長は、マリクの手をつかんだまま歩き出す。
「どんなに優秀な船乗りも…山登りは苦手なものだ」
マリクはうつむいた。
「僕は…優秀な船乗りにはなれません。フランシスにはいつも馬鹿だって言われるし」
「あの子は」ジョン船長の声が微かに笑う。
「記憶力が良すぎるからな。あれでも、同じ歳の友人ができて喜んでいるんだ」
マリクは唇を噛む。
「さっきだって…船を沈めてしまいました」
「あれでいい」船長が前を向いたまま
「縦帆だろうと横帆だろうと、一番危険なのは波を真横から受けることだ。向かってくる波を恐れて思いきり舵を切ると、逆に船を横倒しにされる」
「違う…」
「もちろん、縦帆に比べて横帆の船は波への切り上りが悪いからな…本物の嵐のときはメン・トップスルをグースウイングにして…」
「違うんです!」
立ち止まり、ジョン船長が振り返る。
「何で僕にいろいろ教えてくれるんですか…何で僕が船長なんですか」
深くうつむくマリクに船長が言う。
「命令ならば聞けるのか。船長になれと」
「僕は…」マリクが顔を上げ
「奴隷だったんです!売られる前も後も…ずっと!それなのに船長だなんて」
「お前は奴隷でいたいのか」
思わずマリクは船長の目を見返す。
「自ら進んで奴隷になったのか」
「違う…」
「そのほうが楽か?奴隷でいつづけることがお前の望みなのか?」
「違う!僕は…むりやり…」
「なら妙な話だな」くるりと背を向け船長が歩き出す。しかし手は握ったままなので、マリクは引きずられるようについてゆく。
「むりやり奴隷にされるのは無理じゃなくて…むりやり海賊船の船長にされるのは無理じゃないのか?」
「だって…僕は頭も良くないし…」
「奴隷なら頭が悪くてもいいのか?どやら…」船長の手に力がこもる。
「お前には奴隷根性が染みついているようだな。それでいて奴隷を腹の底では見下している」
これ程怒っているジョン船長は初めてだ。
「違う!」マリクは腕の痛みに耐えながら
「僕はただ…人の上に立つことなんかできないって…」
「言い訳だな」船長は構わず登り続ける。
「できないことへの言い訳じゃない。やらないことへの言い訳だ」
「違う!違う!」怒鳴るマリクが懸命に手を振りほどこうとするが、固く握られた手は離れない。大きな手のなかでしばらく暴れていたマリクの手が、やがてその手を握り返した。
「…怖いんです」またうつむいたマリクの声が震える。
「…失望されて…また捨てられるのが…怖いんです」
本音を吐いたとたん、涙と鼻水も一緒にあふれ出した。
「船長なんかじゃ…なくていい…どうか僕を…船に…置いてください…」
船長の前で泣いてばかりの自分にうんざりした。だがこらえても、涙はとめどなくあふれてくる。ジョン船長は何も言わず、ただマリクの手を握り続けている。
やがて二人の視界が開けた。山の中腹にあるその広々とした平地には、長い杭のようなものが何本も立てられ、海に落ちかけた太陽に照らされていた。
「あの水平線の向こうにグランドがあり…ポルシカがあり…スベリアがある」
西日に輝く海を見つめながら、ジョン船長が言う。
「たとえ祖国を捨てた者たちでも…墓ぐらいはそちらを向いていたいだろうと思ってな」
マリクは問いたげな視線を向けたが、船長は西日に目を細めたまま
「墓と言っても…ここには誰も眠っていない。皆…海で眠っている」
「海って…どこの…」
船長の目が更に細くなる。
「海はひとつだ。だからこそ皆、海で眠ることを選んだ。ここにあるのは…彼らが生きた、ほんの証しにすぎない」
マリクは立ち並ぶ杭を見渡す。百本以上はありそうだった。
「皆…戦闘で死んだんですか」
「…何人かはな。だが…ほとんどの者は伝染病だ。フランシスに医術を教えたオットーでさえ助からなかった」
ジョージと奴隷船の記憶がマリクのなかでよみがえる。フランシスや船長も、過去に自分と同じような経験をしたのだろうか。
「お前が船長になりたくないなら…それでもいい」
はっとマリクがジョン船長を見る。涙はいつのまにか乾いている。
「ただ…私がお前に教えてやれるのは、船を動かすことだけだ」
「…僕は…」
船長の握る手に力がこもる。
「お前は船長をよほど偉いと思っているのかしれないが…この墓を見て分かるように、少なくとも私は誇れるような船長じゃない。これだけの乗組員を失ってきたんだからな」
二人の間を夕べの涼しい風が吹き抜けてゆく。強張った自分の手を意識しながら、マリクはようやく訊いた。
「船長はどうして…奴隷にされた人を助けるんですか」
しばらく沈黙が流れた。
「深い理由は…ない」
「ない…」
「人を救えるのは人しかいない。それだけの単純な理由だ。そして…奴隷貿易は売買するのもされるのも人間だからな」
マリクは混乱した。ジョン船長は奴隷にされた人たちだけでなく、奴隷を売り買いする人間も救いたいというのだろうか。
「何より」船長が顔を上げた。その左目が夕日に輝く。
「この海を…悲しみで汚されるのは我慢できない」
「…よく分からないです」
しかし、分からない理由は何となく分かっていた。自分はいままで、そこまで何かを大切に思ったことがないからだ。
「マリクは海が嫌いか?」
訊ねられマリクはさらに混乱する。いままで何かを好きか嫌いかなどと訊ねられたこともない。そのとき隣で落雷のような大音声が響いた。
「好きだあああああっっ!!!」
あまりの衝撃に腰を抜かすにマリクに、船長が腹を抱えて笑っている。マリクはというと、まだ腹の底で振動が震えている。
「マリク、船長に必要なものが何か分かるか」笑っている船長は、思っていたよりもずっと若かった。
「人を見る目と、どんなときでも船中に聞こえるでかい声だ」
「人を…見る目?」
「それはその人間の目と、海を見ていれば分かる」
マリクを引き起こしたジョン船長は、また夕日に染まる海に目をやり
「つまらない人間の目は、座礁しそうな浅く薄い色をしている。逆に考え深い人間の目は、大海のような深い色をしてる」
冗談なのか、まだ笑いをこらえている。
「初めてお前の目を見たとき…面白い色をしていると思った。そして」
海に落ちる太陽が、一瞬だけ水平線全体を照らし出す。
「この子が成長したとき、どんな目の色をしているか知りたくなったんだ」
「有り得ない」皿を拭きながらフランシスが仏頂面で言う。
「ジョン船長がそんな子供っぽいことするわけないだろう。何かの間違いだ」
桶の水で皿を洗うマリクは黙り込む。
「いやいや、船長だって昔はもっと陽気だったんだ。意外なんかじゃないさ」
夕飯を終え、小屋の真ん中でひっくり返りながらグランが言う。サヴォイア島には雨風をしのげるだけの簡単な小屋がいくつも建っており、ダムピール号の乗組員たちはそれぞれの小屋で休んでいる。ちなみにジョン船長だけは自分専用の小屋がある。
「昔って…まさか艦長時代じゃないだろ」
トドのように寝そべっているグランに、フランシスが横目で言う。マリクは危うく皿を落としかけた。
「艦長…ジョン船長って艦長だったの!?」
「何だ。それは聞いてないのか」隅で綱を組み直していたジムが笑って
「あの人はポルシカの英雄だ。もう十五年くらい前になるか…バルジ海の海戦で、数で勝っていたグランドの海軍を完全に敗北させた。これ以上ないくらいにな」
「あの傷だってなあ」グランが自分の右目を指さし
「そのときついた名誉の勲章だぞ」
マリクは海のなかで見た船長の傷跡を思い出した。あれは海戦でついたものだったのか。
「そのまま海軍にいれば爵位付きの提督閣下だったのになあ。それを蹴っちまうのがジョン船長だよなあ」
大きな腹を震わせグランが愉快そうに笑い、その腹の上で寝ていたジョージが滑り落ちる。マリクの横に立つフランシスが呟いた。
「敗れたグランドは…あの戦いから何も学ばなかった」それからこちらを見ているマリクに気づき
「おい、手が止まってるぞ」
マリクが慌てて皿洗いを再開する。静かになると、外で鳴いている虫の声や、どこか遠くで鳴き交わしている鳥の声が聞こえてくる。
「たくさんの仲間が死んだからな…」小屋の天井を見つめながらグランが言った。
「そのせいで…船長もいつのまにか無口になっちまったのかもなあ」
「ペストは船長のせいじゃない!」フランシスが乱暴に皿を重ねる。
「…誰の責任でもない」
「…たしかに」棚に皿を片付けるフランシスをジムが眺めながら
「フランシスの前で子供っぽいことはできないな」
「どうして…」心外そうな顔をするフランシスにグランが笑って
「ふざけたことしたら怒られそうだもんな」
「ああ。大人よりよっぽど厳しい」
「うん…船長も言ってた。『フランシスはこの船の船医というよりお母さんだ』って」
「おか…」絶句したフランシスの顔がみるみる赤くなる。
「船長おおっ!!」小屋を飛び出し、船長の小屋へと駆けてゆくフランシスに、三人は腹を抱えて笑い合った。
体が動かない。幾つもの目が自分を見下ろしている。そのなかで一番親しいと思っていた目が…一番信頼してくれていると思っていた目が…短剣を振り上げる。冷たい刃の感触が肌に食い込む。
「…っ!!」とっさに口を押えた。暗がりのなかで、仲間たちの穏やかな寝息が聞こえる。ジョルジュは静かに息を吐き、体を起こした。
口のなかが乾ききっている。顔の右半分が暴れるように脈打って熱い。
(恨み…)
この感情を恨みや憎しみと名付けていいのか、未だに判然としなかった。しかしむりやりにでも名付け、整理しないと、すぐにも自分が狂い出すという確信だけはあった。
(船は…本当に来るのか)
あのとき以来、何度も頭をよぎった疑問に、右目の傷跡がひどく疼いた。何故かこの傷跡の痛みは、自分のなかの迷いと呼応する。
(…いいだろう)
微かに笑みがこぼれた。いまやこの傷が、自分を導く標となっている証拠ではないか。
(船は必ず来る)
プライドばかり高いあの国は、あの男をいまでも憎んでいるはずだ。
この自分ほどではないにしても…。