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ジョルジュ


   *

「総帆上げろー!!死にもの狂いで走れ!!」

 そう叫ぶ船長も必死の形相だった。その船長の声が聞こえているのかいないのか、乗組員たちは総出で帆を張り増している。波はやや高いが、これをうまくかわせば東向きの風と海流が助けてくれるはずだ。

「新大陸は目の前だってのに…!」

 ぐんぐんこちらに接近してくる船を船長は恨めしげに睨む。水平線に現れたときは同じ商船かと思ったが、旗も揚げず不気味に近づいてくる様子で確信した。

「海賊が欲しがるものなんて積んでねえぞ!」

 側に立つ操舵手が毒づいた。確かにこの船は、いま新大陸にささやかにできつつある植民地へ届ける物資を運んでいるに過ぎない。積み荷は食糧とありふれた日用品だ。

 船長は動き回る船員たちを見回した。いまは懸命に海賊から逃れようとしているが、もう逃れられないとなったときは船を守ることを放棄することは目に見えている。自分と違い、彼らには積み荷に対する責任などないのだ。

「ウッズ」船長は副長を呼び口早に命令した。ウッズは怪訝そうな顔をしたが、水夫を三人引き連れて船長室に入ってゆく。「ドーソン」今度は操舵手の脇により

「あの船をなるべく引きつけたら右に舵を切れ」

 ドーソンは舵輪を握り直し「イエッサー」と呟いた。

 海賊船は左舷前方から確実にこちらへと向かってくる。

「さあ来るなら来てみろ海賊…」迎え撃つ覚悟が決まると、船長の気持ちに余裕が生まれた。ドーソンの肩をつかみその瞬間を待ち構える。

 砲撃の用意なのかメン・スルを巻き込んだ海賊船は、その船首楼に立つ男たちの顔が見分けられるほど接近し、互いの船首の距離が五十メートルを切ったとき船長が「いまだ!」

と叫んだ。商船の船首が傾き、進行方向がわずかに右にそれる。海賊船は砲撃する意思はないのかそのまま進んでくる。積み荷が目的の海賊船なら必ず接舷してくるはずだ。二隻の船はすれ違うように次第に平行に並んでゆく。船長がまた叫んだ。

「シート引けえ!!」 

 とたんに商船のスピードが増すと同時に海賊船のフォア・マストの帆が一斉に裏帆を打った。

「ど素人め!これで完全に行き脚を失った」

 思わず舷側から身を乗り出した船長の目の前で、動きを止めたように見えた海賊船が身動ぎするように左右に揺れた。「な…何!?」商船の船乗りたち全員が目を疑った。海賊船は逆向きのままこちらへ進んでくる。

「まさか…」

 逆走しながら真横をすりぬけた海賊船が追い越すなりこちらの前方に船尾から回り込んだ。

「か、かわせえ!!」

 船長に言われるまでもなくドーソンが左へと舵を切る。こちらのバウ(船首)・スプリット(斜檣)と向こうのシュラウドが危うく引っかかりかけたが、二隻はかろうじて衝突を免れた。

 後ろ向きに進む海賊船がわずかに船首を風下に向け、船尾方向から風を受ける態勢になったとたん、閉じていたメン・スルを広げ文字通り風を食らったように現れたときとは逆方向へと走り出した。

「ボックスホーリング…」

 遠ざかってゆく海賊船に確かめるように船長が呟く。しかしただでさえ危険で難しいこの操船を、まして動いている船の側でやる人物がいようなどとはこれまで聞いたことがない。ただ一つ、先のバルジ海海戦でグランド戦艦に対して我がポルシカの英雄が行ったという話以外は…。

「船長」

 砲撃用意をしていたウッズたちが不可解そうな顔で船長室から出てくる。ずっと船尾砲門から覗いていた彼らは、敵の姿を視界に捉えることすらなかっただろう。

「ほんとに海賊船だったんですかね」

 さりげなく針路を戻しながらドーソンがぼそりと言った。謎の船は既に帆の白さしか見えない。

「あの船…子供が指揮してるみたいでしたぜ」

 

「何がボックスホーリングだ!!」

 突き飛ばされ甲板を転がるマリクを、パーチェスが見下ろす。

「お前のむちゃくちゃな命令のせいで船を止めかけたんだぞ!しかも商船の連中の目の前でな!」

「すみません…」と呟くマリクの胸倉をつかみ上げ

「おまけにわざわざ近づいといて襲いもしねえとはどういうことだ?俺たちはガキの使いに付き合う気はねえんだぞ!」

 パーチェスの周りには舵輪を握っていたギルやマーティンが集まってくる。

「相手は奴隷船じゃなかった。ジョン船長がマリクに船の指揮を任せたんです。マリクの命令を船長命令として聞くのが当然でしょう」

「船を沈めてもか!」

 フランシスをパーチェスが怒鳴りつける。

「相手が丸腰だったからよかったようなものの、一門でも大砲を積んでたらどてっ腹に大穴開けられてたぜ!」

「いきなり難しい操船させられたからってビビッて喚くんじゃねえよみっともねえ」

「ああ!?」マリクを放り出し、パーチェスとグランが睨み合う。

「あれぐらいの操帆、ジムなら難なくこなせるぜ」

「ああそうかい。でも舵を握るのがてめえじゃボックスホーリングなんて無理だろうな。もたもたやって船を止めちまうのが目に見えてるぜ」

「何だとお!」

「よせグラン」

「放せジム!今日と言う今日はとことんケリつけねえと気がすまねえ!」

「面白え、泣きっ面さらすことになっても知らねえぞ!」

「すみません、僕が悪いんです…僕が」

「たしかに君が悪いな」

 よく通る声に全員が口をつぐむ。船首楼にいたらしいジョルジュがゆっくりとこちらにやってくる。ジョルジュはマリクの前に立つと、左目で少年を見下ろし「何故はっきり言わない」と訊ねた。マリクは黙ってうつむく。

「君がはっきり言っていればこんな無駄な争いにならなかったはずだ。あの商船は船尾砲を備えていた。あの距離で撃たれたら、こちらもただじゃすまなかっただろう」

 誰もがはっとしてマリクを見る。

「…砲は持っていないと油断してあの距離まで船を近づけたのは僕です。やっぱり…僕のせいです」

 と、マリクの肩に手が置かれた。ジョルジュがマリクの顔を覗き込み

「たとえそうでも、船長なら乗組員にちゃんと自分の考えを伝えなければならない。あの場合、あれが最善の方法だったと。船は一人で動かすわけじゃないからね」

 静かなその左目に、マリクは黙って頷く。

「違いますか?船長」ジョルジュが徐に顔を上げた先には、ジョン船長が立っていた。ちらりとジョルジュに視線を投げかけられたギルがはっとして

「船長…いまの操船で舵の留め具が何本かいかれたみたいなんです。できれば、陸揚げして修理したいんですが」

「そんなもん、わざわざ陸揚げしなくたって直せるだろうが」怒鳴るグランにギルは肩を竦め

「陸揚げしていっそ全部直しちまったほうが確実だと言ってるんだ。どうせ直すんならな」

 数秒の間、船長の左目とジョルジュの左目がからみ合ったようにマリクには見えた。

「島に向かう」やがて船長が言った。

「グラン、舵を握れ」

「イエッサー!」船長の背中に大声で答えたグランが、パーチェスとギルに盛大に鼻を鳴らして去ってゆく。「あのっ」とマリクが離れてゆくジョルジュに向かって

「あの…ありがとうございます」

 ジョルジュは振り返らず、上空を見上げ

「今夜はよく星が見えそうだ…観測するかい?」

「は、はい!」

 ジョルジュの背中を見送るマリクの横に、フランシスが立った。その険悪な表情に、マリクがたじろぐ。

「…どうしたの?」

「あの男に…」フランシスはジョルジュとそれを取り巻くパーチェスたちを見据え

「あの連中にあまり関わるな」

「でも」珍しくマリクが言い返す。

「ジョルジュさんに航法を教われって言ったのはジョン船長だよ」

 ぐっと珍しくフランシスが詰まった。

「船長は…人を信じすぎる」

 いつのまにか側にいたジムが、ちらりと二人を見下ろし

「ま、それだけ強いってことだ」

 そう言うなり号敵を高く吹き鳴らす。バラバラと綱につく大人たちの傍らで二人の少年は所在無げに佇んでいたが、やがてフランシスがぼそりと言った。

「船長はともかく…お前は馬鹿だから心配だ」

『馬鹿』よりも『心配』という言葉にマリクの胸が熱くなった。生まれて初めて他人に心配だと言われたのだ。

「あ…ありがとう」

 何故か礼を言ってくるマリクに、フランシスが謎の珍獣を見るように首を傾げる。

「…思っている以上に馬鹿なのか?」




**

(あまり賢くないのかもしれない)

 ヘンリー・オッドラッドは、目の前の人物にそう評価を下した。

 元来、初対面の人間を頭の回転が遅いか速いかで品定めする癖がある。加えて彼のなかで女性に対する評価というものは高くなかった。

「そうですね…たとえば、ある男が旅に出たとします」

 子供に話して聞かせるように、ヘンリーは徐に話し始める。

「もしその時期が良くなければ…つまり星の動きに逆らっていた場合、私は彼を襲う可能性のある危険について教えます」

「危険…」

「たとえば、食糧不足、野獣、蛇、追剥…それが船旅ならば難破や海賊」

 相手のかすかな動揺に、ヘンリーは微笑む。

「どなたか大切な方が海にいらっしゃるんですか」

「…いえ」

「…そうですか。つまり、我々占星術師は未来における可能性について述べることはできますが、それは決して確実性と呼べるものではありません。さらに申しますと、たとえ我々がどれほど可能性を述べたところで、最後の決断するのはその人間自身です。旅に出るかどうかを決めるのも…」占星術師は傍らの天球儀を指先で回し

「その男次第です」

 ピタリと止まった天球儀に描かれた、長いうみへびの姿を、エイレーネはじっと見つめる。「ですから殿下」ヘンリーはどこまでも穏やかに続ける。

「たとえ私が国王陛下に何を申し上げたとしても、殿下を次期国王にすることをお決めになったのは陛下御自身です。どうかご安心ください」

 天球儀をみつめたままエイレーネが訊いた。

「父は…陛下はあとどれくらいの命なんでしょうか」

 ヘンリーは改めて目の前の王女を観察する。ろうそくが数本灯されただけの、窓のない薄暗い地下室で、その顔は青ざめたように白く、その細い肩は心細げに竦められている。

「申し訳ございません…我々占星術師は人の寿命を見ることを固く禁じられています。しかし…殿下、あくまで私個人の意見を述べさせていただくならば」

 エイレーネが初めてヘンリーを正面から見た。

「殿下はきっと、素晴らしい王になられます」

 エイレーネがかすかに微笑む。喜びというより、感謝の笑みだった。

「そのときは私も…父のように、あなたにいろいろと助言を求めたいと思います」

「微力ながら殿下の…いえ、陛下のご期待に沿えるよう努力いたします」

 深く頭を垂れながら、ヘンリーは胸のなかで独り言ちた。

(きっとおなりになられますよ…素晴らしく御しやすい王に…)




   *

「ああ、うみへびがだいぶ西に傾いている」

 夜空を見上げるなりジョルジュが言った。夜の上甲板には冷たい風が吹きつけている。

「…北に向かっているんですか」

 ランタンを下に置きながら、ジョルジュが「何でそう思うんだい」と訊き返した。マリクは北の空を指さし

「この前より、北極星が高くなっている気がします」

 道具を甲板に広げ「なかなかいい目を持ってる」と呟いたジョルジュの声が笑いを含んでいた。

「じゃあ、これからそれを確かめようか」

 以前に教わったことを懸命に思い出しながら、マリクは十字儀を持ち、二番目に長いクロスを北極星と水平線に合わせた。

「…四十二度です」

「それで?」とジョルジュが表情だけで訊く。マリクは慌てて北極星の側に浮かぶ小熊座を見る。小熊座の二つの明るい星が南東を向いていた。

「ええと…そこから一と二分の一を引きます」

 ジョルジュが満足げに頷き、マリクは心からほっとした。

 ランタンの明かりで紙にたどたどしく高度を書きつけていたマリクが、ふと顔を上げると、ジョルジュがまだ夜空を見上げていた。

「うみへび座の二等星の名前を知ってるかい」

 唐突に訊かれ、マリクは首を振る。南の水平線に長く横たわる大きな星座のことはフランシスから聞いて知っていたが、その一番輝く星については知らなかった。

「アルファルド…東の言葉で孤独なものという意味らしい」

「孤独…」

 華やかな獅子座や乙女座から離れ、ぽつりと一つ輝いている星は、確かに孤独に見えなくもない。「どこまでも」珍しく多弁なジョルジュが言う。

「どこまでも深い夜空に一つだけ光る星を見てると…真っ暗な海にひとり漂う船のようだと思うんだ」

 マリクがジョルジュに目を向ける。布で覆われた横顔からは、表情は全く分からない。ただその口元が、かすかに笑った。

「アルファルドはジョン船長だな」

 どおっと冷たい風が吹き抜け、索具の軋む音が震える星の悲鳴となって響く。マリクの胸がわけもなくざわついた。あのとき、奴隷船の最下甲板で感じたのと同じ胸騒ぎだ。「ほら」しかし、ジョルジュの声音はあくまで穏やかだ。

「うみへびのしっぽのほうに烏座が見えるよ」

 ジョルジュがマリクを見やり微笑んだ。

「裏切り者の星だ」





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