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ダムピール号


      *

 

  嵐になか、岩礁で座礁し、甲板に人の影も見えないような船に近づく人間はいない。

 ただし、海賊を除いては。

「それでも皆大反対したんだ」マリクの前をゆくグランが言った。

「現にあの船のなかじゃ黒死病が蔓延してた…それでも船長は一人で乗り込んでお前を助けたんだ。つまり命の恩人だぞ。感謝しろよ」

 マリクは船尾甲板に立っていた男の姿を思い浮かべた。片目を覆う白い髪…長く赤い上着…。

「でも…どうして…」と呟くマリクにグランの大きな背中が笑う。

「このダムピール号は海賊船だが、ジョン船長はお宝よりも奴隷として売られていく人間を助けるほうが好きなのさ」

 ジョン船長。それがこの海賊船ダムピール号の船長の名だった。

 マリクは肩のジョージと顔を見合わせる。生まれて初めて乗った海賊船には、他にも不思議なことがいくつもあった。「ここだ」いくつもの扉が並ぶ通路の突き当りで、ようやくグランが止まった。そしてその突き当りの扉を開け

「フランシス、連れてきたぞ」

 小さな明かりしかない薄暗い部屋のなかで少年が顔を上げた。

「何だ。わざわざグランが連れてきたのか」

「さすがにまだ船医室は分からないだろ」

「この船に乗ってもう三日になるのにか」

「いいかフランシス」グランはマリクの頭を片手で揺すりながら

「普通の子供ってのはお前みたいに恐ろしく物覚えがいいわけじゃないんだ」

 フランシスがグランをちらりと見やり

「どうやら舵輪をギルに取られて暇らしい」

 グランがむっともじゃもじゃの髭を噛む。促されてマリクが寝台に座ると、その目の下や喉の奥を熱心に調べながらフランシスが訊ねる。

「息苦しいことは?咳は出るか?熱は?」

 矢継ぎ早に訊かれマリクは黙って首を振る。フランシスはマリクにランタンを近づけ、ためつすがめつしていたが、やがてペンを取り紙にさらさらと書きつけ言った。

「いいだろう。完治だ」

「よかったな、マリク」マリクの背中を叩いたグランの手がふと強張った。フランシスが机の下から大きな箱を取り出すと、そこから何やらつまみ上げマリクに差し出した。「さあ…これで体力がつく」目の前でクネクネ動く生き物にマリクの顔が引きつった。その顔を、フランシスにつままれたカタツムリが細く飛び出た目で覗き込む。

「フランシス…さすがにいきなりそれは無理だろ。ほら、な?でかいし…」

「食え」

「生でか!?」

「昔からカタツムリは体に良いとされてきたんだ。食え」

「だから生でか!?こらよせ、嫌がってるだろうが」

 怯えて後退るマリクの顔にフランシスが容赦なくカタツムリを突きつける。と、それを横から白い影が奪い取った。「あ!返すんだ!お前の餌じゃないぞ!」片手にカタツムリをつかんだジョージとフランシスがドタバタと駆け回っている隙に、グランとマリクはそおっと船医室を抜け出した。

「フランシスは腕のいい医者なんだが、あのカタツムリだけはなあ」再び暗い通路を歩きながらこぼすグランの丸い顔を、マリクは不思議そうに眺める。この海賊船では、自分のように子供のフランシスでも医者として認められているのだ。

「でも」と丸い顔がこちらを向き

「ドクターララミイよりは信頼できるのは確かだぞ。あのカタツムリさえなけりゃな」

 頭を揺すられながら、マリクはずっと疑問に思っていたことを訊いてみた。

「どうして…フランシスは海賊になったの」

 グランの手がピタリと止まった。「そうだな…」被りっぱなしの帽子を直しつつ

「そうだな…お前と、同じ理由かな」

 グランの後に続いて昇降階段を上りながらマリクはその言葉の意味を考えた。やがて明るい上甲板に出た頃、マリクがおずおずと訊ねた。

「僕…海賊になるの?」

 上甲板に太い笑い声が響いた。マストのなかで一番太いメン・マストの影から、がっしりした体つきの、大きな赤鼻の男が現れた。

「奴隷船からわざわざ助けてもらった坊やは海賊になるのがお気に召さないらしい」

「…嫌だとは言ってないだろう」

 マリクの代わりにむっとするグランに男は赤鼻を鳴らし、周りの男たちに向かい

「まったくいい迷惑だよなあ?わざわざ苦労して黒死病かもしれない子供を船に連れ込んだりしてよ。船長は俺たちより子供一人の命のほうがさぞかし大切なんだぜ」

 上甲板にいた男たちは顔を見合わせる。

「おいパーチェス」グランが親指で背後に広がる群青の海を示し

「船長のやり方が気に入らないんだったらいつでも降りていいんだぜ。この船を」

 パーチェスが一歩前へ出る

「どっちが船を降りるべきか…ここではっきりさせてもいいんだぜ」

 グランも一歩前へ出て、二人が睨み合う。バリバリッと船尾のミズン・マストの帆が風に震えた。とたんに昇降口からジムが顔を出した。ジムは睨み合っている二人と、ぽつんと立ったマリクを見とめてからパーチェスに言った。

「帆の向きを変える頃だぞ」

「黙ってろ!いまは取り込み中だ!」

 ジムを怒鳴りつけたパーチェスがグランに向かい

「だいたいギルがいりゃ操舵手は二人もいらねえんだ」

 グランも鼻を鳴らし

「掌帆長だってジムさえいればお前は用無しだろ。どっちが腕がいいか大声で言うまでもないさ」

「何っ」身を乗り出したパーチェスの肩が強い力でつかまれた。ジムが低い声で

「船を止めたいのか掌帆長」

 今度はフォア・マストのトゲンスルがバリバリ鳴った。

「言わなかったか?俺は帆がバタつく音が大嫌いなんだ」

 がっしりつかんだ手をパーチェスは懸命に振り払おうとする。そのとき、船尾で鐘が鳴った。「ちょうど交代だ」とジムは手を離し「ごくろうさん」とパーチェスの肩を叩いた。

「パーチェス!」

 しつこくジムとグランを睨みつけているパーチェスを、船尾甲板からギルが呼んだ。舵を固定したギルは主甲板に下りてくると「交代だ」とパーチェスを促した。

 揃ってジムとグランに一瞥をくれると、ギルのやせた背の高い姿とパーチェスのがっしりした背中は昇降口へと消えていった。

「つまらないもの見せちまったな」

 ポンとマリクの頭を叩くと、グランは舵輪につくため船尾甲板へと向かう。その後についてゆこうとしたマリクをジムが呼び止めた。

「マリク、お前はここにいろ」


「ブレース(転桁索)つけー!!」

 ジムの号令で男たちが蜘蛛の巣のように幾重にも重なった綱に散らばってゆく。その間、黒い髪を揺らし風の向きを測っていたジムはやがて「右舷ブレース引けー!!」と怒鳴った。一斉にヤードの向きが変わり、とたんに船がグンと前のめりに揺れた。

「風上シート(帆脚索)引けー!!よーし縛れー!!」

 ひとしきり怒鳴ったジムは青空のなかで膨らむ帆から目を離さず「いいかマリク」と言った。

「船ってのは斜め後ろから風を受けるのが一番好きなんだ。一番快適に走れるからな。俺たち操帆手の役目ってのは、どれだけうまく風を捕まえられるかってことだ。船の進路とかそういう細かいことは」ちらりと船尾で舵輪を握るグランを見て

「あっちがうまくやってくれる」

 その言葉が聞こえたのかいないのか、グランがニヤリと笑う。ジムの説明はそれで終わらなかった。

「風向きに合わせて帆を調整するなんてのは大した仕事じゃない。難しいのは上手廻しや下手廻しのときだ。これは帆を動かす人間と舵を動かす人間の息がぴったり合わなけりゃ上手くいかない」


「いいか、風上の帆の端をよく見てろ。メン・マストのコース…一番でかい帆だ。ヤードが回って帆の端が弛んだと思った瞬間に舵を切るんだ。操帆手のタイミングに合わせるなよ。操舵手はあくまで帆の状態を見て舵を切るタイミングを決めるんだ」

 今度は舵輪の側でグランの説明を聞きながら、マリクには全く分からなかった。上甲板にいる男たちがちらちらと面白そうにこちらを盗み見ているのは分かっていた。しかし、何故ジムやグランが船の操り方について自分に熱心に教えてくれるのかが分からなかった。「ところで」と舵輪を握るグランは、さっきパーチェスと睨み合っていたときとは別人のように上機嫌で

「そろそろ帆の名前ぐらいは覚えたか?」

 マリクは頭上の太陽に輝く何枚もの帆を眺めた。どれも同じに見える。横目でその様子を窺っていたグランは

「まあ、いいってことだ。気長に覚えれば…な」


 その理由が分かったのは、数日後のことだった。

 その晩マリクはいつものように、ジョン船長に文字を教わっていた。

 小さなランタンのもと、マリクはスレート板に向かって懸命に書き取りの練習をしていた。初めてならう文字はまだまだ書き慣れず、板にはミミズのような線がのたくっている。

「マリク」と呼ばれ、マリクはチョークを持つ手を止め隣の船長を見た。

 夜の海を進むダムピール号はとても静かで、ときどき船長室のちょうど真下にある舵板が軋む音しか聞こえない。ランタンの灯にぼんやり照らされたジョン船長の左目は、じっとマリクを見つめている。

「お前はあの船に乗せられる前…どこで何をしていたんだ」

 あの船と聞いて、まだマリクの手足に残る鎖の傷跡が疼いた。

「…小さい頃は救貧院にいました。それからいろんなところで働いて…最後は煙突掃除の親方さんに弟子入りしました。でも…役に立たないからって…」

 マリクはチョークを握りしめた。冷たい煙突の壁の感触や、煙突のなかから見上げた四角い空の景色がよみがえってくる。怒鳴る親方の牙のような歯…いつも持ち歩いていた短い鞭…

「じゃあこれからは私がお前の親方だ」

 うつむいていたマリクは顔を上げる。ジョン船長の目は相変わらずこっちを見ている。「お前は今度は海や船について学ぶんだ」

 海賊に一員になるにも、勉強しなければならないのだとぼんやり思っているマリクに船長がさらに言った。

「お前はこの船の船長になるんだ」


「頑丈な体だな」 

 首を傾げるマリクにフランシスは口調を強め

「ペストにも負けない頑丈な体。だからジョン船長も次の船長にしようと考えたんだろう。それ以外には考えられない」

 そう断言するフランシスを、マリクは反対側の寝台から眺める。船医室にある寝台のうち一つは患者用なのだが、いまは病人もいないのでマリクが使わせてもらっている。「言っておくが」寝台のフランシスが横目を向け

「たかが海賊の船長などと簡単に考えるのは大間違いだぞ。船長である以上あらゆることを知っておかなければならない。船や操船法のことはもちろん、天側法や何種類もの航海算法…計算だけじゃない、海図の見方や海流や天気やいろんなことをだ」

 マリクは寒気がして毛布を顔まで引き上げた。フランシスは容赦なく続ける。

「ジョン船長がそう決めたからにはジムもグランも自分の持っている技術を全てお前に教えようとするだろう。感謝するんだな。お前はそんじょそこらの船長より遥かに優秀な船長になれる」

「…自信ない」

「お前はジョン船長の船に乗っているんだ。ましてお前は船長に命を救われている。つまり、お前に拒否する権利はない」

 にべもなく言われマリクは口をつぐむ。もっとも、同じ歳でありながら大人たちとも対等に話し合うこの少年に、自分が何か言い返せるとは思っていなかった。

 暗がりにぼうっと光る、金髪の頭にマリクはそっと訊ねてみた。

「フランシスは…船長にならないの?」

「知らなかったか?」フランシスは背中を向けたまま

「私は医者だ。ジョン船長もそれで了解してくれている」

「何で海賊になったの?さらわれたの?」

「うるさい!」

 怒鳴り声に枕元で眠っていたジョージがマリクの懐に潜り込んだ。興奮した様子でこちらを睨むフランシスは、初めて少年のように見えた。フランシスは顔をそむけ「私のことより…自分の心配をしろ」と呟くと、また背を向け寝台に横になった。その背中を見つめながら、マリクは胸のジョージを抱きしめる。ひどく寂しい気持ちだった。

(大丈夫なんかじゃないよ…ジョージ)


 誰もいない上甲板で一人佇む影があった。その人物は舷側にもたれ、墨のように真っ黒な海を見つめている。頭上の砂を撒いたような星空には、ときどき黒い千切れ雲が流れてゆく。と、背後に誰かが近づく気配があった。

「よう…当直でもないのに見張りか?」

 ぎこちなく声をかけたパーチェスは並んで舷側にもたれた。それから周りに誰もいないことをもう一度確かめると、隣の人物に言った。

「おい…いつまでこんなこと続けるんだ」

 ジョルジュは左目でパーチェスを見る。

「聞いただろあの噂…船長はあの小僧をゆくゆくは船長にするつもりらしいって…まったく、馬鹿げてて付き合いきれねえぜ」

「パーチェス」

「それが商船だろうと海賊船だろうと…船長の言うことは絶対だ。ジョン船長がそう決めたのなら俺たちがどうこう言うことじゃない」

「本気で言ってるのかジョルジュ!」声を抑えつつもパーチェスは語気を強め

「奴隷船を襲って奴隷の連中を助けたり、奴隷だった小僧を船長の後釜に決めたり、こんなふざけた船、俺はもうごめんだぜ!お前だってその顔の恨みを忘れたわけじゃねえだろ?」

 向けられた恐ろしい目に、「すまねえ」とパーチェスは後退った。ジョルジュは暗い海に目を戻す。ダムピール号から生まれる波の筋が、星明りに白く輝いている。

「まだだ…」顔の右半分を覆う布を押さえ、ジョルジュが呟く。

「そのうちいい機会が訪れる…焦るな」

 まるで自分に言い聞かせているようなその姿に、パーチェスはそれ以上何も言わなかった。ちらりと目を向けると、船尾で舵輪を握る、ランタンに照らされたギルの顔がじっとこちらを見ていた。生温い夜風に、頭上の索具がキイキイと不気味に鳴いた。



 ジョン船長がマリクを次期船長にするつもりらしいという噂はすぐに船中に広まった。

 それからというもの、ダムピール号の男たちがマリクを見る目は好奇と小馬鹿が混じったものになった。

「前と後ろでマストを支えているのがステイ(支索)とバックステイ(後支索)…左右で支えているのがシュラウドだ。シュラウドの横綱がラットライン(段索)で…」 

 マストから伸びる綱の名前を説明するジムの横でぼんやりと立つマリクを、男たちが目配せしたり肘を突き合ったりして笑っている。それはグランの横にいても同じだった。

「いいか、良い操舵手ってのは小さい舵輪を選ぶ。そのほうが船の動きを感じ取れるからな」グランは黒光りする舵輪を愛おしげ撫で

「操舵手ってのは大胆さと繊細さが必要だ。そしてどんな嵐でも舵輪にしがみついて離さない根性だな。雨にも、風にも耐えながら舵を握り続ける男のなかの男!」

「よくその大きな腹が邪魔にならないな」

 本を抱え側を通りかかったフランシスにグランはポンと太鼓腹を叩き

「お前でも知らないだろうがなフランシス、操舵手が腹が減っていると船は進まないんだぜ。船は操舵手と一心同体だからな」

 呆れたように目を細めたフランシスはちらりとマリクを見やり、何も言わず船尾甲板を下りてゆく。うつむいているマリクにグランが訊ねた。

「…喧嘩でもしたか?」

 答えないマリクの頭の上でジョージがニッと歯をむく。グランは下の甲板で帆を見上げているジムを眺め

「まあ、喧嘩ぐらいするさ。友達ならな」


「無理なんじゃないですか」

 ジョン船長が机から顔を上げる。船長室の棚に借りていた本を並べるフランシスが背中を向けたまま

「あいつが船長になるなんて無理です。それにあいつもなる気なんてありませんよ」

 マリクと変わらない、その細い背中に「何故そう思う」と訊ねる船長を、フランシスはちらりと振り返り

「見ていれば分かります。学習することに対して全く意欲が感じられない」

 船長は思わず苦笑して

「まだ慣れない船の環境にとまどっているんだろう。お前のように何でも素早く吸収できるわけがない」

 本に触れるフランシスの手が止まった。

「私だって…何もかも簡単に受け入れてきたわけじゃありません」

「…そうか」船長は船尾窓に目を向ける。

 青く広がる水平線にダムピール号の白い航跡が細く伸びてゆく。

「私がお前たちのような子供に言えることは…あまり結論を急ぐなということぐらいだ」

 視線を戻した船長とフランシスの目が合う。

「マリクにも絶対に海賊船の船長のなれというわけじゃない。ただいまはこの船に乗っていて、そして私たちが教えてやれるのは船のことだけだという理由からだ」

「…それだけじゃありませんよね」

「もちろんお前に同じ年頃の友人をつくってほしいのもある」

「誤魔化さないでください!」向き直ったフランシスが船長に詰め寄る。

「船長は奴隷だったあいつを救い上げようとしているんでしょう!?グレース号の連中の反感を買うことが分かっていて!」

 フランシスは口をつぐんだ。顔のほとんどを白い髭と白い髪に覆われてたジョン船長の表情は分かりづらいが、その左目は微笑むように細くなっている。

「やはりお前は船長には向かないな…賢すぎる。救い上げるは少々大げさだが」

「私は船医という立場に満足しています」

 口を尖らせるフランシスに、船長が二枚の紙を差し出した。フランシスが二つを見比べる。

「マリクの最初の頃の文字といまのものだ。…どうだ」

 顔を上げたフランシスに船長が微笑む。

「たとえゆっくりでも、それなりに進歩はしているだろう?」


 

 船長室の真上にあたる船尾楼甲板で、マリクもまたダムピール号の航跡を眺めていた。

「僕には無理だよ…」小さな呟きが強い風に飛ばされてゆく。

「いろんなことを勉強して…たくさんのことを覚えなきゃ駄目なんだ…船長になんてなれっこないよ」

 肩に乗るジョージはそんな弱音には構わず、風に揺れる赤毛と遊んでいる。

 風の温度だけでなく、照りつける日差しの強さや海の色が変わってきているのがマリクにも分かった。くすんだ青黒いグランドの海とは違い、いま船がはしっているこの海は透き通った明るい青色で、波のうねりがどこか粘っこい。

「この船はどこの向かっているんだろう…」

「それを知るためにも航海術は必要だと思わないか」

 ビクリと振り向くと、十字儀や天測暦を脇に抱えたジョルジュが立っていた。

「太陽が真上に来たいまが船の位置を知る絶好の機会なんだけど」

 暑さにも関わらずマリクの背中がゾワゾワする。あらゆる勉強のなかでも、計算の多い航海術の勉強が最も難しく苦手だった。

「もっとも」とジョルジュは十字儀を太陽にかざし

「君が船長になるつもりなんてないなら、こんなこと覚える必要もないけど」

 マリクは何も言えず、太陽に目を細めるその横顔を眺める。頭に巻かれた、顔の右半分を覆う青い布の下で長い髪が揺れている。不意にジョルジュが口を歪めた。

「片目でも天測はできるんだよ」

「え…」とまどうマリクに向けられた左目は、思いのほか優しかった。ジョルジュは後半に座り込むと暦を開き、前もって計算しておいた緯度と照らし合わせる。

「少し北に流されてるな…」

 呟く相手にマリクは思いきって訊ねた。

「どうして船長は…僕を船長にしようと思ったんでしょうか」

「…船長になるのは嫌かい」

 マリクは答えずうつむく。

「というより…自信がないようだね」ジョルジュが顔を上げ

「当然だね。人は普通、知識や経験を自信にする。けど君にはまだ知識も経験もない」

「それに…」マリクはうつむいたまま

「僕は…奴隷だったし…」

 ふと顔を上げると、ジョルジュがこらえるように布で巻いたほうの顔を押さえている。

「い…痛いんですか?」

 近寄るマリクをジョルジュの手が制した。風にバラバラとめくれる暦を閉じ、小さく息をつくとジョルジュは微笑み

「自分が…どういう境遇だったかはできない理由にはならない。そうだろ」

 そう言って差し出された十字儀をマリクは黙って受け取る。そしてそれをジョルジュの説明通り海に向けたとき、水平線に黒影が浮かんでいるのに気づいた。

「あれ…」マリクが指さすのとほとんど同時にジョルジュが鋭く叫んだ。

「マーティン!トップ!右舷!」

 主甲板にいた若者が「は、はい!」と慌ててシュラウドを登り出す。とたんに船中が騒めき出した。下の甲板にいた男たちも昇降口からわらわら上がってくると、舷側から身を乗り出し海に目を凝らす。

「商船か」帽子のつばを上げ確かめるグランの横でジムが髭を撫でながら

「こいつはひょっとすると…」

 メン・マストのトップで望遠鏡を向けていたマーティンが叫んだ。

「商船です!グランドの船です!右舷船尾二ポイント!護衛は見えません!」

 男たちから歓声が上がる。すでにあの船を手に入れたように湧き立つ男たちに、マリクはこの船は海賊船なのだと今更のように思った。

 ふと、側に立つジョルジュが警戒するのが分かった。振り向くといつのまにかジョン船長が船尾楼甲板に立っている。船長は左目を細め、まだ点のようにしか見えない船を見つめていたかと思うと次の瞬間とてつもない大声で怒鳴った。

「ジム!グラン!配置につけ!上手廻し用意!」

 全ての男たちがブレースやシートに飛びつき、逆にそれまで帆を見張っていたパーチェスや舵を握っていたギルは、ジムとグランにその場を明け渡した。ジムはさっとあらゆる綱に人がついているのを確かめ叫んだ。

「ヘッドスル・シートゆるめー!スパンカーブーム引き込めー!」

 矢継ぎ早の号令に次々と帆が絞られ、ヤードが回される。タイミングを計るグランが右へ左へと素早く、あるいはゆっくりと舵輪を回す。

 船が完全に風に立ったとき、一瞬船中に緊張がはしったが、ダムピール号はうまく風下に向かって方向を変えると、そのまま目標の船へと左舷開きで突き進み始めた。

 大きな船がぐるりと方向転換するのを目の当たりにしたのと、さっきの船長の大声でマリクの心臓はずっとドキドキしっぱなしだった。

「これくらいの上手廻し…パーチェスやギルにもできますよ」

 ジョルジュが徐にジョン船長に言った。その声にもどこか警戒するような、威嚇するような響きがある。船長は近づいてくる商船から目を離さず

「ああ。しかしこの場合はこの船に慣れている人間のほうがいい」

 ジョルジュは黙って船長を見つめる。トップで望遠鏡を向けていたマーティンがまた叫んだ。

「あのっ…ひょっとしたら、あれは…奴隷船かもしれません!」

 マリクの心臓が跳ね上がった。一緒に綱を引いていたパーチェスとギルがうんざりした表情で船尾を窺う。ジョルジュの左目が険しくなった。

「気づいてましたね」

 船長の左目がちらりとジョルジュを見る。

「恐らく南の大陸からの船だろう。南の大陸からグランドへ向かう船がこの辺りにいても珍しくないことは、お前たちが一番分かっているはずだ」

 そのとき標的の船が火を吹いた。次の瞬間ダムピール号の間近で水柱が上がる。パーチェスが口を歪め

「ほう?生意気に武装してるぜ」

「総員戦闘配置につけ!」

 ジョルジュの命令に、綱についていない男たちは下の砲甲板の大砲へと駆け出す。

 商船は船首楼に据えられた砲でしきりに砲撃してくるが、ダムピール号は水柱の間を構わず接近してゆく。たとえ武装しているとはいえ、商船ごときの攻撃を全く歯牙にかけていないようだ。逆に、海賊船から放たれた砲弾が商船の帆やヤードを破壊してゆく。

 マリクは目を疑った。海賊船の撃った砲弾は、空中で二つに割れ、円を描くように商船へと飛んでゆく。鎖弾(チェーン・ショット)と呼ばれるその砲弾は、二つに割った砲弾の間に鎖がついていて、撃った瞬間に二つに分かれた弾が回転しながら船の索具や乗組員を襲うものだ。

「邪魔だどけ!」

 綱を引く男たちに突き飛ばされマリクが甲板を転がる。その腕をジョルジュが取り、「隅でじっとしてるんだ」と言った。

 ダムピール号と商船はすでに互いの人間の顔がはっきり見えるほど近づいている。ダムピール号の船首が商船の横腹に突き刺さろうとした瞬間、ジムとグランが帆と舵の向きを同時に変え、くるりと船首を回したダムピール号の横腹と商船の横腹が勢いよくぶつかった。とたんに海賊たちの手慣れた腕から伸びた鉤竿や鍵付き綱が商船をがっちりと捕らえ、引き寄せられた商船とダムピール号がぴったりとくっつく。

 そのとき、海賊船上で奇妙な沈黙が流れた。

 ある者はジョン船長を、そしてある者はジョルジュのほうを窺い、次の指示を待っているようだった。しかしその沈黙を銃声が切り裂いた。

 商船の乗組員たちがマスケット銃を構え、バラバラと撃ってくる。

「こいつら…」

 パーチェスが銃を取るより先に、ジョン船長が舷側に足をかけたかと思うと素早く商戦に乗り移った。手には何の武器も持っていない。

「船長!」舷側に駆け寄るジムとグランを、船長の左目がちらりと制す。

「この船の船長にお会いしたい」

 突然言われ、商船の男たちは顔を見合わせる。乗組員の返事を待つまでもなく、一人の初老の男が進み出た。

「私がこの船の船長だ」

 同じ白髪だが、恰幅のいい体格はジョン船長と好対照だ。ジョン船長は相手をまっすぐ見据え「グランドの船でしょうか」と訊ねた。その丁寧な口調に商船の船長は幾分面食らった様子で

「グランド船…ハーベイ号だ。私はフィリップ・モートン」

 といらないことまで言った。ジョン船長は片目を細め「単刀直入に伺いますが」と切り出した。そのよく通る声はダムピール号まで響いてくる。

「あなた方は、積み荷のために命を投げ出す覚悟がおありですか」

 モートン船長はとっさにどういう意味か理解できなかったようだ。自分の乗組員を見回してから

「ど…どういう意味だ」

「そのままの意味です」

 船同士がこすれ合って不気味な音が響くなか、ジョン船長が一歩踏み出す。

「積み荷である奴隷たちを守るために、あなたとあなたの乗組員は命を投げ出す覚悟がおありですか?」

 灰色の目に見据えられ、モートン船長はまた助けを求めるように周りを見回す。

「つ、積み荷を無事に目的地に届けるのが私たちの仕事だ…でなければ報酬が…」

「つまり、全ては金のためですよね」

 そのとき、いつの間に乗り込んだのか昇降口からフランシスが顔を出し、口を覆う布を外すなり叫んだ。

「船長!やっぱりこの船も駄目です!」

 商船の乗組員たちがぎょっとする。少年の片手には赤黒い血にまみれた鼠が握られていた。モートン船長の顔が紙のように白くなる。

「グランドの船でペストが流行っているのはご存知ですか」

 ジョン船長はどこまでも淡々とした口調で

「私たちも困ってるんですよ。襲う船がことごとく黒死病に侵されているんですから」

「あっ」とフランシスがつかんでいた鼠が飛び出し、甲板中を駆け回り始め、商船の乗組員たちが悲鳴を上げてそれから逃げ惑う。

「先日も船を一隻燃やしたばかりです」

 マストにしがみつくモートン船長を見上げ、ジョン船長がさらに言う。

「もっとも、その船の賢明な乗組員は奴隷たちを残して脱出した後でしたが」

 困惑と恐怖が入り混じっている相手に、ジョン船長はかすかに笑って見せた。

「何事も命あっての物種ですな」


 モートン船長と乗組員たちを乗せたボートが、波間に遠ざかってゆく。

 ダムピール号の海賊たちはそれを眺めながら、言葉少なだった。一人の男が「すげえな」

と傍らの男に話しかけた。

「舌先三寸で奴隷船を奪っちまうんだからよ…」

「何がすごいってんだ!」

 パーチェスに怒鳴られ男が首を竦める。パーチェスは隣の奴隷船を見やり

「こんなふざけた真似…続くわけがねえだろ」

 その脇を、マリクがすり抜け舷側に飛びついた。

「あの…!」

 ジョン船長とフランシスがこちらを向く。

「そっちに…行ってもいいですか」

 ためらいつつ言うマリクの肩にジョージが駆け上がる。ジョン船長はしばしマリクを見つめてから、静かに頷いた。マリクは揺れる舷側の上に立つと思いきり隣の船へと跳んだ。

「割と身軽だな」

 甲板に転がり込んだマリクにフランシスが言う。とっさに逃げて自分の肩に飛び移ったジョージを、ジョン船長がマリクに渡し「なかを見たいのか」と訊ねた。マリクは黙って頷く。

「フランシス、灯りを」

 フランシスが昇降階段に置いてあった小さなランタンを差し出す。受け取った船長はためらいもなく下の甲板へと下りていった。

「冗談だ」 

 とまどった視線を向けるマリクに、フランシスがまだ走り回っている鼠を指さし

「ペスト菌は鼠に付いたノミで媒介される。鼠自身が出血することはない。いつもこうして無知な奴隷船の船長を丸め込んでるんだ」

 平然と言って船長の後に続くフランシスにマリクも恐る恐るついてゆく。

 階段を下りるほどにすえた臭いが鼻をつき、マリクは思わず身震いした。その臭いがあのビジュー号の記憶を強烈なほど鮮明に呼び覚まし、俄かにマリクの感情全てを支配しようとしてくる。しかし前をゆくジョン船長とフランシスはそんなことはお構いなしにどんどん下りてゆき、あっという間に最下甲板に下り立った。

 船長がランタンを掲げると、闇のなかで幾つもの目が光った。暗がりに浮かぶ褐色の肌に、フランシスが呟いた。

「やっぱり…南の人たちですね」

 国を持たない人々。即ち南の大陸の人々を新大陸への奴隷としてさらう行為も、北の国々が自国から人間を供出するようになりいったんは収まったかに見えた。しかしその結果、皮肉なことに国内が労働力不足となった国々が、今度は自国で奴隷として働かせるため南の大陸から人々をさらい始めたのだ。

 マリクがたどりつくと、船長が何やら聞き覚えの無い言葉で話していた。

「南の言葉で話しているんだ。もう怖がらなくていい…故郷に帰れると」

 説明するフランシスの横で、マリクは目を凝らして最下甲板を眺めた。

 悪臭はするものの、自分たちが閉じ込められていたビジュー号の最下甲板ほどひどい状態ではなさそうだった。灯りに照らされた人々の手足に鎖はなく、その表情にも生気が残っているように見える。

 と、突然一人の男が立ち上がったので船長がフランシスとマリクを背中に庇った。髭の男は何かを懸命に訴えながら、傍らの女性を身振りで示している。女性の腕では、三歳くらいの男の子がぐったりしていた。

「フランシス」

 フランシスが船長の後に従い、二人はそろって男の子を覗き込んだ。船長が掲げるランタンの下で、フランシスは男の子の口を覗いたり手を持ち上げたりして診察する。

 男の子の両親らしい髭の男と女性は、医者のように息子を調べる少年に戸惑った表情を浮かべている。いつしか他の人々も身を乗り出し、その様子を眺めていた。

 小さな明かりのなか、その場にいる人々が一心に男の子を見守る光景に、マリクの胸は次第に落ち着いてゆく。

(大丈夫だ…この船の人たちは…大丈夫だ)

 そのとき誰かに背後から首を締め上げられた。怒鳴り声にはっと人々がこちらを向く。

「グルカ!」髭の男が名前らしき言葉を叫んだ。呼ばれた男はマリクの首をさらにきつく締め上げる。

 髭の男とグルカが激しく言い合い、周りの人々はじっとマリクとグルカを見つめる。グルカの腕にしがみつき、かすむ視線の先にジョン船長の強い目があった。すると今度は首をわしづかみにされ、そのまま高く掲げられる。グルカが大声で喚きながら人形のように軽々と振り回すなかで、もがくマリクの記憶は一気に奴隷船へと引き戻された。

(ジョージを…ジョージを助けて!!)

 声にならない声を上げながらマリクは虚空に手を伸ばす。

(違う…)

 あのとき本当は、自分自身の助けを求めていたのだ。生まれてから一度も、心から求めたことのなかった、諦めの先にあった救いを。本当は…

 ガンッという硬い響きとともに、衝撃がグルカを通してマリクにまで伝わってきた。ぐらりとグルカの体が揺れ、マリクを下敷きにして倒れ込む。

 もがいているマリクの上から誰かの足がグルカの体をどけた。

 見上げると、ジョルジュの左目が見下ろしていた。片手にビレイ・ピンを握り、グルカを見下ろすジョルジュの姿はいつになく不安定な印象で、その左目は激しく揺らいでいる。ジョルジュが倒れているグルカに向かって再びビレイ・ピンを振り上げた。骨と骨が軋み合う音が最下甲板に響いた。

 ジョルジュの手首をつかんだジョン船長が静かに言った。

「ありがとう…ジョルジュ」

 いまでは肩で息をしているジョルジュは忌々しげに歯を食いしばったが、やがてゆっくりと手の力を抜き、南の大陸の人々を一瞥すると昇降階段を足早に上がっていった。

 男の子の両親と言葉を交わしていたフランシスが駆けてきて船長に報告する。

「壊血病ですね。まだ症状が軽いので、ダムピール号に積んでいるライムで良くなると思います」

 それからしゃがむと倒れているグルカの頭を調べ

「瘤になってる…少しは手加減したのか」

 そこでようやくマリクに「大丈夫か」と訊ねた。

「この人は奴隷商人に捕まったとき、まだ小さい娘と離ればなれになったらしい。だからというわけじゃないが…許してやってほしいと言っている」

 マリクに目を向けたフランシスの顔が強張った。放心した表情のマリクの頬を、涙がボロボロとつたい落ちている。

「お、おい…そんなに苦しかったのか?どこか痛いのか?」

 とたんに堰を切ったようにマリクが泣き出した。その声はビリビリと船中を震わし、さらわれてきた南の人々も思わず耳を塞ぐほどだった。

 誰かのために泣いていたわけでも、襲われた衝撃のせいでもない。ただ、自分の奥底の心の声を聞いてしまったことで、言葉にならない切なさがあふれ出てきた。

 どんなに惨めでも、どんなに孤独でも、自分はこんなにも生きたがっていた。

 ずっと、生きたがっていた…。

 不意に頭が重くなった。目を上げると、ジョン船長の顔がすぐそこにあった。

 船長は何も言わず、ただマリクの頭を撫でている。しかしその手の温もりは、ずっと冷たく固まっていた心に沁みて、マリクは腹の底から泣いた。まるで、たったいま産声を上げたように。








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