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船出





「海賊だあ!!」

 乗組員たちは口々に喚きながら甲板の上を逃げ回る。しかし船にピタリと横付けされた海賊船からは、大振りのカトラスをたずさえた海賊たちが次々と乗り込んでくる。

 抵抗らしい抵抗もできず縛り上げられてゆく部下たちを尻目に、船倉に隠れこもうとした船長の肩を海賊の一人がつかんだ。

「大人しくしてたほうが身のためだぜ船長」

 頭に布を巻いた鋭い目つきの男がしっかりと船長の肩をつかみながら

「どこに逃げ隠れしたって俺たちの船長が見張ってんだからな」

 その言葉にはっと船長は目をやった。灰色の空と黒い海の間で、上下に揺れている海賊船の船尾に、一人の人物が立っている。遠目にも分かる赤く長い上着…そして、風になびく赤い髪…そのときようやく、船長は自分の船が誰に襲われたのか悟った。

「マリク…クルド…」

 ニヤリと男が笑う。

「もうおせえよ」


 『マリク・クルド

  赤毛。猫背。野蛮人。国家の敵。国家の英雄。

  曰く、大海賊』





   *

 ラッパ隊が高らかに合図を告げ、石畳の大通りを近衛騎馬隊の一団がゆっくりとやってくる。一団のなかほどには、騎馬隊に守られた四頭立ての巨大な馬車が進んでゆく。

 馬車が前を通ると、沿道の人々から波のような歓声が起こった。

 薄曇りの空には何発もの花火が上がり、この日、ルードの街の鐘という鐘が鳴らされた。

 そんな大通りの賑やかさに紛れるように、幌をふいた一台の大きな荷馬車が裏通りを駆け抜けていったが、それに気付いた者はほとんどいなかった。

 ふと、並んで進む四頭立ての馬車の一台から、少女がカーテン越しに顔を覗かせた。

「見て、オウディ!海が見えるわ!」

 窓に額をつけ外を窺う少女を、隣に座るボバリー夫人がいさめる。

「殿下、はしたのうございますよ」

「あ…船がいる!あれそうでしょう?」

二人の向かいに座り、夫人は少女の何倍あるのだろうと考えていた少年は、「オウディ」とまた呼ばれおずおずと窓を覗き

「ああ…見えますね」

 馬車が進む石畳の先に、白っぽい空と、その下に薄黒い海が広がっている。

「ねえ、私たちこのまま海に突っ込んじゃうの?」

 思わず微笑みかけた夫人は咳払いをして

「殿下、はしたのうございますよ」

 少女の最も親しい友人である少年は、遠慮なく声を上げて笑うと

「あの先は急な下り坂になっているんですよ。だからそのまま海に続いているように見えるんです」

「ふーん」窓ガラスに額を押し付けたまま、少女は馬車の行く先を見つめる。馬車の動きに合わせて揺れる髪と、髪の色を映したような黒い瞳には沿道の人も、前をゆく馬車も見えていないようだった。少女が不意に少年を振り返った。

「オウディはいつか海に出るんでしょう?」

「え、ええ」少年は戸惑いながらも頷く。ボバリー夫人は少年よりも深々と頷いて

「もちろんですとも。ドーリス家は代々この国の海軍を預かる立場ですもの。オウディもいずれは海軍大臣になるのですから、一日も早く海へ出て軍艦での仕事を覚えなければいけませんわ」

 夫人が考えているより軍艦での仕事に詳しい少年は、この人柄は良いが少し意見が過ぎる伯母の口をいますぐまいはだで塞ぎたいと思った。

 少女が真剣な瞳を少年に向ける。

「ねえオウディ。オウディが船長になったときは私を部下にして、私もその船に乗せてね」

「えっ」馬車が大きく揺れ、甥と伯母はおでこをぶつけそうになった。

「だめですよ殿下!私が乗るのは軍艦ですよ?軍艦に女性を乗せることはできません」

「そういう問題じゃありませんオウディ」

 ボバリー夫人は甥を横目でにらんでから

「いいですか殿下?殿下は国王陛下のたった一人のお子様で、ゆくゆくはこのグランド王国の女王になられるお立場なのですよ」

「お父様が亡くなられたらね」

 夫人は咳払いをして

「とにかく、そんな大切なお立場の方が海のような危険な場所にいけるはずがないじゃございませんか!いえ、絶対にいってはいけないのです」

「あら、じゃあオウディは大切じゃないの。大切じゃないから海に出てもいいの?」

「それはっ…もちろんオウディも大切ですよ。でも、オウディは男の子ですもの」

「つまりあなたもオウディと同じ意見なのね」

 ぐっと詰まる夫人に浮かべた笑いを、少女の寂しげな表情を見て少年は引っ込めた。

「私が男だったら…そんなの皆思ってるわ。お父様も…この国の人たちも…私だって」

 静まり返った馬車のなかに、遠くから鐘の音が聞こえる。振動でガタガタ震えるつま先をじっと見つめていた少年が、意を決したように顔を上げた。

「いきましょう殿下」

 少女が少年を見る。

「私が艦長になったときは、きっと私の艦にお乗せします。そして、一緒に海に出ましょう。きっと楽しいですよ」

 その日初めての、心からの笑顔がようやく少女に顔に浮かんだ。微笑み合う少年と少女に、夫人はその大きな肩をすくめ、やはり微笑んだ。遠くでまた、花火の音が響いた。


 すぐ側で花火が上がり、御者は思わず首をすくめる。

「まったく…派手に騒ぎやがって」毒づく男の傍らで日焼け顔の男が

「ただでさえ景気がわりぃんだ。たまにはお祭り騒ぎでもなけりゃあな」

「国王陛下の在位二十年ってか。へっ何がそんなにめでたいのかねえ。あの花火だってこいつらを売った金で上げてんだろ」

 そこで御者は思い出したように馬車の荷台に向かって怒鳴った。

「おい、出てこい!」

 このとき、マリクは生まれて初めて海と間近に向き合っていた。

 海といってもそれは首都ルードの奥深くから流れているヤヌス川の、大海原へと広がる濁った河口だった。河口の港にはたくさんの船が停泊していて、そのマストが枯れ木の林のように岸を覆っている。

「おい!さっさと歩け!」

 体を包む強い潮風と、足元にひたひたと寄せる水に立ち竦んでいたマリクを日焼け顔がどやしつけた。厳しい目の男たちに見張られながら、十から十二、三歳の子供たちがうつむきがちにボートへと乗せられてゆく。その列の最後に乗り込もうとしたマリクは、ぐらつく舷側に足を滑らせボートと桟橋の間に落ちてしまった。

 口から生まれ出る泡が、光の射し込む水面へと逃げてゆく。沈んでゆくマリクはその揺らめく緑色の光をぼんやりと眺めていた。

「このドジ!」

 ボートの上に乱暴に放り投げられ、マリクは激しく咳込んだ。

「こんなウスノロ、スベリアでも買い手がつくか怪しいぜ」

 舵を握る水夫が吐き捨てるように言う。他の子供たちはやはりうつむいたまま、怯えた表情で黙り込んでいる。びしょ濡れの体が冷えてひどく寒かったが、マリクにとっては寒さも普通のことだった。

 ふと、黒く高い壁がボートの前方に現れた。それが大きな船の船腹だと分かるには、苦労して頭を高く上げなければならなかった。泣き出しそうな空を突き刺すように高いマストが伸び、そこに帆が結ばれたヤード(帆桁)が何本も並んでいる。ボートが船に近づくにつれに生臭さとすえたような臭いが強くなった。

「おら、とっとと乗れ」

 促され子供たちは船の横につけられた梯子を登ってゆく。マリクはちらりとルードの街を振り返った。

 灰色の空の下、街は白っぽく霞んでいる。船が遠ざかり街の姿が見えなったあとも、鐘の音だけがかすかに響いていた。

 このときマリク・クルドは、生まれて初めて海に出たのだ。



   **

「また奴隷船かよ」

 覗き込んだラカムが舌打ちする。ランタンに照らし出された最下甲板には悪臭が立ち込め、汚れた甲板の上には無数の鎖が気味の悪い植物のように這っている。

「そうと分かりゃこの船の身ぐるみはいでやらねえとな」

 捕らえたのが奴隷船だった場合、その船の帆や索具などを引きはがし、丸裸にするのがマリクのやり方だった。

「それにしても」と一緒についてきたドルガが空っぽの船艙を見回し

「空船のはずはないんだがな…ちゃんと船脚は入ってたんだからな」

 二人が振り向くと、ダンがじっと昇降口の下を見つめている。ラカムとドルガは顔を見合わせた。

「うおおお」驚嘆の唸り声が思わず漏れた。最下甲板の下の船艙には一見何も積まれていなかった。しかしさらにその下に敷き詰められた砂利を掘り返すと、いくつもの麻袋が現れ、そのなかには不格好な金塊が無造作に詰められていた。

「金をこれだけ積んでりゃ他に積み荷はいらないわな」

「しっかし」またドルガが髭を引っ張りながら

「何人乗せてたかは知らねえが…奴隷を売った代金にしちゃ、ちょっとべらぼうじゃないか?」

 汚水の臭いのなか首を傾げる三人に、上から声が降ってきた。昇降口からワムルの褐色の顔が覗く。

「何やってんだよ三人とも!フランシスさんが天気が崩れそうだから早くしろって!」


「恐らく…現地の人々が持っていた装飾品を鋳潰したんだろう」

 オルギア号に移された金塊を眺め、フランシスが言った。

「だがたしかに、奴隷の代金にしては多すぎるな。まして、護衛もつけずに」

「だろう?俺たちもそれが気になって船長の奴を問い詰めたら…」

 カトラスを突きつけられた奴隷船の船長が話したところによると、彼らスベリアの商人たちは近頃航路を変えたらしい。というのも、新大陸からスベリアへ財宝を運ぶ船の多くが海賊に襲われるが、それから守ってくれる海軍は征服した新大陸の沿岸を防衛するので手一杯なのだ。だから商船たちは、海軍の護衛なしでも無事にスベリアにたどりつくため、多少時間を浪費してもいままでより南側の航路をとることにしたという。

「つまりだな、この海域で待ち伏せてりゃお宝を積んだ船が向こうからやってきてくれるってワケだ」

 したり顔で言うラカムの傍らで、金塊に手を伸ばそうとする仲間をドルガが威嚇している。考え込むフランシスは「お前はどう見た」とダンに訊いた。

「おい…俺の話じゃ信用できねえって言うのかよ」

「私はダンに訊いてるんだ」

 ダンは広い肩を竦めて

「ペラペラしゃべりすぎだ」

「たしかにな」

「な、何だよ。何がだよ」顔をしかめるラカムにフランシスが横目で

「貴重な金を奪われ、こちらに有益な情報まで与える…ずいぶんと親切だと思わないのか」

「し、親切な奴隷船の船長だったんだろ」

「お前みたいな単純な人間ばかりだと、相手もさぞかし騙しがいがあるだろうな」

「騙す!?いやその前に単純って何だよおい」

 フランシスは構わず「マーク」と明るい金髪の青年を呼んだ。

「それには触れるな」

 マークは金塊に伸ばした手を引っ込めるとへへっと笑い「ちょっとだけ…」

「触れないほうがいいと言っているんだ。恐らく現地の人々から無理矢理奪ったんだろう。新大陸の人間は金を魔除けとして身に着けるらしい。そんな物を他人が奪ったら、逆にどんな災難が降りかかるか分からないぞ」

 まばゆいばかりの宝に色めきだっていた海賊たちは途端に金塊の袋から離れた。

「じゃあ」ワムルが暗くなってきた海を見やり

「あの船…そのまま逃がしてやらないほうが良かったんじゃ」

 白いさざ波の彼方に、小さくなった奴隷船が風に頼りなく揺れている。しかしその一枚残された帆は、遠目に見てもちゃんと張られているようだ。

「嵐のなか丸裸にして放り出すほど残酷じゃないつもりだよ」フランシスがワムルに微笑む。

「それに、何か裏があるのならあの船にこちらの情報を持ち帰らせたほうが相手も早く動き出すだろう」

「どう考えてもそっちが本音だな」鼻を鳴らすラカムの横でドルガが

「で、フランシス…この金はどうすんだ」

 金塊の詰まった袋をじっと見下ろし、フランシスが呟いた。

 海賊たちがさらに黄金から離れる。「そんなことより」とフランシスは空を仰ぎ

「嵐が来るぞ。黄金と一緒に沈みたくなければ荒天の準備だ」

 嵐に備え帆を荒天用の物に換えたり、綱をかけ増したり走り回る男たちのなかに立ち、物音ひとつしない船長室を眺めフランシスはため息をついた。

「これだけ騒がしいのに、よく寝ていられるものだな」


 夜とともに完全な嵐になった。妙に明るい空高く持ち上げられたかと思うと、海の底へと突き落とされる。そんな気紛れな波と強風に弄ばれながら、オルギア号は大海を木の葉のように漂流していた。

「おやっさん」

 ハリヤード(揚げ索)につかまり、メン・マストを見上げているジムにピーターが呼びかけた。礫のような雨に思わずしかめっ面になりながら、グラグラ揺れる甲板を一気に駆けて索につかまるピーターに「どうした」とジムが合羽の下から訊ねる。ピーターは顔を上げ

「どうしたじゃないっすよ!こんな嵐のなか吹きっさらしの甲板に突っ立って、海に落ちるっすよ!」

「ああ」とジムはマストを見上げ

「こんなに荒れるんだったらトゲルンを下ろしておけばよかったと思ってな」

 メン・マストの上部にあたるトゲルン・マストは取り外せるようになっていて、よほどの荒天のときには下の甲板に下ろしたりする。

「…これ以上ひどくなったら、マストごと切り倒さなけりゃならないかもしれん」

 嵐のなかで舟が復原力を失わないよう、最悪の場合マストを切り倒すことも考えなければならない。

 飛沫を浴びるジムの厳しい表情を、ピーターは同情顔で見つめる。掌帆長のジムにとって、それは文字通り身を切られるようなものだ。

「でもおやっさん、いまここで心配してても危ないだけ…」

 船が大きく傾き、その隙に入り込んだ海水が反対舷へと津波のように押し寄せピーターの足元をすくった。

「たしかに危ないな」危うく海へと滑り落ちかけたピーターの腕をつかみ、ジムが言った。

「何をしているんだ二人とも」

 索にしがみついている二人に、船尾の船長室から出てきたらしい人物が言った。夜目にも分かる髪の色の薄さで、フランシスだと分かる。

「こんな嵐の夜に…海に落ちたいのか」

「もう落ちかけた」肩を竦めるピーターに、フランシスの呆れた気配が伝わってくる。

「ジム…お前まで何だ。お前らしくもない」

「マストが心配でな」

「…お前らしいな」フランシスはため息をつき

「昇降口を閉めるぞ。二人とも寝汚い船長と一緒に流されたくなければ下に戻れ」

「起きてるのか」ジムが船長室に顎をしゃくる。

「甲板下に入れと言っても『この嵐はじきに収まる』の一点張りだ」 

 船の揺れを感じさせない動きで昇降口へ消えてゆく副長のあとに、掌帆長と操帆手は大人しく従う。昇降口を完全に塞いでしまうまえに、ジムはちらっと船長室のほうを心配げに見やった。


 船が大きく傾くたびに、吊り寝台の軋む音が暗い船室に響く。船尾窓の外には滝のように水が流れ、船尾甲板の索具が暴れる音が頭上から聞こえてくる。

 たとえ嵐で船がひっくり返らなくとも、上甲板にあるこの船長室は大波でも打ちつければ部屋ごと流される恐れがある。しかしそれでもマリクは、密閉された下甲板で寝る気にはなれなかった。

「下にいると…どうしても思い出しちまうからなあ…」

 胸の上で丸くなっている小猿を撫でながらマリクが呟く。閉ざされた暗闇にいると、どうしてもあの奴隷船の最下甲板がよみがえってくる。

「ジョージ」ふと、顔を上げた小猿と目が合った。マリクはその顔を撫で

「お前も変わらないな…ジョージ」

 ジョージは眠たげに目を細め、また丸くなる。マリクも一緒に目を閉じた。


   *

 商船ビジュー号はいつものように、スベリアの港を目指しバルジ海を南西に向かって走っていた。あいにくと強い西風がひっきりなしに吹きつけ、しょっちゅう船の進路を東へと押し戻そうとする。

 「忌々しい西風め!」

 ビジュー号のアルバン船長は船尾甲板で毒づいた。もちろん長いこと船でグランドとスベリアの間を行き来している船長は、季節の変わり目のこの時期に西からの強風が何日も続くことを知っていた。そしてそのおかげで船がスベリアの港に着くどころか近づくことすらできなくなることも知っていた。

「一日遅れるだけでどれだけ値を下げられると思ってるんだ」

 なおも風に毒づく船長の側で舵輪を握る操舵手にも、船長が焦る理由も、到着が遅れればそれだけ積み荷の値が低くなる理由も分かっていた。何故なら、この船が運んでいるのは生きた人間だからだ。


 東の海の果てでの新しい大陸の発見は、西の国々に大きな衝撃をもたらした。そしてその衝撃は当然、大陸を発見したスベリア国よりもその周辺国のほうが大きかった。

 広い領土を持つ大国のスベリア王国が、新大陸で発見されたあふれんばかりの金銀宝石によってさらに強大になることを周りの国々は快くは思わなかった。まして、スベリアが強力な海軍を使って他の国々が新大陸に近づくことを阻止したので、他国の不満は根深いものになっていった。

 一方でスベリアは、新大陸の財宝を運び出したりまたそこで暮らすスベリア人のための街の建設など、多くの労働力が必要になった。

 初めのうちは国を持たない土地の人々がスベリアの商船や軍艦にさらわれ、奴隷として新大陸へ連れていかれていたが、スベリアの周辺の国々もやがてこの奴隷貿易に参加するようになった。

 どの国よりも儲けるために、他国の人間であろうと自国の人間であろうと、奴隷として売るために競ってスベリアや新大陸へと運んだのだった。


「まずいな…」船尾甲板で雨に打たれながらアルバン船長が呟いた。風に毒づいていたときと違って、その声は不安げに響く。ビジュー号の行く手を阻んでいた西風は弱まるどころか強さを増し、更に悪いことには雨と波を巻き込んで激しく叩きつけてくる。

「だから無理して船を出さなきゃよかったんですよ」

 とは乗組員の誰も言えなかった。運んでいるのが人間である以上、運ぶのに日にちがかかればそれだけ無駄な食糧が必要になる。それに買い手であるスベリアの奴隷商人とは、一日でも早く到着すればそれだけ報酬をはずむ約束だった。

「船長…」舵輪を握る操舵手が、傍らの羅針盤を見ながら不安そうな声で言った。

「ひょっとしたら、だいぶ南に流されてるかもしれません」

 気づかないうちに風が南寄りになっていたようだ。アルバン船長の背筋が冷たくなる。南に流されるということは、スベリアの大陸か海に突き出た半島の国、ポルシカに近づくことであり、そしてそれはポルシカの沿岸に無数に潜む岩礁に近づくということだった。


船が揺れるたびにヂャラヂャラと鎖が甲板を滑る。そのリズムが、だんだん速くなっている気がした。

「おい…こら!」

抑えた叱る声に、マリクは体を震わせた。次の瞬間、背中でもぞもぞと何かが動いた。そのもぞもぞは背中をつたって頭のほうへと移動してくる。思わず体を起こそうとしたマリクの頭を、誰かが押さえつけた。

「動かないで」

 耳元で鎖の揺れる音がして、もぞもぞが体から引きはがされるのが分かった。マリクが恐る恐る顔を上げると、目の前に笑顔があった。信じられない思いで暗がりに目を凝らすマリクに、少年がニッと笑い

「ごめんな。こいつ、お前が気に入ったみたいで」

 少年の片手につかまれた小猿もニッと笑う。言われたことも見たこともよく理解できずにいるマリクに構わず、少年は声を潜めて

「こいつのことは内緒な。見つかったらきっと海に捨てられちまう」

 そう言って小猿を胸のポケットに入れながら周りを見回し

「なあ…こいつら、皆生きてんのかな」

 二人がいる窓のない最下甲板には、何十人もの大人や子供がいたが、その誰もが甲板に横たわったままピクリとも動かない。そして全員が、甲板に打ち付けられた鎖につながれていた。

「ったく、臭いうえに陰気で嫌になるよな」

 マリクはなおもこのやけに明るい少年を不思議そうに見つめた。どうやら歳は自分と同じくらいで、大きな目が暗がりでくるくるとよく動く。少年は後半に頬杖をつきながらマリクに片手を差し出した。

「俺、ジョージ。お前は?」

「…マリク」生まれて初めて握手を求められたマリクはおずおずとその手に触れる。ジョージはその手を握り返し

「マリクか。お前ルードで乗ってきた奴だろ?俺はもっとずっと遠くのウルドで乗せられたんだ」

 どうやらずっと話し相手が欲しかったらしいジョージは、それでも声を抑えながら

「お前は誰に売られたんだ?俺はサーカスにいたんだ。これでも結構人気だったんだぜ?でもトランポリンでドジっちまって怪我してさ。団長がサーカスじゃ使えないからスベリアにでも行けって」

「で、こいつも一緒についてきちゃったってわけだ」と小猿の頭を撫でる。まともに誰かの話相手になどなったことのないマリクは、ただ黙ってその様子を見つめる。

「スベリアに送られればひどい目に遭うとか…新大陸に連れていかれたら生きて帰れないとか皆言うけどさ」ジョージは小猿を撫でながら

「どこにいたって良いか悪いかは気の持ちようだって。小さい頃いつも母ちゃんが言ってた。だからきっと…どこに連れていかれたって幸せになれるさ」

 そのとき、船が倒れそうなほど大きく傾いた。二人から離れた所につながれた人々から小さな咳がもれる。「それにしても」とジョージがため息をついた。

「ほんと臭くて暑いよな」


 ビジュー号はもはや風と波に弄ばれるばかりになっていた。舵は利かず、マストの上で暴れるヤードは乗組員たちを怯えさせる。

「一体…どこまで流されたんだ!」

 暗闇に目を凝らすように、雨に霞む周囲をアルバン船長が見回す。すでに空と海の境が消えた灰色の景色のなかで、標となるものは何一つ見当たらない。しかしアルバン船長には気づいていることもあった。船を揺さぶる波のうねりから、それほど遠くない所に陸地が潜んでいるということを…。


「なあマリク」さすがに話し疲れたのか、幾分小さな声でジョージが訊いた。最下甲板ではいつのまにか小さな咳があちらこちらで響くようになっていた。

「お前…大人になったら何になりたい?」

 揺れる甲板にしがみつくようにしていたマリクは顔を上げた。目の前のジョージは、まっすぐにこちらを見ている。

「俺はさ…いつか、サーカスの団長になりたいんだ。そしてそのサーカスを世界一にして…それを金の無い子供にただで見せてやるんだ」

 そこでジョージが激しく咳込んだ。肺の奥に何かが引っ掛かっているような、そんな咳だ。 生まれて初めて握手を求められた以上にマリクはとまどっていた。マリクにとってこれまでの日々は、孤独と痛みと空腹が全てであり、生きるということはどうやってそれらの苦しみ忘れるかに他ならなかった。

「僕は…」マリクは何か答えようとしたが、一つも言葉が浮かばない。ジョージはじっとこちらを見つめている。そのとき、衝撃とともに二人のいる世界が大きく傾いた。


 シュラウド(横静索)にしがみつき、濡れた甲板に足を滑らせながらアルバン船長は懸命に体を起こした。わざわざ辺りを見回さなくとも、何が起こったのか想像がついた。船は動きを止め、風や波が叩きつけるたびキイキイと軋んだ悲鳴を上げている。

「座礁だ…」

堪えかねたように、船長はその恐ろしい言葉を口にした。ビジュー号はポルシカの沿岸に罠のように潜む無数の岩礁の一つに乗り上げ、身動きがとれなくなったのだ。

「船底…船底を見てこい!」

 船長の命令に副長のダンテスが昇降階段を下りてゆき、その後を船大工が従った。途中の甲板でランタンを用意し、さらに下へと階段を下りてゆく。最下甲板の昇降口を開けようとしたとき、ダンテスは異様な気配に気づいた。


「どうだった」再び吹きっさらしの上甲板に上がってきたダンテスに船長が訊ねた。

「どうやら岩がキール(竜骨)にがっちり引っかかっちまってるみたいです」

 風にさらされた乗組員の顔が白くなる。

「けれども、いまのところまだ浸水はしてないみたいです」

 ほっとした船長は、それでも浮かない副長の顔を訝しげに見つめ「どうした」とまた訊ねた。ダンテスは船大工と意味ありげな視線を交わす。

「実は…」


「こいつは…」口を押えながらアルバン船長が呻いた。最下甲板には咳や喘ぎ声が満ちていた。ダンテスが足元の少女にランタンを近づける。照らされた少女の肌は黒っぽく変色している。

「黒死病です」

 耳元でささやかれた船長は座礁のときよりも大きな衝撃を受けた。二人は逃げるように最下甲板を後にする。階段を上りかけた船長はふと、横たわる人々のなかで一人の少年と目が合った。暗がりにも分かる赤毛の少年は、闇から窺う獣のようにじっとこちらを見ている。「ふん…」その目の思わず胴震いが出そうになったのを、船長は鼻を鳴らし誤魔化した。

 外の激しい風を受けると二人はそろってほっと息をついた。

「…どうします」

 今度は逆に訊ねられ、アルバン船長は髭を噛む。雨のなかマストや策にしがみつく他の乗組員も、不安げな表情を向けている。船が身動きがとれないうえに、死を招く伝染病が発生したとなれば選べる手段は多くはなかった。

 しかし船長の頭では、金と命を両皿に乗せた天秤がしつこく揺れ続けている。

「くそっ」側のハリヤードを握りしめ、アルバン船長は一向に弱まらない風にではなく、さっき見た少年に毒づいた。

「こうなったのも…きっと全部あの不吉な赤毛の小僧のせいだ」


 激しい咳や苦しげな息遣いに加え、海の底で巨大な生き物が鳴いているようなキイキイという音が下から響いてくる。それなのにマリクは、辺りがやけに静かだと思った。さっきまで上から聞こえていた乗組員たちの声や足音が、全く聞こえなくなったのだ。

「マリク…何か変じゃないか」

 自分も咳込みながらジョージが言った。変と言えば上がやけに静かなだけでなく、最下甲板を覆う澱んだ空気のなかに何か生臭い臭いが混じり出している。と、また離れた所で誰かが咳込んだ。するとその側で悲鳴のような声が上がった。

「血だ…!」

 一瞬、最下甲板の空気が凍り付いた。誰もがその言葉の意味を考え、同じ結論にいたったとき、人々の間に恐怖の嵐が巻き起こった。

「で…伝染病だ!」

「嫌だ…死にたくない!」

 それまで黙って鎖につながれていた大人も子供も大声で喚き、ここから逃げようと暴れ始めた。本来ならば奴隷たちが騒げば乗組員がどやしつけに現れるはずだが、昇降階段の上はやはり静まり返っている。マリクはさっき下りてきた二人の男の様子を思い出していた。ヒソヒソと言葉を交わしながら、ランタンに照らされた男たちのどこか怯えた、不安そうな顔を…。

「出せ!出してくれえっ!」

「助けてえっ!誰か助けてえっ!」

 喚き声や泣き声を上げながら誰もが咳込み、その度に血の臭いが強くなる。引きちぎられようとする鎖の、やけに明るい音が空しく辺りに響く。暴れる人々の声に体を竦めながら、マリクには何故かはっきりと分かっていた。

(僕たちは…置いていかれたんだ…)

 鎖につながれたまま、伝染病が蔓延しているこの最下甲板に船ごと置き去りにされたのだ。それでも不思議と、マリクに恐怖はなかった。しかし周りの人々の声はどんどん大きくなり、自分の体が傷つくのも構わずに鎖をちぎろうともがいている。

 そのとき、ジョージが突然立ち上がった。

「お集りの紳士淑女の皆様!」

 誰もが耳を疑った。暗がりのなかでジョージは優雅にお辞儀をすると

「今宵は我がサーカスにお越しくださいましてまことにありがとうございます。まずはご挨拶代わりに小猿の宙返り!」

 小猿の白い体がジョージの足元でくるくると回る。

「続いて手乗り宙返り!」

 今度はジョージの片手で逆立ちした小猿がひょいと跳ね上がってもう片方の手に移った。  

 くるりと回転してはジョージの手を行ったり来たり小猿に誰もが目を奪われる。

「さてお次は小猿の火の輪くぐり!」

 ジョージの片手で小猿が、無理無理とでも言うように手を振る。

「何!?できない!?」

 更に手を振る小猿に人々の間から小さな笑いが漏れる。ジョージは怒った身振りで

「こいつ!団長の言うことが聞けないのか!この無駄飯食らいの怠け猿め!」

 怒鳴ったとたん激しく咳込んだジョージが屈み込み、最下甲板の人々は再び現実に引き戻された。しかしもう喚き暴れる気力も失い、その場に座り込むとすすり泣き始めた。

「へへ…ちょっとドジっちまった」

 苦しげに息をしながらジョージがマリクに笑って見せる。その側を小猿が心配そうに行ったり来たりしている。

「大丈夫だ…こんな場所じゃなけりゃ…もっと上手くやれるから…」

 小猿の頭を撫でるジョージを、マリクはただ黙って見つめる。ビジュー号は相変わらずキイキイと悲鳴を上げながら、動き出す気配がなかった。


 ガツン、と何かが船にぶつかった。はっとマリクは耳を澄ましたが辺りは静まり返っている。咳の音も、荒い息遣いの音も止んでいる。

 がばりと起き上がり生きている人間の気配を探したが、横たわった人々の体は人形のようにピクリとも動かない。暗がりで白く動くものに目をやると、あの小猿がうつ伏せに横たわるジョージの頭を懸命に揺すっていた。

「来るな」

 鎖に引っ張られながらもこちらに顔を寄せようとするマリクを、ジョージのかすかな声が遮った。その声にほっとするマリクに、わずかに顔を上げたジョージは傍らの小猿を顎で示し

「お前と…こいつは大丈夫そうだ…。マリク…お前が…こいつの面倒を見てやってくれないか」

 そこまで言うとジョージが激しく咳込んだ。その口元から大量の血が吹き出る。興奮して跳ね回る小猿にジョージが声を絞り出し「いけ!」と怒鳴った。怯えた小猿がマリクの方へと駆け上がる。そんな二人の様子を見つめ、ジョージの虚ろな目が微笑んだ。

「大丈夫だよ…お前たちはきっと…助かる」

 ゴトリとジョージの頭が甲板に落ちた。マリクの髪が逆立つ。

「誰か…」ジョージに手を伸ばすが、鎖が邪魔をする。

「誰か…助けて…」動かなくなったジョージの体を動かそうと、鎖を引っ張る。

「誰か…誰か…!」マリクは生まれて初めて誰かに助けを求めていた。生まれて初めて自分にまともに話しかけてくれた人のために、大声で助けを求めていた。

「誰か助けて!ジョージが…誰か助けて!!」

 手足に鎖が食い込むのも構わず、少しでもジョージに近づこうともがきながら懸命に叫ぶ。小猿の姿はいつのまにか消えていた。

「誰か!!ジョージを…ジョージを!」

 足が滑り、甲板に倒れ込んだ。すぐそこにジョージの頭がある。自分の体が無力なただの塊に思えた。ぬめる甲板をつかみ、声にならない声を上げマリクはもがく。その姿はまるで鎖につながれた獣だった。

 ふと、昇降口が開く音がした気がした。ランタンの灯がゆらゆらと階段を下りてくる。かすんだマリクの目に白い影が映った。

 右目を覆う男の髪は、肩に乗せた小猿の毛のように白い。男の左目がマリクを見た。

 二人の目がしばらくぶつかり合う。そのまま、マリクの意識は途切れていった。




 深い深い穴の底から、小さな空を見上げていた。

 四角く切り取られた青空へ向かってよじ登ろうとしても、周りの壁がツルツル滑る。

 自分は永遠に、この穴の底から出られないのだと思った。



「あなたは一度、自分の知識を疑ったほうがいい」

 すぐ側で少年の声が言った。うっすら目を開けたとたん、マリクは辺りの煙たさに咳込んだ。側に立っていた少年が振り返る。

「気がついたか」

 その涼しげな目をぼんやり見つめていたマリクが、また咳込んだ。「おいおい」と少年の向こうに立つ男が一歩退く。

「やっぱり感染してるんじゃないのか」長い黒髪をまとめた、小奇麗な男を少年は睨みつけ「失礼ながらドクターララミィ、咳の原因はあなたが片手に持っているものじゃないんですか」

 ララミィは右手のパイプを見る。

「これで煙草が病気に効くなんて馬鹿げた迷信を捨てる気になりましたか。これは私の患者です。どうかお引き取りください」

 言うだけ言うと少年は男を部屋の外に押し出した。マリクにもようやく自分がいま、船の一室にいることが分かってきた。しかし、大の大人を相手にズケズケとものを言うこの少年が何者なのかは全く分からなかった。

「安心しろ」寝台の側に戻り少年が言う。

「お前は全身を洗われたあと、酢で消毒された。この船で私の次に清潔だ」

 そういえば体が何だか酢漬け臭いとマリクは思った。そんなマリクを少年の青い目がじっと見る。

「何故だ…」

「え…」

「ペストだ。しかも腺ペストより性質(たち)の悪い肺ペストだ。他の人間はことごとく感染したのに何故お前だけ感染しなかった」

「ええっ」真剣な表情で詰め寄られマリクは混乱する。

「何か特別なことをしたのか?何か特別な物を飲んだとか食べたとか、一人だけ清潔な服を着ていたとか」

「特別なこと…」マリクは懸命に記憶を手繰りながら

「あ…海に落ちた…船に乗る前に」

「海に落ちた?」少年が眉をしかめる。

「海水がペストに効くなんて…菌を防ぐ成分が海水に含まれているのか?いや…それなら船乗りの感染率はもっと低くてもいいはずだ…」

 何やらブツブツ言っている少年にマリクはおずおずと訊ねた。

「船は…僕と一緒にいた人たちは…」

 少年は怒ったようにマリクを見た。

「言っただろう。他の人間はことごとくペストに感染していたんだ。お前一人だけ助かったのが奇跡だ…おい!」

 マリクが船室から飛び出した。階段をいくつも上がり外の上甲板を駆け抜け舷側に取り付くと、灰色の雲を浮かべた夕焼け空と水平線の間に一筋の煙が上がっていた。それが何かを考える前に、「ああするしかなかったんだ」と背後で誰かが言った。

 振り向くと、顔半分を布で覆った若い男が立っていた。西日で影になった男の左目がじっとこちらを見据え

「君以外の全員がすでに亡くなっていた…伝染病を広げないためにも燃やすしかなかったんだ。それに…」

 男の片目がちらりと船尾を向き

「船長命令だからね」

 一段高くなった船尾甲板委は、やはり片目を覆ったあの白髪の男の姿があった。

 舷側を握りしめ、マリクは遠ざかる煙を見つめ続ける。と、その肩に何かが飛び乗った。見るとあの小猿がしがみつき、怯えた目でこちらを見ている。あとから瓶を手にしたさっきの少年が駆けてきて

「おい!その小猿を捕まえていろ!まだ消毒し終わってないんだからな!」

 その言葉に周りにいた男たちが不安そうに後ろへ退いた。けれども顔を布で覆った男だけは動かず、小猿を抱きしめるマリクを見下ろしながら

「…君の猿かい」

 マリクは首を振る。男はいくぶん声を和らげ

「名前は?」

 白い毛に縁どられた小猿の黒い顔を見つめ、マリクは答えた。

「ジョージ…」

 すっかり穏やかになった風が夕日に染まる帆を膨らませ、船を優しく運んでゆく。

 船尾甲板に立つ白髪の男は、そんな風に裾の長い上着をはためかせながら、マリクたちの様子をじっと見つめていた。




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