薄暑と霧雨の君を見ていた。
「記憶、喪失?」
医者が発した一言。ベットに半身を起こす自分。
白く、どこかツンとする匂いを漂わせたこの部屋は、老いた医者の一言すら吸い込んでいくような薄気味悪さを持つ。
「はい。何も...何も、思い出せないんです。僕が何者で、何をしていたのかも。」
「......」
医者が言葉に詰まる。まあ、当然だろう。
「あはは、エピソード記憶の欠落ってやつじゃん!うっける〜!」
そしてこの少女は誰なんだろうか。明らかに常識がなさそうだ。こんなふうに淡々としている僕も僕だが、病室で記憶喪失の患者にかける言葉でないことは容易にわかる。他人事のように...いや、実際他人ではあるんだろうが。
「...君は桔梗蓮くん。歳は15で、軽トラックに撥ねられて、ここに救急搬送されて...3時間ほど眠っていた。」
「そーそー!で、撥ねられる君を助けたのが私!つ・ま・り、命の恩人!」
被せるようにまた少女が言葉を連ねる。なるほど、命の恩人。常識の有無を疑ったことを少し申し訳なく思う。ありがとう、と心の中でだけ言っておく。
「救急車を呼んだ子がいなければ君も危うかった。幸運だったね。親御さんが別の部屋で待ってくれている。記憶喪失...精神外来の先生を紹介しましょう。」
「ありがとうございます。」
そういった後、病室を出る。幸い大きく怪我があったわけではなく、普通に活動するには問題ない、とのことだった。外は少し蒸し暑い。今は何月だろうか。
「...で、なんで君が?」
そう。僕が帰路に着くというのに、隣を歩くのは親ではなく先ほどの少女だった。親は医者と話してから帰るらしい。
「ま〜あまあまあまあ。そうツンケンしなくってもいいじゃん?あとそれと!私は夏希!君、なんて呼び方はやめてよね!」
そう立て続けに言い切った彼女は、殊更に感情を表に出し、ぷりぷりと怒ってみせる。率直に言って暑苦しい。
「...それで、夏希さんはなんで僕と一緒に帰っているの?道はスマホがあるから、案内はいらないんだけど。」
「夏希って呼んでよ...それはそうとしてさ、約束、しない?」
「...約束?」
何を唐突に言い出すんだろう。そもそも君は僕にとってどんな人間だったかもわからないのに、いきなり約束だなんて。
「うん!私とさ...明日、遊びに行かない?」
「え?」
遊びに?僕は記憶を無くし、明日からの身の振り方もわからないのに、そんな悠長な。
「いやいや、君の懸念もわかるよ?けどさ、明日は日曜だし、一日遊んで回ったら少しくらい何かおもいだすんじゃない?そう思ってさ〜。」
突拍子もない意見に呆れて物も言えない。そんな証拠がどこにあるとか、聞きたいことはいくらでもあるけど、この少女の意見に沿わないほうがよほど疲れる。きっとうんというまで食い下がり続けるはずだ。
「いいよ。わかっt」
「ほんと?ほんとほんとほんと?やった〜!」
両手を上に放り上げ、万歳の格好で喜びを表す少女...夏希。僕が言い終わらぬうちにここまで捲し立てられるのは才能の域と言っても過言じゃない、そんな益体もない思考が脳裏をよぎる。
「じゃ、約束!明日の10時に、東駅に集合ね!」
そう言って、美しい黒髪を靡かせ、夏希はクルッと華麗にターンしてみせた。
翌朝。
「昨日病室で会った女の子と、遊びに行ってくる。」
「...?昨日の今日なのに、大丈夫なの?」
朝食を済ませ、着替えた僕に母親はそう怪訝そうに聞き返す。その不安も当然だけど、約束してしまった以上仕方がない。
「もう、約束しちゃったから。行ってきます。」
行ってらっしゃい、という母親の声を背中で聞き、歩き出す。すぐさまマップを開いて道を探し、かっきり30分後に目的地に着いた。
「おっはよー!昨日はあの後どうだった?」
「おはよう。昨日は...うん、まあ普通だったかな。」
嘘だ。両親のよそよそしさ...というより、何か不気味なものをみているかのような目線が気になって寝付けなかった。
「...嘘、ついてるでしょ。」
「?!」
...なんで
「隠したってバレバレなんだから。...ま、話してこないんだったら聞き出しはしないけど!」
「...。」
「そんなことより!ここに私たちが来た理由は〜?」
無言の肯定を続けた僕に対して夏希は戯けたように話題を変える。
「僕の記憶を戻すために...」
「そ!だからさ...昨日、行ってみたところにもう一度行く、とかはどう?」
「そんなこと言っても...」
僕に記憶がないのに、どうやって昨日行った場所に行くというんだ。
「だーいじょうぶ!君の行き先は、私がちゃーんと知ってるから!!」
「...ってことは...君は、僕と一緒に遊んでいた...友達?」
だとすれば、なぜ昨日目覚めた時に言わなかったんだろうと訝しむ。
「うーん...ちょっと違うかな。まあ、そんなことはおいおい話すよ!」
「おいおい、って...」
「ほら、行くよ行くよ?置いてっちゃうよ〜?」
「ちょ、ちょっと」
そういい走り出す夏希を慌てて追いかける僕を見て、周りの人は珍妙なものでも見たかのように、立ち止まっていた。
キキィー。
そんな少し耳触りな音を立てて、モノレールは目的の駅へと到着した。
「到☆着!」
そうテンション高く夏希は言い放つ。
そうしてついた先は。
「テーマパーク...?」
「そう!大人気テーマパーク!」
陽気な音楽が鳴り、観覧車がドーンと聳え、ジェットコースターから乗客の黄色い悲鳴が響く。
僕らは、地元の大規模遊園地へと来ていた。
有名キャラクターをデザインモチーフにしているらしいこの遊園地には、熱狂的なファンもいるようで。日曜日ということも相まって、家族連れや友人同士、カップルで溢れかえっていた。
「人、多いね...。」
本当に僕は昨日ここに来ていたんだろうか、そう思えるくらい人でごった返している。人の熱気と今時期の気温が相互作用して、少しクラッとする。
「だね!でもさ...そっちの方がテーマパークっぽくない?賑わっている方が楽しいじゃん、ゼッタイ!」
今だけは夏希のポジティブさを見習おう。確かに来たんだから、楽しまなきゃ損だ。
「で!君はなに乗りたい!?」
「ん...ジェットコースター。...苦手?」
「んーん。じゃ、走るよ!」
トタタ、と駆け出していく夏希を再び追いかけていく。
2時間後。
「え...こんなに待つんだ...」
自分の浅はかさを恨めしく思う。まさかこの日差しの中、2時間も待つとは。
炎天下とは言わずとも、この暑さはキツい。
「あはは!塩タブいる?」
「...ありがとう。」
素直に感謝する。口に含むと柑橘系の風味と塩分が広がって、少しスッキリした。
「にしし、準備万端流石私。」
「助かったよ。夏希。」
「...!初めてちゃんと名前呼んでくれた!嬉しい!」
そういえば、声に出して呼んではいなかったな。
...チクリとした。...心が。
何か、何かとんでもないことを忘れているような。
「次のお客さまー。こちらの席にお座りください。その後ろのお二人様は...あ、カップル様ですね〜。ではお二人でそちらの席に...」
僕らの乗る番が来て、その後ろに数組のカップルが座る。安全バーを降ろして十数秒後、ジェットコースターは発進した。ガタンゴトン、と音を立ててトンネルの中を潜り続ける。キャラクターたちの世界観を表現したトンネル内部は薄暗い。少しずつ、少しずつ登っていく。
「わ!うさ太郎!やっぱいつ見ても可愛いな〜!」
「...そう?ちょっと怖くない?」
小声でそう返事する。目が木製のボタンで縫い付けられているがよくみると非対称だ。深夜に見たら相当怖いだろう。
「わかってないな〜。これがいいんだよ。昨日もおんなじこと言ってたよ?」
「怖いものは怖いんだからしょうがないじゃ...わ。」
ぐん、と勾配が急になりずんずん上へと昇っていく。
トンネルを抜けるとそこは雪国...とは程遠い青空だった。
ガコン、キュラキュラキュラ...そんなを音を立てて車体が登りきり、一気に落下した。
「「うわあああああああああ!!!!!!」」
浮遊感と落下感を全身で感じ、二人同時に叫び声を上げる。
上がって、下がって、また上がって。乱高下と回転を繰り返しながら、僕らは叫び続けた。
「......アハハハ...!ハァハァ...面白かったね〜!」
「ははは...そうだね。ふぅ...。」
途中から悲鳴は嬌声へと変わり、そして笑い声となった。
笑い疲れて息を切らして。二人でシートを降りて外へ出る。
が。
「っとと...」
「?! 大丈夫?!」
よろめいて転びかけてしまう。一応の病み上がりと先程までの暑さと急な乱高下の三色パンチでふらっときた。
「ごめん、もう大丈夫...。」
「いやいやいや!大丈夫ではないでしょ!」
「う...」
「しょーがない、今日はもう帰りますか!また今度来て満喫すればいいよ!」
「...ごめん」
「謝ることじゃないよ!肩、貸そっか?」
流石にそこまでカッコ悪い真似は夏希の前で出来ない。
...まただ。また、何か思い出せそうな気分になっているのに。喉に小骨がささったかのような感覚がじくじくと続く。
そう思いながら入り口まで帰ろうと歩いていたその時。
サァァァァ....そんな音を立てて、雨が降りだした。快晴はいつの間にか曇天へと変わり、雨粒が僕らを穿つ。
「えっ雨?!ここんところ最近、天気コロコロ変わりすぎだよ〜。...走れそう?」
「...なんとか。」
少し無理をすれば、走って駅まで行くことが出来そうだ。そのまま二人で入り口を潜って、場外へと出た。少しまた息を整えて、全力ではないけど猛ダッシュ。
そしてそのまま横断歩道を渡ろうとして...滑った。
「危ないっ!」
ドン、と突き飛ばされた感覚が背中にあった。
ッキキィー!!!!!!!!
もんどり打った僕の目に映るのは急ハンドルをかけて僕を避けようとするトラックと、今にも突き飛ばされる夏希だった。
ブーッ、と怒りを表すようにクラクションを鳴らしてそのまま何事もなかったかのように走り去ったトラック。そして、何事もなかったように立ち尽くす夏希。
軽く地面に打ち付けられた脳髄が、全てを思い出した。
「全くもー。...私に助けられるのこれで2回目だよ?レン。」
「夏希...夏希ぃ!」
そうだ。昨日、僕と夏希は3回目のデートで。夏希が行きたいって言った遊園地に来ていたんだ。
今日みたいにジェットコースターに乗って。今日は出来なかったけどゴーカートを運転したり、観覧車に乗ったり。
そして同じように僕が疲れて、早めに帰ることにしたんだ。
昨日も帰りに雨が降って。それで...
「夏希...ごめん、ごめん」
「謝ることじゃないよ。だって、私がレンを助けたかったんだもん。」
僕を庇って、夏希は昨日死んだ。
僕の弱さが、夏希の幻を見せていた。記憶を失っていたんじゃない。夏希がもういないことを認め切れなかったんだ。
「...もう、大丈夫?」
「...大丈夫じゃ、ない。けど、もう...うん。」
「そっか。じゃ、気をつけて帰るんだよ?お葬式、ちゃんと来てね。」
そう言って夏希は消えた。
雨は止んだけれど、前はまだ見辛いままだ。
いかがだったでしょうか。最初から気づいてたぜ!って方は御慧眼。また読んでくだされば幸いです。