二人きりの帰り道 その一
人気のない公園の隅っこで、私はブランコを揺らしていた。どんよりとした灰色の雲からは雪がぽつぽつと落とされている。
午後の二時を少し過ぎたころ、学生ならまだ学校にいるはずの時間だが私はそうじゃない。今日だけに限らず、翼と一緒に住むようになってからの一か月間、一度も登校していなかった。そんな様なのに二学期ももうすぐ終わりを迎えようとしている。
危機感のようなものはなんとなく胸の中に芽生えているのだが、学校に足を運ぶつもりにはなれなかった。留年になるかもしれないがそれならそれで仕方がないと腹は括っている。
それに家の中に引きこもろうが、公園に居座ろうが、学校に行こうが、どこにいても一人であることに変わりはない。
「…どうせ行ったって」
それでもよりによってわざわざこんな寒空の下で時間を潰しているのには理由がある。この公園は私にとって馴染みの深い場所だからだ。
ここで私は翼とよく話していた、らしい。そう彼の口から聞いた。話しても話さなくても何も変わらないようなことを長々と日が落ちるまでずっと。それだけでも驚きなのに、喋っていたのは翼じゃなく私ばかりだったそうだ。今の私には想像もつかない。
隣にあるもう一台のブランコに翼が座っていることを想像して、手を伸ばす。
もし今彼が座っていたとして、昔と同じように話すことが出来るだろうか。
「…できない」
無理だ。私は話が上手じゃないし、好きでもない。聞き手としても話し手としても赤点必至のつまらない人間だ。自分でも嫌になる。
「…覚えてさえいたら」
私は今も明るい人間のままでいられたのだろうか。
頭の中で何度も繰り返した思考を懲りもせずに続けている内に、小さな人影が二つ現れた。目を向けると薄着の男の子が二人で私の方に視線を寄越している。
ああ、これに乗りたいんだなと気づき、すぐに降りた。遊具は子供のためにあるのだから当然のことだ。
公園から去る際振り向いてみると、二人の男の子ははしゃぎながら、ブランコを激しく揺らしていた。そういう風に使うことがあるとは知っていたが、実際に見たのは初めてかもしれない。日が出ている内に寄ることは殆どなかったから。
結局何も思い出すことができなかった。元から期待はしていなかったが溜め息が出てしまう。
「帰ろうかな…」
やることがないわけでもない。洗濯物を畳んだり、部屋を掃除したり、お米を炊いたり。翼はやらなくていいと言っていたが、いつまでも甘えているわけにはいかない。少しは役に立たなければ。
それと彼には言っていないが自分でもこっそり料理の練習をしたりしている。最初は目玉焼きすらまともに作れなかったが今は卵焼きに挑戦中だ。まだ『料理が出来ます』なんてことすら口が裂けても言えないレベルの腕前だ。いずれはマシになるといいのだが。
公園を出る直前、私と入れ替わるように赤いランドセルを背負った小さな女の子がやってきた。沈んだ顔で何かを探すように下を向きながら歩いている。
「…」
困っているのは明白だが、それだけの理由で手を差し伸べられるほど人間は出来ていない、というより勇気がない。というか私みたいな人間にいきなり話しかけられたら怖がってしまうだろう。金髪だし。
言い訳を重ねている内に背後からポスンという音がした。まさかと思い振り向くと小学生は転んでいた。下ばかり向いているからバランスを崩してしまったのだろう。
鼻を啜る音と肩を震わせるその仕草、小学生が泣きそうになっていることは火を見るよりも明らかだった。
「うぅ…うっ…ううっ」
小学生の呻き声は段々と大きくなっていった。時限爆弾のタイマーみたいだ。爆発する五秒前といったところだろうか。
「…はぁ」
ここまできては流石に、何もしないわけにはいかない。年長者としての道徳的義務を果たさなければ。
小さく咳ばらいをしてから小学生のランドセルを軽くつついた。地べたに座ったまま泣きはらした目で私を見上げる。
「…こんにちは」
「こん、にちは?」
挨拶をしたが首を傾げられてしまった。いきなり赤の他人に話しかけられて驚いてしまったみたいだ。
「…困っているみたいだったから…私に解決できるかは分からないけれど、話してみてくれないかな?」
「えっと…ママ、じゃなくてお母さんからね…えっと…渡されたんだけど、カバンに入ってるはずなのに…ぃぐっ、なくなっちゃってぇ」
要領を得ない説明の最中に女の子は泣き出してしまった。これでは手の施しようがない。
両手につけている手袋に視線を落とす。こっちを使った方が早く片がつきそうだ。右手の手袋を外す。
「…ちょっとごめんね」
泣きじゃくる女の子の手にそっと触れる。瞬間、ノイズが暴風雨のように頭の中で反響する。雑音のように聞こえるのは触れているこの子の心の声だ。
翼が人間離れした身体能力を持っているように私にも特別な力がある。触れた相手の心と自分の心を繋げる力。あまり使いたくはないけど、偶には役に立つこともある。ちょうど今みたいな時に。
『泣き止んで。大丈夫だから』
「うっ!…ううっ…ぐすっ……う……」
私の言葉一つで女の子はだんだんと落ち着きを取り戻した。別段私の声に人を安心させる力があるわけではない。私の力で強引に落ち着かせたのだ。
私の力と言うのは平たく言えばコンピューターのハッキングみたいなものだ。心というソフトに侵入し、情報を読み取ったり改竄することも、ハードである肉体に命じた行動を強制させることが出来る。
手を離して接続を切る。事情は把握した。彼女の名前も、どこに住んでいるのかも、何に困っているのかも。
「…澪ちゃんっていうんだね」
「……どうして、私の名前分かるの?」
女の子、澪は目を真ん丸にする。黒い瞳はさっきまで流していた涙のせいかキラキラと輝いて見えた。
「…鍵を失くしちゃったんだね?」
「すごい!なんで分かるの!?」
自分の心の内を言い当てられたというのに、なんて純粋な反応なんだろう。大人だったら気味悪がるのに。
「…お姉さんは魔法が使えるんだ」
喜んでもらえたのが嬉しくてつい出鱈目を言ってしまった。いや、あながち出鱈目でもないのか。種も仕掛けもないんだし。
「朝、お母さんに言われてカバンにしまったのに…入ってなくて…だからどこかで落としたのかもって思って、探してた」
女の子は拙い言葉遣いで一生懸命に私に説明する。心を読んでいるからもう説明の必要はないのだけれど、黙って最後まで聞いた。
「…ありがとう、よく分かった」
とりあえず頷いてみせたのだが、困った。心を読んでみても鍵の位置なんて分からない。この子が知っている情報しか読めないんだから当たり前だ。
試しにランドセルの中を探させてもらったがやはりなかった。底の部分に入っていないかと期待していたのだが。
本人が言うようにどこかで落としてしまったのだろうか。しかし落としたその瞬間を覚えていないのではどうしようもない。
通学路を一緒に辿って探すか、それか鍵を探すのは諦めて親が来るまで待つか。
しかし、澪は期待した眼差しで私を見つめている。魔法使いだと言ったのを完全に信じ切っているみたいだ。それこそ魔法のように鍵を見つけてくれるのだと思っているのだろう。
「うっ…」
期待は裏切りたくない、のだがどうすればいいのだろう。この子の記憶の中では鍵はランドセルの中に入っていた。そこにない以上…
「あ」
唐突に閃いた。もしかすると…
「…ごめんね」
断りを入れてからもう一度ポケットの中を探る。ただし今度はランドセルのじゃなくて彼女が着ているセーターのだ。
左の中にはティッシュしか入っていなかった。右には…
「…ん」
柔らかい手触り。ハンカチだろうか。しかし突いてみると布では有り得ないくらいに硬い感触がした。取り出してみる。
「…あった」
キャラクターの絵がプリントされている可愛らしいハンカチ。鍵はその中に包まれていた。
「…これで合ってるかな?」
確認してみると澪は大きく首を縦に振った。あんまり激しいものだから残像が見える。
結局のところただの思い違いだったのだ。カバンの中に入れたと思っていたが、本当は上着のポケットに入れていたという、それだけの話。私の力で読み取れるのは事実ではなく本人の記憶だからそれが分からなかった。
澪が勘違いしているのかもしれないと思い至った理由も大したことではない。私もそういう経験があったというだけのこと。鍵を失くしたと思ったら別の場所に入っていたなんてことは日常茶飯事だった。
「お姉ちゃんすごい!!本当に魔法使いなんだ!!」
鍵を手渡すと澪は無邪気に跳ね回って喜んだ。子供のエネルギーと言うのは本当に凄まじい。あんなに落ち込んでいたのに今では有頂天。私は真似できそうにない。
「…私の力はほとんど役に立たなかったけど、まあいいか…」
実際役に立ったのは“魔法”ではなく誰にでもあるような人生経験だった。しかし子供の夢に水を差すことほど無粋なことはない。胸の中に閉まっておくとしよう。
「澪、どうしてこんなとこにいるの?」
女の声が聞こえた。初めて耳にする声だったけれど、誰なのかはすぐに分かった。澪の心を読んでいたから。
「あ、お母さん」
振り返るとトートバッグを持った女性が立っていた。澪の母親だ。パートの仕事が終わって帰ってきたのだということも私は知っている。
澪は私の傍から離れて母親の方に走ってしまった。そんな小さなことでなぜだか胸が痛む。
「この人は誰?遊んでもらってたの?」
「お母さん凄いんだよ、この人。何にも言ってないのに私の名前とか考えてること全部当てちゃったんだ」
「それは…凄いね」
母親の表情がほんの僅かに不審そうなものに変わる。予想出来ていたことではあるけれど傷ついた。
「娘が世話になったみたいで、ありがとうございました」
「…大した事じゃないですから」
社交辞令ではあるのだろうが一応礼を口にして足早に去っていった。怪しい女から娘を遠ざけたいのだろう。
母娘は手を繋いで帰っていく。ほとんどの人間にとって微笑ましいものであるはずのその光景を見ることが私には苦しかった。私は自分の母親とあんな風に歩いたことがなかったから。
私の家は母子家庭で兄弟も一人もいない。唯一の家族である母も働きづめでほとんど家にいなかった。学校が終わって家に帰っても暗い部屋の中で一人きり。晩ご飯だって一緒に食べることはほとんどなかった。
羨ましい、妬ましい。ドロドロとした汚い感情が胸の中で溢れ出る。みっともない。あんな小さな子に嫉妬するなんて。
ポケットの中に手を突っ込んで音楽プレーヤーを探す。すぐにもうないことを思い出して、手を抜いた。
「…………」
家に戻ろうと思っていたけれど、もうその気はなくなっていた。今あそこに戻っても誰もいない。惨めで寂しい気持ちが増すだけだ。
「翼…」
彼に会いたかった。会ってどうするつもりかは自分でもよく分からない。よく分からないのに足は勝手に動いていった。
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