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悲観主義者でも空は青い  作者: 無知無知
一章
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小さな約束

 十二月二十日。二週間足らずで今年も終わるというこの日。いつものようにぼんやりとしながらオレは一人高層ビルの上に立っていた。向かい側のビルのディスプレイにはニュースが流れている。


 〇〇大学のサークルで集団強姦事件が 大学側は今朝記者会見を… 被害件数は発覚しているだけでも十を超え…


 嫌なものを見てしまった。そういえば一昔前にも似たようなことがあったってネットかなにかで見た気がする。


 胸糞は悪いがこういう報道が出たということは事件が解決したということだ。勿論被害者の心がそんなもので癒える訳はないだろうが…泣き寝入りのまま終わるよりはマシだろう。


 目を背けて、屋上の縁に向かって走り出し、跳んだ。


 空に向かって体が飛んでいく。地面からの距離が更に遠くなる。けれど上昇はいつまでも続くわけじゃない。足で稼いだ運動エネルギーが切れて、重力に体が引っ張られ始めた。


 体は放物線を描いて向かい側のビルに着地した。その勢いを殺さずに走り続ける。さっきと同じように屋上から屋上へ飛び移っていく。


 こんな風に自分が普通の人以上に身体を動かせることに気づいたのはもう随分昔の話だ。ある日を境に身体が羽のように軽くなって、途方もない距離を息も切らさず走れるようになっていた。 


 原因がまるで分からなくて最初は戸惑いもしたが、今ではそういうものだと自然に受け入れている。鳥が空を飛ぶことに疑いを持たないのと同じだ。慣れた今となっては自分の力に驚くこともない。


 次のビルに飛び移るまでのほんのわずかな間、地から足を離し空中に身を投げ出す。この瞬間が好きだ。見下ろせば、車や建造物から零れでる光が街を色鮮やかに飾っている。普段自分たちが歩いている何でもない風景も高度がほんの数十メートル上がるだけで違ったものに見える。


 この景色も慣れてしまったら何も感じなくなるのだろうと思っていたが、そうはならなかった。本当に綺麗なものは何度見たって劣化しない。


 景色に見とれて墜落しないように目線を前に戻し、慎重に勢いを殺しながら着地する。足にぐっと負荷が掛かった。


 陽はほとんど沈みかけていた。少しばかり急がなければいけない。


「約束したんだよな…」


 確かめるように小さく呟いた。そう。今の自分にはちょっとした約束を果たす義務があり、相手を待たせるわけにはいかない。


 約束した相手、音羽唯という少女の顔を思い浮かべる。少し無口で表情の起伏が少ない。金髪碧眼という変わった風貌をしている。家族ではないが、わけあって今は同じ家に住んでいる。


 彼女は今何をやっているだろうか。想像しようとしたが上手くいかない。まだ彼女のことをよく知らないのだ。


 この奇妙な共同生活も一か月近く続いているが、あまり会話も交わしていない。家の中でもジッとしているところしか印象になかった。


「……あ。ちゃんと昼ご飯食べてるかな?」


 あの調子だとお昼時になっても何も食べずにいそうだ。適当なものを見繕っておいたがわざわざそれを引っ張り出して口に運んでいるイメージが出来なかった。


 心配になって少し速度を上げた。





 ベランダからぼんやりと外を眺めていた。約束までの間、何もやることがなかったから。空が青から赤に色を変えて、とうとう藍色になってしまうまでずっとこうしている。


 何を考えていたのかは覚えていない。そもそも考えてなどいなかったのかもしれない。置物のようにただ座っていた。


「…あ」


 遠くで建物の上をなにかが飛び跳ねているのが見えた。私をこの家に住ませてくれている少年、黒羽翼だ。


 跳んで、跳んで、また跳んだ。こうして遠くから眺めているとあまりそうは見えないけれど、本当はとても速くて目にも追えないことを知っている。


「………」


 落ちるのが怖くはないのだろうか。いくら人間離れした身体能力を持っていてもあんなに高いところから落ちれば大けがは免れないだろうに。


 でもそんな疑問は小さなもので、気になっているのはもっと別のことだった。


 私もあんな風に走れたら、何も悩まずにいられるのだろうか。空を駆けるように飛べれば違う自分になれるのだろうか。


「…くだらない」


 そんな仮定は意味がない。そもそも“たられば”自体が無意味だ。そろそろ立ち上がって建設的なことをしよう。そう思った時、突然、奇妙なモノが視界に映った。


「え…?」


 黒い靄のようなものを身に纏った、怪物としか言いようがない生き物だった。人のように二本の足で立っている。“人のように”と言ったのはソレが人間には見えなかったからだ。背中を曲げている今でも百九十センチはあるように見えるし、手足が異様なまでに細く長い。


 それはじっとこちらを見つめている。敵意は感じられない。何をするでもなくただそこにいるだけ。


 普通なら叫び声を出してもおかしくないような状況だったのに、私は少しも恐怖を感じなかった。何故か知らないが親近感を覚えたのだ。


 目を凝らすと黒い靄の奥に寂しそうな瞳が見える。親に見捨てられた子供のような目だった。


 惹かれるように私は手を伸ばした。ソレも同じようにゆったりと手を伸ばす。指先が触れあう直前に


 世界に音が戻った。自動車が走る音、叫び声に似た隙間風の音、凍えるような冷たさが今ははっきりと認識できる。


 あれは幻覚だったのか?試しに目をこすってみたが、あの怪物は影も形もなかった。


「あれ、こんなところにいたの?」


 声がした。いつの間にか翼がベランダの柵を乗り越えて私の傍に立っていた。ビルの上を走って帰るときは玄関からではなくこっちから帰ってくるのだ。


「…寒く、ないの?」


 彼が遠慮がちな声を出す。それを私は


「……別に、大したことじゃない」


 いい返し方を思い付かなかった。そもそも人との会話自体に、発声することにすら慣れていない。無愛想で会話の広げようがない最低な返答だ。気遣ってくれているというのに。


「そっか。ならいいんだけど」


 なんでもないような言葉。少しも乱れのない声。機嫌を損ねてはいないようだけど。


「そういえばさ、唯」


 彼が何かを言いかけた時だった。グーと獣が唸るような音が響く。いや、獣と言うのは正しくなかった。虫の音だ。私の腹の。


「……………」


 視線を合わせたまま沈黙だけが続く。すごく、恥ずかしい。顔だけじゃなく体中が熱かった。


「お腹空いてるの?」


「…」


 声は発さず頷きだけで答えた。昼間からずっとここで座っていてご飯を食べるのを忘れていた。


 そんな私を見て彼はフッと笑った。人の生理現象を笑いものにするとは、失礼な人だ。


「…なにその小馬鹿にしたような笑い方」


「いやごめん。なんか予想通りだなって思って」


 よく分からないことを言いながら翼は靴を脱いで部屋の中に入る。私もそれに続く。


「でもそれならご飯作るのは難しそうか。オレ急いで作るから、唯はお菓子でも食べて…」


「ダメ」


 私と彼は小さな約束をした。“一緒に夕ご飯を作る”という約束を。言い出しっぺは私なのだし今更撤回は出来ない。


「分かった。でもその前にお腹が鳴らないようになにか食べようか」


「…デリカシー」


 私の小さな抗議を彼は笑って受け流す。腹立たしいけどちょっとだけ嬉しかった。




 約束と言っても大したことではなくてただ一緒に料理を作るだけだ。居候の身なのだから少しは役に立たなければ申し訳が立たない、自分にも教えてほしい、そう頼まれたのだ。そんな気を遣わなくてもいいと思ったのだが、止める理由がなかった。


「……」


 彼女はモグモグと家に置いてあったバターロールを頬張っている。よほどお腹が空いていたのか一気に三個も平らげてしまった。


「栄養補給は十分?」


 コクリと小さく頷いた。こんなに食べて夕飯は入るのだろうか、気がかりではあるが始めていこう。


 タマネギを冷蔵庫から取り出して皮を剥いた。それをまな板に置く。ついでに合いびき肉も外に出しておいた。冷えていると捏ねるときに手が痛いだろうから。


 今日作るのはハンバーグだ。そんなに難しくないしタネを手の上で捏ねるのは結構面白い。料理を作るのが初めてなら楽しめるのではないかと思ってこれに決めた。


「まず玉ねぎをみじん切りにするんだけど…やり方は知ってる?」


「…」

 唯は言葉で答えず、フルフルと首を振る。見せた方が早いと思い、タマネギを半分に切った。


「まずこうやって縦に切り込みを入れて――」


 包丁を動かしながらも、オレは別のことを考えていた。昔のことだ。




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