文学少女JKは目覚める
私が被っていた清楚の仮面は、あまりにも簡単に剥がれ落ちた。
「えっと……これどうなってたんだっけ」
見なかったことにしてくれているのか、本当に見ていないのかはわからないが、将人さんが本棚を守っていたカーテンを直そうとしてくれている。
いや……見なかったなんてありえない。私が見たのだ。ばっちりと本棚の方へ目を向けている将人さんの姿を。
それが恥ずかしいものであったからこそ。
見るに堪えないものであったからこそ。
将人さんは優しいから。何事もなかったかのようにしてくれているんだ。
……なんて情けないんだろう。なんて私は恥ずかしい人間なんだろう。
そう思った瞬間に、心が酷く苦しくなって。
羞恥心と一緒に、将人さんに見せたくないものまで込み上げてきたから。
「……ッ!」
「汐里ちゃん!?」
私は駆け出していた。
部屋を出て、一目散に階段を降りる。
「汐里?どうしたの?!」
居間から出てきたお母さんの声も聞かないで、たまらず私は玄関から飛び出してしまう。
そのまま走る。走る。
この感情が冷めるまで。
視界の奥で、夕陽が沈もうとしている。ああ、もうそんな時間だったっけ、なんて思いながら。
あの夕日が沈んだら、私が将人さんの隣にいられる時間も終わるのかな、なんて。
途中で、涙が溢れてきた。
こんな汚い女の涙を、将人さんに見せるわけにはいかないから、仕方ないよね。
ああ、なにもかも、もうおしまい。
物語のヒロインになれるかもしれないと思ったけれど、やっぱり村人Bにこの世界は厳しくて。
ちょっと良いものを買って、ちょっと良い化粧をしたからって、そう簡単にヒロインにはなれないってわかって。
現実に打ちのめされる。
やっぱり現実なんて、ろくなもんじゃない。
近くの川原まで走ってきて、疲れて芝生の上に腰を下ろそうとして……。
「ぐえっ」
勢い余って芝の斜面を転がり落ちた。
「……ったぁ……はは……なにやってんだ私」
せっかく用意した好きな服は芝まみれ。膝はどこかで擦りむいたのか血が出ていて。
セットした髪ももちろんそれどころじゃなくて。
よかった。周りに人がいなくて。
転がり落ちたままの体勢、乱れた呼吸。今の自分にはとてもお似合いだと思う。
「バカだねえ……元々こんなクソオタクには身に余る人だったってだけじゃん?」
わかってる。自分がどれだけ背伸びをしたって届かない人であることは。
わかってるはずなのに。
将人さんが本棚を見た時、あれだけ心が苦しんだのはきっと。
やっぱりどこか隣に立てるかもしれないと思っていたからであって。
ちょっと優しくしてもらって。
ちょっと写真を撮ってもらったからって。
勘違いして。
処女丸出しじゃん。私。
あー、本当に、ダサい。
そんな、タイミングでも。
ヒーローは、構わずやってくるんだ。
「汐里ちゃん!」
……ああ、やっぱりヒーローはヒーローなんだな。
もっと他にやることがあるはずなのに、私はそんなことを考えた。
心配そうにこちらに走り寄って来る将人さんの姿は、やっぱり素敵でカッコ良くて。
私には、あまりにも眩しすぎる。
「大丈夫?!って膝擦りむいてるじゃん!え~っとハンカチハンカチ……」
ぱたぱたと手で私の服についた芝を払って、膝にできた傷をハンカチで止血してくれる将人さん。
本当は、止めた方が良いんだろう。ヒロインとして振舞うなら、かけるべき言葉も、行動もあるけど。
私にもう、その権利はないから。
「どうして」
「え?」
「どうして優しくしてくれるんですか?」
私は初めて私のまま将人さんにぶつかった。
「みましたよね?本棚。私、超オタクなんですよ。いやー流石に引きますよね『私に3人の弟ができました』とかね。再婚して連れ子の男の子3人が弟になるんですよ?どんな話だって思いますよね。あ、いやでもこれが意外と皆良いキャラしてましてね、一番お兄ちゃんの子が下の子がいるからって普段は毅然と振舞ってるんですけど、2人きりになると甘えてくるんですよねこれが可愛くてですねってこんなこと聞いてないですよねあはは」
もう、どうにでもなれと思った。
今後も一緒にいながら、「この子は本当はオタクなんだ……」って思われるくらいなら、もういっそ曝け出した方が都合がいい。
「気持ち悪い」と引かれて、家庭教師を辞めてもらった方がまだマシ。
だから、私は全力でアクセルを踏んだ。
それでもやっぱり、心から恋焦がれた人に引かれるのは辛いかもしれない。
今は早口で喋って地面を見つめていたから将人さんの表情は見られていない。直視するのが怖い。
恐る恐る、将人さんの方を見る。
「え、なにそれ面白い」
「……うぇ?」
変な、声が出た。
「え、いや面白いなって。そんな感じになるのかこの世界だと……それでそれで?他の2人はどんなキャラなの?」
「あ、え~っとそれはですね」
拒絶でも、引いてるわけでもない。かといって、気を遣っている様子ですらない。
シンプルに、興味を持って聞いてくれている顔だ。
私は昔からオタクをやっているから、相手の表情や言葉遣いで、本当に興味を持っているかどうかをある程度察することができる。
このスキルがあるおかげで、私は女友達ともそこそこ仲良くなれたのだから。
そしてそのスキルは今、目の前にいる将人さんは『純粋に興味を持って聞いている』という答えを出している。
え?そんなことある?
放心状態のまま、私は言葉を紡ぐ。
こんな時ですら、好きな作品の説明はすらすらと出てくるのだから本当に笑ってしまうけど。
それから、しばらく話して。
「ははは!そんな感じなんだマジで面白いね!今度来るときまでに読んでくるね」
「えっ?!あ、いやマジですか?マジのマジ?あ、それなら貸しますよ本……」
「あ、ホント?!ありがとー!」
どうしてこんなことになっているのだろうか。
困惑が隠せない。
私が大絶賛困惑中に、将人さんが立って、一つ伸びをした。
「じゃあそろそろ帰ろうか!」
「あ、えっと、ちょっとマテ茶。じゃなかった、待ってもらっていいです?」
きょとんと、こちらを向くカッコ良い男の人。
顔を見るたびに、これが現実なのかどうかわからなくなる。
わからない。
この人が、本当にわからない。
「あの、私、オタクだったんですよ。けっこう重度の」
「え?うん」
「いや、うんじゃなくてですね……ほら、キモいとか!あるじゃないですか!そういうの!」
「ええ……」
なんでこっちが何言ってるのみたいな顔されなきゃいけないんですかねえ?!
こっちがどんな思いで……!
「なんだろ。汐里ちゃんがオタクなのはわかったし、それについて汐里ちゃんがコンプレックスに感じてることもなんとなくわかったよ」
「いやそりゃ全オタクはコンプレックスに感じてますよ……!」
「うーん、もしかしたら俺の反応はおかしくて、間違ってるのかもしれない。けどさ」
私の髪にまだ残っていた芝を、将人さんが優しくとってくれる。
心臓が、ドクンと大きく鳴った。
やっぱり、この人は――。
「篠宮汐里ちゃんの素敵なとこもう他にたくさん知ってるのに、それだけで嫌いになったり、引いたりするわけないじゃん」
――平気でこんなことを言ってくるんだ。
もう、この人になら、私の全てを知られたって良い。
そんな風に、思ってしまう。
勢いよく、立ち上がった。
「……っ!ああもう!もう知りませんからね!もう私猫被りませんからね!!責任取ってくださいよ!!ありのままの私で、引かないでくださいよ!!!」
「はははっ!良かった、元気出てくれて。前から思ってたんだ。汐里ちゃんと素でもっと話したいなって」
「いっくらでも話してあげますよ!!知らなきゃよかったっていうくらいのエグいゲームの話いくらでもしてやりますからね!!将人さんの綺麗なお顔が羞恥に歪むのを想像するだけで滾りますよええ!!」
「えー?綺麗なお顔だなんて嬉しいなあ。ありがとうね」
「耳の構造どうなってんだおんどれは!!!!」
楽しい……楽しい!
もう、取り繕わなくていいんだ。
私は私のままで、将人さんと一緒にいられる。
それだけで嬉しくて。
心が晴れ渡っていくような気がして。
「痛っ!!」
膝の傷のことを、すっかり忘れていた。
「あ、膝まだ流石に痛むよね……」
「あ、平気ですこんなのつばつけときゃ治るんで、へへ……」
「その三下ムーブは一体なんなの……」
私の感情はさながらジェットコースターだった。
もう自分で何言っているのか、よくわかってない。
出てきた言葉を脳を介さず話している気すらしてくる。
少しだけ考え事をしていた将人さんが、「ん~……まあ仕方ないよね」と呟いたかと思うと。
私の前までやってきて、背を向けてしゃがみこんだ。
え?
「はい、乗って。ちょっと、汗臭いかもだけど」
「え?いや全然フローラルですけど?世の中の柔軟剤が泣いて謝るレベルですけど……?」
「それはそれで怖いよ……」
こ、これは……おんぶプレイ?!
いきなりハードすぎるぜ……じゅるり。
ただし本当に信頼してくれていることも伝わってくるので、変なことはできない。
恐る恐る、私は将人さんの背中に乗っかった。
手を、首元に回す。
そしてゆっくりと……浮遊感。
将人さんの大きな背中。
わずかに香る、将人さんの香り。
感じる、体温。
全てがどうしようもなく、愛おしい。
恥ずかしいけど、嬉しくて。
どうしよう、興奮してたらキモいし、ごまかさないと。
「宇宙世紀10年の歴史が今――」
「……俺ガンダムだったっけ?ほんで短いな歴史」
――こんなくだらないノリに付き合ってくれるこの人は、本当に最高の人で。
軽く、後ろを振り向く。
遠くに見えていた夕陽はもう、既に沈んでいた。
綺麗に終わったら、今日は素敵な1日でした。やったね、で終われたのだけど。
私の場合は、そうもいかないらしい。
「それで三秋って奴がですねー」
「そりゃひどいね!」
「ほんとですよ本当にゴミクズで――」
背負ってもらっている帰り道。
それはとても幸せな時間で。
だからこそ。
それは本当にふとした瞬間、という奴だった。
街灯も灯り始めたこの時間帯。
背負われた私は、将人さんの背中を堪能するべく、色んな箇所を穴が開くほど見ていた時。
(え?)
それは、首元にあった。
赤い、楕円形の跡。
いくら処女とはいえ、私でもわかる。これはキスマークだ。
「――っ?!」
「……?どうかした?汐里ちゃん」
声にならない声が出た。
私が息を呑んだのがわかったのか、将人さんが顔だけちらりとこちらを向く。
あどけない顔。
端正で整った……極めて純粋なその表情。
けれどその身体には、確かに刻み込まれている。
誰かにつけられた、“跡”が。
将人さんはカッコ良い。性格も完璧。
周りに女の1人や2人いてもおかしくない。そう思ってはいたけれど。
こうして形として見てしまうと――。
興奮する。
え?なんで?
普通絶望とか、嫉妬とか、そっち方面の感情が沸いておかしくないのに。
私はひどく、興奮していた。
だって、私じゃない誰かが、将人さんを組み敷いて。
この純粋で美しい青年をぐちゃぐちゃにして、跡までつけたのだとしたら。
その情事を思い浮かべるだけで、私の身体はこんなにも――。
「あっ……」
「?汐里ちゃん、どうしたん?」
「ずみません……鼻血が……」
「ええ?!ちょっと待って、ティッシュ出すから……」
あぁ、なんて業が深い。
でも、もっと見せて欲しい。
可能性を。
女の劣情を一気に受け止める将人さんの姿を、見たい。
もとより、こんな素敵な人を独り占めできるなんて思ってないから。
だから、分けて欲しい。
ポケットからティッシュを取り出そうとわたわたしている将人さんの首元に、しっかりと掴まった。
こんな、女の汚い感情からもっとも遠い場所にいるはずの人が、受け止めている。
現在進行形で、きっと。
その証が、これ。
凝視する。つけられた“跡”の部分を。
ああ、身体がどうしようもないほどに熱い。
このためならみっともなく土下座だってできる。
そうするだけで、できるなら。やらせてほしい。
いつか私も。
このカッコ良くて、物語のヒーローみたいな将人さんを。
ぐちゃぐちゃにしてあげたい。




