正義の仮面バイター
菊地政樹、年齢25歳。
「はい……はい……申し訳ございません……はい……」
職業:フリーター。勤務先:某コンビニエンスストア。
「はい……申し訳ございません……はい……申し訳ございません……」
現在絶賛謝罪中。
「申し訳ございません……」
「……すみませんでした」
深々頭を下げながら連続謝罪を続ける俺に触発されたのか、隣に立っていた新人バイトの桜坂さんも浅く頭を下げながらしぶしぶ謝罪する。
「……ったく、次からはちゃんと教育しろよ!!」
桜坂さんの謝罪を確認したからか、それとも俺の付け入るスキを与えない連続謝罪にいい加減飽きたからか、散々怒声を飛ばしていた初老の男性客はフンと鼻息を鳴らすと、踵を返して帰っていった。
「はぁ……やっと帰ってくれたね」
客が店を後にし、自動ドアが閉まり切ったのを確認してから俺は安堵の声を漏らす。
「すみません、菊地先輩。私のせいで……」
「いいよいいよ、焦って箸を入れ忘れちゃうことくらい誰にもあるからさ。それに桜坂さんはまだ始めて一カ月だから慣れてないだろうし」
先ほどの客はどうやら桜坂さんが袋に箸を入れ忘れたことに対してキレていたようだった。隣のレジで接客していたところ突然桜坂さんのレジから怒声が飛んで来たため、こちらの接客を終えてから慌てて駆けつけて事の次第を把握した形だ。
箸が入っていないことに対して文句を言う気持ちはわかる。だが、あの怒声は流石に行き過ぎている。まだ仕事に慣れていない新人バイトには酷なものだ。だから俺が代わりに謝罪を受け持った。
……それでも面倒なクレーマー客に絡まれてしまったことに変わりはない。桜坂さんが心に傷を負っていなければ良いが。
「でも先輩、私別に入れ忘れたわけじゃないんですよ。あのおじいさん、レンジで温めるタイプのおつまみを買って特に温めとかもしなかったから、あぁ家で食べるんだろうなぁって思って箸をつけなかったんです。そしたらこの仕打ちですよ、ひどくないですか!! もしまた来たらこれ見よがしに箸入れてやりますよ。買ったのが新聞でも」
心配したけれど、どうやら桜坂さんは大丈夫そうだった。前のバイトをひと月も持たずに辞めたと聞いていたが、どうやら客からの言葉を深く受け止めすぎて病んでしまうタイプではないみたいだ。……桜坂さんタイプはある時からふらっと来なくなってしまうことがあるからそれはそれで怖いけど。
「まぁ、ホテルから来てる人とかだとレンジはあっても箸はないみたいなこともあるからねぇ。いちいち聞くのが面倒だったら、箸を使うものを買った人にはとりあえず入れちゃってもいいよ。入ってないことにキレる人はいても入ってることにキレる人はいないからさ」
「そうですねぇ……。ただでさえレジ袋が有料化したせいで付けるか聞かなきゃいけないのにそれに加えて箸とかも聞くのは面倒なのでとりあえず入れちゃいますね。あっ、でも今度はスプーンとかも有料化しちゃうんでしたっけ」
「みたいだね。環境大臣許せねぇ……」
レジ袋やスプーンの有料化、つまりレジ袋やスプーンを買うとお金がかかるようにすることを推進した男への恨み節を口にしながら、俺は店内を見渡す。どうやらさっきの客が店内にいる最後の客だったみたいだ。
「お客さんもいなくなったし今のうちにフェイスアップしておこうか」
「はーい」
カウンターから出て俺はおにぎりコーナーに、桜坂さんはパンコーナーに向かう。フェイスアップとはお客さんが買っていったことで空いた陳列棚の商品を取りやすいよう手前に引き出すことだ。こうすることで見栄えが良くなるし、お客さんが手に取りやすくなるから売り上げも上がる……らしい。
「ところで先輩」
「うん、なに?」
おにぎりたちを奥から引き出していると、背中越しに桜坂さんの声が聞こえた。
「さっきの先輩、めちゃめちゃ謝ってましたけど、やっぱりあれくらい謝罪の心を見せないといけないものなんですか?」
「いや、逆にあの謝罪には対して謝罪の気持ちはこもってないよ」
「えぇ……そんなんでいいんですか?」
謝罪の気持ちがない謝罪をしたと言ったことに対し、彼女は呆れたような声を出す。
「そりゃあこちらのミスを真っ当に指摘されたらちゃんと謝罪するよ。悪いのは俺達なんだから。でもあんな風に過剰にキレられたら、こっちだって過剰に謝罪するんだ。そうすれば相手の罵声が心に響かなくなるし、互いに相殺されてエネルギーが0になるから」
「なるほど……やっぱり先輩天才ですね」
「ありがとう。よく言われるよ」
気のない返事を返しながら、隣の棚に移動してフェイスアップを続ける。こっちはお弁当や総菜の棚だ。時刻は現在午後5時。お弁当を動かしながら内容物を見て今日の晩御飯は何にしようかなどと考える。コンビニで働いてはいるが、夕食を毎回コンビニ飯にはしない。自炊するよりも圧倒的に高いし、上がった底を見るたびに悲しくなるからだ。時々自炊が面倒だと思った日に買うくらいでちょうどいい。
そんなことを考えていると、幻聴になるほど今まで数万回は聞いてきた入店音が響いた。
「「いらっしゃいませー」」
反射的に俺達二人はお決まりの挨拶をする。商品棚の陰に居たため二人とも客の姿は見えていなかったが、さっきまでお客さんはいなかったはずだから退店ではなく来店音だろう。
俺のおなかが空いてくる頃ということはお客さんたちも同じだ。午後5時から午後7時ごろは健全なホワイト企業に勤める会社員たちの帰宅時刻でもあるため、平日は特に忙しくなる。ちなみに俺が大学を出て入った企業はブラックだったため、御年25歳のフリーターがここにいる。というかもうこのコンビニに勤めて3年も経つのか……。
そんなことを思いながらフェイスアップしていると、賞味期限の古い商品が棚の奥に入り込んでいるのを見つけた。もちろんこのままではいけないのでそれを引っ張り出して棚の最前に並べ直しておく。お客さんは期限が長く、他の人が触れていない商品を奥から引っ張り出して取りがちなので陳列の順番がおかしくなることがある。俺もコンビニバイトをする前はそのようなことをしていたが、バイトを始めてからは店員の労力を考慮して最前列の商品を取るようになってしまった。これも職業病か……。
「先輩、先輩」
「ん? うわっ」
気づけば後ろの棚にいたはずの桜坂さんが真横にまで迫っていた。視線を横にずらしたら目の前に彼女の顔があったので驚いて思わず声が出てしまう。
桜坂さんは他の誰かに聞かれたくないのか、声を潜めて話し続ける。
「あの子、やばくないですか?」
彼女は店内の奥のほうにあるお酒コーナーを指差している。その先に目を向けてみると先ほど入ってきたと思わしき一人のお客さんがいた。しかし、お酒コーナーの前にいるその人はとても成人しているようには見えない女の子だった。スーツを着て手にはアタッシュケースを持っているが、その身長は明らかに中学生並だ。どう見てもただのコスプレである。
「あれってどう見ても未成年ですよね」
「うーん……まだ確証はないけど……」
ここから確認できるのは後ろ姿だけだ。実際に顔を見れば、このような言い方もどうかと思うが『普通の成人女性』ということもありえる。
「ちょっと見てくるよ」
桜坂さんにそう告げ、俺はお酒コーナーへ向かった。
店内巡回を装いながら、すれ違いざま横目に女の子の顔を確認する。
めっちゃ中学生だった。絶対成人してない。アタッシュケースの中には算数の友とかが入っていそうな感じだ。
俺はそのまま流れでレジへと戻る。それを見た桜坂さんも隣についた。
「やっぱり未成年っぽかったですか?」
「うん。これは多分ダメなやつだ」
俺達二人はレジに立ち、未成年飲酒を待ち構える。
そしてその時は来た。中学生と思わしき女の子がレジ前へとやってくる。
「いらっしゃいませ」
「お願いします」
平静を装いながら、カウンターに乗せられたかごの中身を確認する。
そこに酒はあった。ついでに生ハムやバタピーといったおつまみ類も完備してある。図太い奴だ。
酒を持ち上げ、リーダーでバーコードを読み込む。レジから「年齢確認をお願いします」というお決まりの電子音声が流れた。
当然のように女性はタッチパネルでOKボタンを押した。が、そこで俺は手を止める。
「すみません。身分証を確認させていただいてもよろしいですか?」
身分証確認。未成年飲酒や喫煙を食い止める最後の砦だ。普段このような行為をする未成年は明らかに悪そうな雰囲気のため、反撃に殴られるのではないかとビクビクしながら聞いているが、今回はかなり年下のため強気に出る。
「あーーーー……はい」
明らかに面倒くさそうな顔をした後、女の子は財布からカードを取り出してこちらに手渡す。普通ならここで「忘れました」と来るため、面食らってしまった。しかしここで終わりではない。生年月日を確認するまでが身分証確認だ。
手渡されたのは免許証だった。中学生が免許証……? と疑問に思いながらも、それに記されている生年月日に目を通す。
そこに書かれている生まれ年は俺と同じもの。つまり目の前の彼女と俺は同い年ということになる。じゃあこの女の子は25歳……ってコト!? 免許証の顔写真と目の前の彼女を見比べてみても、どうみても本人だった。免許証自体が偽物ということもないだろう。
「もういいかしら?」
「あっ……はい。ありがとうございます」
免許証を彼女に返し、そこからは普段通りに会計作業を行った。しかし何度見てもとても自分と同い年には見えない……。
「ありがとうございました」
商品が入ったレジ袋とアタッシュケースを両手にぶら下げて帰っていく女の子をマニュアル通りの挨拶で見送る。その姿が見えなくなったところで桜坂さんが問いかけてきた。
「あの子成人してたんですか?」
「うん。俺と同い年だった」
「先輩って何歳でしたっけ?」
「25歳だよ」
「じゃああの女の子、私より6つも年上だったんですか!?」
困惑の声を上げる桜坂さんを横に、俺は身長をコンプレックスにしていたら申し訳ないことをしたななど思っていた。
********
交代の人が入り、俺と桜坂さんはバイトを終えて奥の事務所で椅子に座っていた。
先ほどお弁当を眺めたせいで今日は自炊をサボって買ったものを食べようかと思ったが、財布の中身を確認して断念する。給料日前のこの時期は節制が大切だ。
「あっ、先輩のそのキーホルダー、『仮面ファイター』ですよね」
俺の隣でスマートフォンをいじっていた桜坂さんが、俺の財布についていたキーホルダーを見て声をかけてきた。
「うん。でも俺が小学生の頃にやっていたやつだからだいぶ昔のだけどね」
「じゃあ今やってるのは見てないんですか?」
「いや、見てるけど……」
成人男性が未だに仮面ファイターを見ているのは何となく恥ずかしいことのように感じたので小声になってしまう。
「そんな恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ!女の人にも見てる人結構いるって言いますし。ほら、俳優さんイケメンが多いですから。それに大人が見ても楽しめる話なんですよね?」
「うーん、それは作品によるかなぁ」
「じゃ、またおすすめの作品教えてくださいね!」
めちゃめちゃ社交辞令で締められた。まぁ桜坂さんはあんまり興味なさそうなタイプな気がするので仕方ない。
「ところで先輩、クリスマスにシフト入ってるんですね」
桜坂さんが事務所の壁に貼られている今月分のシフト表を見て言う。俺がシフトに入っている次の金曜日は12月24日。クリスマスイブだ。
「うん。普段金曜日に入ってる人が休んじゃってたから。俺暇だし」
自分で言って悲しくなるが、25歳独身彼女なしフリーター男性のクリスマスなんて普通の平日と何ら変わらない。強いて言えばケーキやチキンを買って食べるかどうかくらいだ。ならせめて少しでも悲しみを埋めようと思ってバイトを入れてしまった。
「先輩が入ってますけど相方さんも休みですよね。てことはワンオペになっちゃうんですか?」
「流石にクリスマスにワンオペはやばいから店長が入るんじゃないかなぁ。うち割と人手不足だし」
「じゃあクリスマスに男二人で過ごすんですか……」
「事実だけど悲しくなること言わないで……」
別に店長と一緒のシフトにはいることはもう何度もあったためその点は別にいいが、“クリスマスに”という枕詞が付くと途端につらくなってくる。
「じゃ、私が入りましょうか?」
「えっ、桜坂さんが?」
思わぬ提案に素っ頓狂な声を出してしまう。
「……いや、そんな同情してくれなくていいんだよ。だってクリスマスだよ。桜坂さんは大学生だし友達と遊んだほうが絶対有意義だって」
こういう時に“彼氏と”などと言うと昨今はセクハラになるらしいのでやめておく。
「いえ、私こう見えて友達少ないので大丈夫ですよ」
「それ全然大丈夫じゃないから。本当だとしても俺の方が悲しくなっちゃうから」
というかこんなに明るくて顔も良い桜坂さんに友達があんまりいないとは思えないけれど……。
「まー私の友達事情は謎に包むとしても、クリスマスの女の子なんて大体友達より彼氏と過ごしたいもんなんで、彼氏のいない女の子は案外肩身の狭いものなんですよ」
「そ、そうなんだ」
女の子と付き合ったことがないので事情が実際どうなのかはよくわからないが、まぁ桜坂さんが言うからにはそうなのだろう。
「というわけで、クリスマスイブには菊地先輩と私が入るということで!」
桜坂さんはシフト表に自分の名前を記入すると手早く自分の荷物を鞄にまとめた。
「それじゃあ私これから買い物があるのでもう行きますね。お疲れ様です!」
それだけ言い残すと、桜坂さんは肩に鞄を下げて足早に事務所を出て帰っていった。
……まぁ、もしかしたら直前に抜けるかもしれないしあまり期待しないでおくか。
「……俺も帰るか」
話し相手もいなくなったので、俺も手荷物をまとめて店を出た。
********
店を出て寒い冬空の中を歩き、俺は自宅近所のショッピングセンターに辿り着いていた。最初はまっすぐ家に帰ろうと思ったが、自宅アパートの電球が切れているのを思い出し、こうしてショッピングセンター内の家電量販店に寄ったのだった。給料日前に痛い出費だが、流石に夜を暗闇の中で過ごすのは嫌なので致し方ない。
家電量販店に入るまでの間に辺りを少し眺めていたが、ショッピングセンターはすっかりクリスマス気分だった。多くの店はイルミネーションで飾りつけされ、店の前にクリスマスツリーを掲げているところもある。当日には人も増えてさらに騒がしくなっていることだろう。ショッピングセンターの店員さん達、クリスマスは一緒に頑張ろうな……。
目当ての電球は購入したが、せっかくなので適当に店内を見て回る。クリスマスシーズンだけあり、子供が喜びそうなおもちゃやゲームが目立つところに並べられていた。今はお金がないため厳しいが、俺が買おうか悩んでいたゲームもいくつかある。
そうして店を回っていると、俺はあるおもちゃの前で足を止めた。それは現在放送している『仮面ファイター』の変身ベルトだった。
「やっぱ俺の頃より進化してるよなぁ」
俺も小学生の頃、当時の『仮面ファイター』の変身ベルトを持っていた。しかし現在のおもちゃはそれからだいぶ進化している。変身用アイテムの数もかなり増えたし、ものによっては俳優の音声が入っているものもある。ここには並んでいないが、更に高額で高性能な大人向けの変身ベルトなどもあるらしい。今の俺はあくまで放送されている作品を見ているだけなので最近のおもちゃには触れていないが、現代の子供たちは小さい頃からこのレベルのおもちゃで遊べていると思うとなかなかうらやましかった。
「……『仮面ファイター』か」
ふと財布を手に取り、そこに付けられたキーホルダーを眺める。先ほど桜坂さんに見つかったものだ。
このキーホルダーは俺が小学生の頃にある人から貰ったものだった。普段は思い出さないようにしているのにこんなことを思い出すのは、今日桜坂さんとこのキーホルダーのことを話したこと、そしてその人と出会ったのもちょうどクリスマスだったことが理由だろう。
このキーホルダーにまつわる記憶。それを思い出したくないのは、その記憶が俺にとって忌々しい後悔の記憶だからだった。
15年前のクリスマス、俺は親から当時放送中だった仮面ファイターの変身ベルトをプレゼントしてもらい、大はしゃぎで友達に見せに行った。でもいくら小学生とはいえ、上級生にもなってくると仮面ファイターへの興味は薄れ、「そんなのもう誰も見てない」なんて言われてしまった。
悲しい気持ちの中、変身ベルトを腰に巻き独り公園で遊んでいたところ、一人の女の子が話しかけてきた。
「君も仮面ファイターが好きなんだね」
その女の子は中学生だった。今でこそ“女の子”と振り返っているが、当時小学生の俺からすれば中学生はすごく大人に見えた。だからこそ、大人にも仮面ファイターが好きな人がいるんだと嬉しくなり、日が落ちるまでその子と仮面ファイターについて語り合った。
その女の子はそれからも度々公園に来ており、俺が友達と遊ぶ約束をしていない日には決まってその子と遊んでいた。
女の子は俺が帰る時間になってもいつもまだ公園に残っていた。曰く「家に帰りたくないから」だそう。いつも公園にいるのも「遊ぶ友達がいないから」と言っていた。当時の自分は「ふーん」程度にしか思っていなかったが、その時点で不穏な気配はあったと思う。
ある日、女の子がひどい姿で公園にやってきた。服は泥や砂にまみれ、破れて穴が開いたところからは擦り切れた肌が見えた。流石に小学生だった俺も「早く家に帰ったほうがいい」と言ったが、その子は相変わらず「帰りたくない」と言っていた。仕方がないので俺の家に連れていき、怪我の手当てを行った。
それから、女の子は度々このような怪我をして公園に来ることがあった。そもそも公園に来ない日も増えた。怪我をして公園に来た時、なんで怪我をしているのかと聞いても帰ってくるのはいつも「転んだ」という答えだった。流石に俺もおかしいと思った。
俺はその子のことを周りの大人に相談した。家族や学校の先生にだ。でも、彼らも自分たちと密接な関係のない女の子の問題を解決できるわけがなく、何も変わらなかった。
そして女の子と出会ってから数カ月が経ち、“あの日”が訪れた。
その日の女の子は怪我もなく元気そうに見えた。なので俺も安心してその子と遊んでいた。でも、その日は用事があるのでいつもより早く帰らないといけないと女の子は言った。こんなことは初めてだった。
別れ際、女の子は俺に仮面ファイターのキーホルダーをくれた。「ガチャガチャのシークレット枠で激レアなんだよ」といつも自慢げに見せてくれたものだ。「私にはもう必要ないから」と言っていた。そして複数人の同じ中学校と思わしき生徒達が、彼女を取り囲んで公園から連れ出していく。
「その人達、お姉さんのお友達?」
「うん。そうだよ」
「また来るよね?」
「…………今までありがとうね、政樹君」
それが彼女と交わした最後の会話になった。
あの日以降女の子……お姉さんが公園に来ることは二度となかったからだ。
それから数日後、近隣の中学生が自殺したことを聞かされた。当時はピンと来ていなかったが、少し大きくなってから改めて調べ、それがお姉さんであったことを知った。
お姉さんがどんな目にあっていたか、その情報は小さな記事からしか得られず、詳細はわからなかった。
でも、お姉さんがそうしなければならなくなるまでの間に、どうして周りの人は誰も助けてくれなかったのだろうと思わずにはいられない。俺が相談した人よりももっと身近に、それこそお姉さんの家族や学校の先生がいたはずなのに、誰もお姉さんを助けなかった。俺はそれが悲しくてたまらない。
結局、都合よく正義のヒーローが助けに来てくれるのはテレビの中だけなんだろうな……。
お姉さんの形見のキーホルダーを強く握りしめ、俺はそう思った。
これが俺の忌々しい記憶。
でも……もしあの日、俺が他の生徒に連れていかれるお姉さんに「行かないで」と言えていたら、連れていかれないようにその手を引っ張ることができていれば、最悪の結果は避けられていたかもしれない。他の誰にもなれなかった、お姉さんにとっての“正義のヒーロー”になれたかもしれない。
そんな後悔を忘れないよう、俺は忌々しい記憶とともにこのキーホルダーを肌身離さず持ち歩いている。
……はずだったのだが、結局俺は元勤め先のブラック企業で上司の圧政に何も抗えず、同期の中でも先陣を切って逃げるように退社し今に至っている。自分から行動して正義のヒーローになるとは何だったのか。
「結局、昔から変わらず俺はダメな奴だなぁ……」
家電量販店のおもちゃ売り場の前で物思いにふけり、一人で勝手に落ち込む25歳男性。流石に悲しくなってきた。
「……今日は温かいもの食おう」
心が寒くなったので、その日は余りものの具材で作った鍋を食べて寝た。
********
「おはようございます!」
「お、おはよう」
クリスマスイブ当日、桜坂さんは普通に来た。もしかしたらドタキャンがあるかもしれないなんて考えてしまい、本当に申し訳なかったと思う。というか勤務に対するこのモチベがあってどうして前のバイト先を辞めたんだろう。ちなみにコンビニはいつの時間帯でも出勤の挨拶は「おはようございます」だ。夕勤なので今はもうとっくに日が落ちているが、それでも「おはようございます」である。
「クリスマスに女子大生と過ごせてよかったですね先輩。どうです? 嬉しいですか?」
「うん。まぁそこそこには」
流石にクリスマスとはいえバイト先で女の子と一緒に仕事していることを理由に浮かれるほど、俺ももう子供ではなかった。とはいえ店長と男二人シフトになるよりはずっとマシなので桜坂さんには感謝している。一方、当の桜坂さんは俺の返答に不満げで顔を膨らませていた。
制服に着替え、交代前のシフトの人達と一言交わしてレジに立つ。桜坂さんも同様だ。
「で、クリスマスのコンビニって普段と何か変わるんですか? 先輩」
隣に立った桜坂さんが首をかしげながら聞いてくる。彼女はまだバイトを初めて1か月だから当然クリスマスでの業務をやったことなんてないし、そもそもこういったイベントの日に勤務すること自体が初めてだろう。ここは先輩としてしっかり教えてあげなければ。
「まず一番はチキンの用意だね」
「チキンって、このレジの横に置いてあるやつのことですよね」
桜坂さんはホットスナックのケースに入ったチキンを指差した。
「そうそれ。このチキンだけど今日は普段の倍以上揚げていいから」
「ば、倍ですか……? そんなに揚げたら余っちゃいませんか?」
「大丈夫。クリスマスの日はみんなチキンが食べたくなるものだから。それにコンビニもクリスマスに合わせてチキンをセールしてるからね」
自分も最初にクリスマス勤務を経験したときは驚いたが、クリスマスの日は想像以上にチキンが売れる。ちまちま作ってもすぐに売り切れてしまうので思い切って大量に揚げてみたが、それでも全部売り切れてしまうほどだった。
「じゃあ今日はチキンを揚げるのに徹すればいいんですね」
「うん。なくなりそうになったら揚げておいてもらえると助かるかな。あとはこれも」
俺はホットスナックコーナーに置くチキンとは異なる形状の骨付きチキンを冷凍庫から取り出して、桜坂さんに見せる。
「なんですかこれ。揚げ物には見えないですけど」
「ローストチキン。クリスマス期間はこれも売るんだ」
「へぇー、結構大きいですね」
「その分値段もちょい高めだけどね」
まだ凍った状態のローストチキンの袋を凝視する桜坂さんに袋を切るための鋏を手渡す。
「これはレンジでチンして作るんだ。袋を切ったらレンジに入れて記載されてる分温めるだけ」
「お~、大きい割にはお手軽ですね」
桜坂さんは実際にローストチキンの封を切り、レンジに入れて温める。
「あと、温め終わった後にこの紙箱に入れてある持ち手をチキンの骨のところに付けてあげてね。そうしないとお客さんが食べにくいから」
「了解です!」
「そうしたらホットスナックの横にある常温食品コーナーに入れれば完成だよ。お客さんが買う時に冷えてたら温め直してあげて」
桜坂さんが調理し終わったローストチキンを並べたのを確認して、次の説明に移る。
「すみません、レジいいですか?」
「はーい!」
と思ったが、お客さんが来てしまった。例え新人への説明中でも、レジにお客さんが来てしまったら対応するのは店員の義務だ。
接客を終え、今度こそ桜坂さんに次の説明をする。
「あとは時々ケーキやチキンを予約してる人が来るから、来たら渡してあげてね。ケーキはバックヤードで冷やしてあるから」
「わかりました。お金ってもう払ってあるんですか?」
「まだだからケーキはバーコードを読み取って、チキンはいつも通りに会計もお願い」
「おっけーです!」
元気な返事をくれた桜坂さんに一安心し、俺達は業務についた。
********
それからの数時間、いたって平和だった。
チキンが減っているのに気づくたび、俺か桜坂さんが補充を行うため品切れになることもなかったし、今日予約されていた分のケーキとチキンも売りつくした。後は今店内に残っているお客さんたちを捌き切れば一段落できるだろう。
だがそう思っていたのもつかの間。次の瞬間、桜坂さんが担当していたレジから怒声が飛んで来た。
「おい! いったいこのチキンをどうやって食えってんだ!」
俺がいる反対側のレジにもはっきりと聞こえるほどの声量で響く声。声の主は3、40代ほどの男だった。しかし、その迫力は以前来た初老男性の比ではなかった。時間も時間だから酒も入ってより興奮しているのだろう。
「す、すみ……ん……」
それに対して消え入りそうな声で謝罪する桜坂さん。
「客を舐めとんのか! おい!」
「……み……せん……」
怒鳴り続ける客に対して以前教えた謝罪連打で応戦する桜坂さん。だが今回のクレーマーは強烈で、一向にそれを意に返す様子はなかった。次第に桜坂さんの目に涙が浮かんでくるのが見える。
すぐにでも助けに向かいたいが、こっちはこっちでお客さんの接客中だ。まだ並んでいる人もいる。今向かうことは……。
……いや違うだろ、菊地政樹。俺はこの前、いったい何を思い出したんだ。自分から動かなきゃ“正義のヒーロー”にはなれないんじゃなかったのか。
「すみません、少々お待ちください!」
バーコードリーダーで商品を読み取っていた手を止め、お客さんに一言断ってから桜坂さんのレジへ駆け出す。
「桜坂さん、こっちのレジお願い!」
レジに到着すると同時に、彼女に俺が担当していた方のレジに向かうよう促す。一刻も早くこの客から遠ざけてあげたかった。
「すみません……ありがとうございます……」
涙をぬぐい、俺がいたレジへと向かう桜坂さん。それを確認し、俺は目の前の客と相対する。
「いかがなさいましたか。お客様」
「ローストチキンに持ち手がついてねぇんだよ! こんなのどうやって食えばいいんだって聞いてんだ!」
客が指し示したローストチキンの骨の部分には確かに持ち手がついていなかった。先ほど作ってくれた桜坂さんが付け忘れてしまったのだろう。
「申し訳ございません。すぐにお付けします」
「いや、だからどうやって食わせるつもりだったのかって聞いてんだよ!」
……これはかなり面倒くさいタイプのクレーマーだ。自分の言葉に沿う内容しか相手の発言を許してくれない。
「本来は持ち手を持って召し上がっていただく商品です。それがついていなかったのはこちらの不手際です。申し訳ございません」
「なら最初から付けとけよ! そんなこともできねぇのかここの店は!」
「申し訳ございません」
クレーマーに対しては何を言い返しても無駄なのでここは守りに徹する。いつもの謝罪連打戦法だ。
「いいか、俺は他の客のことを思って言ってんだぞ!」
「えぇ、おっしゃる通りです。申し訳ございません……」
時々いる『自分のことを正義だと思い込んでいる』クレーマータイプも兼ね備えていたか。このタイプは自分は正しいことをやっているのだという思い込みから更に増長しがちだ。これは長期戦になってしまいそうだった。
「なら…………うっ」
長引くことを覚悟したところで、突然クレーマーからの怒声が止んだ。
しかしそれは喜ばしい様子ではなかった。目の前でクレーマーの男性は心臓のあたりを抑えて苦しんでいる。
「大丈夫ですか!」
怒鳴り続けるあまりに血圧が上がり、何かの発作が起きたのかもしれない。クレーマーとはいえ人の命だ。その尋常ではない様子を見て、俺は救急車を呼ぶために慌ててスマートフォンを取り出した。
しかし、瞬く間に事態は一変した。
「うわああああああ!!!!」
男性が突然叫んだかと思うと、その全身を黒い靄のようなものが包み込んだ。
そして瞬く間にその靄が晴れ、そこに立っていたのは……
「は?」
その姿を見て、思わず声が漏れる。
靄が晴れるまでの一瞬のうちに、男性の身体は人の面影がない怪物の姿へ変貌を遂げてしまっていたのだ。
頭には3本の角、両手には巨大な鉤爪を生やし、体表は全身真っ黒で奇妙な文様が描かれている。身長は2m近くあり、その顔は悪魔のごとき恐ろしい形相だった。
「……っ! 店内の皆さん、早く逃げてください!」
目の前に広がる意味の分からない光景を見てあっけにとられていたが、すぐに我を取り戻す。本能的にこの怪物は危険だと直感し、店内に残っていたお客さんたちに店の外に出るよう促した。
「きゃあああああ!」
「逃げろおおおお!」
呆然としていた客達も俺の声を聞いて瞬く間に状況を把握したようで、我先にと自動ドアへと向かって駆け出した。こじ開けるように自動ドアを広げながら、みんな店外へと脱出していく。
しかし、その様子を見た怪物は逃げる客へ向かってその巨大な腕を振り上げた。
「やめろ!」
反射的に身体が動き、怪物の腕を抑え込む。何とか客へその腕を振り下ろさせることは阻止できたが、怪物の力は圧倒的だった。腕につかまっていた俺を軽々と吹き飛ばし、俺はおにぎりやお弁当が並ぶ棚へと叩きつけられる。
「がはっ」
背中から衝撃を受け、肺の空気が一気に吐き出される。失った酸素を取り戻そうと呼吸が乱れ、背中からはジンジンと痛みが伝わってくる。すぐには立ち上がれない。
店内にいた客は全員逃げ出したのだろう。怪物はまっすぐと店内の床に横たわる俺の方へと向かってきた。
やばい……殺される……。突如として目の前に迫った『死』を実感し、思考が乱れる。
立たないと。逃げないと。怖い。死にたくない。
「菊地先輩!」
そんな俺のぐちゃぐちゃになった思考をかき消すように、その声は店内に響いた。
直後、どこからともなく飛んで来た防犯用カラーボールが怪物に命中し、その身体の一部を赤く彩る。
「……!! 桜坂さん!」
その声の主をレジカウンターの中に発見し、思わずその名を呼ぶ。彼女、まだ逃げていなかったのか……!
「何してるの、早く逃げて!」
「ふ、不審者が出たらカラーボールを投げろって先輩に教えてもらったので……」
震える声で答える桜坂さん。その声からはひどく怯えた様子が聞いて取れ、その行動からは酷くテンパっている様子が見て取れた。防犯用カラーボールは犯人よりも逃走車に投げるべきものだし、そもそも全く逃げる様子のないこの怪物に当てる意味はないように見える。
……でも、桜坂さんのおかげで助かった。おかげで自分が何をすればいいのか思考がまとまったからだ。自分よりも焦っている人を見ると逆に落ち着くというのは本当だったらしい。
カラーボールを当てられ、怪物は振り返って桜坂さんの方へ歩み始める。彼女はそれを見ても一歩も動けない。完全に腰が抜けてしまっていた。
桜坂さんが稼いでくれた時間のおかげで回復した俺は立ち上がり、怪物に向かって駆け出した。そのまま後ろから怪物を羽交い絞めにして、桜坂さんに呼びかける。
「桜坂さんも早く逃げて! あと、できたら警察呼んでおいて!」
「わ、わかりました!」
俺の声を聞いて我を取り戻した桜坂さんは自動ドアを通り抜け、店外へと脱出する。これで店内にいる俺以外全員の避難が完了した。後は俺も逃げないと……。
背中から拘束してきた俺のことを、怪物はまたも軽々吹き飛ばした。が、今度はうまく受け身を取ることに成功してすぐに立ち上がる。そして幸いなことに、今回吹き飛ばされた方向はちょうど自動ドアの方だった。後はここから出れば俺も無事脱出である。
……しかし先ほどの『死』に直面した状況とは異なり、今は冷静な思考が巡った。ここで俺が逃げ出したとして、この怪物はどうなる。桜坂さんが呼んだであろう警察が到着するまで、ここでおとなしくしていてくれるだろうか。もし店の外に出て暴れだしたら……。
そんな思考を巡らせている最中、俺は背後の自動ドアから人の気配を察知した。客や桜坂さんはもう逃げ出したし、おそらくは店内から大量に人が出てくるのを見てやってきた野次馬だろう。俺は反射的に呼びかける。
「何見てるんだ! 早く逃げて!」
しかし自動ドア付近にいた人物はその言葉の意に反して、自動ドアの入店音と共に店内へと飛び込んできた。
そしてその人物は……先日来店した25歳とは思えない風貌のスーツ姿の女性だった。
「君、何をして……」
飛び込んできた彼女はそのまま俺の前に立って怪物と相対する。そして俺の呼びかけに答えることはなく、先日持っていたものと同じアタッシュケースの蓋を開けた。
――その中に入っていたのは書類でも、算数の友でもない。コンビニにある『レジカウンター』を模したような謎のおもちゃだった。
彼女は取り出したそれを腰にあてがう。するとレジカウンターの左右からベルトが伸び、彼女の腰におもちゃが装着された。……俺はこの光景に見覚えがある。小さいころからずっと見続けた『仮面ファイター』の中でヒーローが変身するときに行う動作だ。じゃあ、まさかこの女性は現実の世界に実在していた“正義のヒーロー”なのか……?
が、そんな期待は簡単に打ち砕かれる。装着されたレジカウンター(?)からエラー音が響くと、おもちゃは弾け飛ぶように彼女の腰から離れて宙を舞った。その反動で女性も吹き飛ばされて床へ叩きつけられる。
「きゃっ」
「あっ、大丈夫!?」
正直な所、彼女が店に飛び込んできてからの一連の流れを理解するのに頭が追い付いていないが、俺はまず床を転がる彼女に駆け寄ろうとした。
しかし、その歩みに怪物が立ち塞がる。まずはこいつをどうにかしないと……でもどうすれば……。何か解決策はないものかと店内を見回す。その時、妙案が思いついた。
「こっち来い、化け物!」
注意が俺に向いているのをいいことに、俺は怪物を自分の方へ誘導した。狙い通り、怪物はゆっくりとした足取りで俺の方へと接近する。怪物が近寄るのに合わせて俺も後ずさりし、少しずつ目的地へ近づいていく。
やがて俺はタイミングを見計らって走り出し怪物の脇をすり抜けて後ろへと回り込む。そのまま背中を突き飛ばして目的地である店内トイレの中へと怪物を押し込んだ。そのまま扉を閉めて怪物を中に閉じ込める。俺はこの時初めて火事場の馬鹿力が実在することを確信した。怪物を誘導した後に閉じ込められるかどうかは賭けだったが、火事場の馬鹿力のおかげで助かった。
トイレの中で怪物は激しく抵抗して脱出を試みている。外から俺が扉を抑えてはいるが、扉はミシミシと嫌な音を立てているし、あまり長時間持ちそうにはなかった。
そうこうしているうちに先ほどの女性が意識を取り戻したようで、おもちゃを片手に立ち上がっていた。
「やっぱり、私ではダメだったわね……」
そう呟く彼女の口ぶりは明らかに何かを知っているようだった。
「君、何か知ってるんだよね!」
「……? あなた、そんなところでなにしているの?」
トイレの前で扉を抑え込んでいる俺を見て、彼女は首を傾げている。確かに傍から見ればおかしな光景だろうが、今ここを動くことはできない。
「俺のことはいいから! 君が知っていることを全部話して!」
「?? ……ええ、分かったわ」
いきなりのことできょとんとしていたが、彼女は言われたとおりに知っている情報を語りだしてくれた。
「私は藤咲ルカ、25歳。生まれは静岡県浜松市で出生体重は……」
「いや、君の生い立ちに関する情報は今話さなくていいから! この状況に関することだけ話して!」
「わかったわ」
気を取り直して、彼女は語り始める。
「その怪物の名は『クライマー』よ」
「『クライマー』?『クレーマー』じゃなくって?」
「ええ。彼は『クライム細菌』によって身体が化け物へと変貌してしまったのよ」
『クライム細菌』。初めて聞く単語だった。自分は医学などには全く明るくないが、その分野では名の知れたものなのか……? でも人を怪物に変えてしまう細菌があるなら、もっと名が知れ渡っているはずじゃ……。
「クライム細菌はここ数年で発見され、極秘に研究が続けられていた新種の細菌よ。この細菌は人の“悪”の心に反応して増殖し、やがて宿主を飲み込んで怪物へと変貌させてしまうわ。そろそろ活動が活発化する時期だとは聞いていたけれど、まさか現実になってしまうなんて」
「“悪”に反応するって……ならなんでこんなコンビニのクレーマーなんかが……」
具体例は上げずとも、この世にはクレーマーよりも“悪”と呼ばれる者は無数に存在する。だというのに、なんでコンビニクレーマーとかいう極々小さな悪なんかに反応してるんだ……。
「それがこの細菌の厄介な点よ。この細菌は大きな悪よりも小さな悪を好むの。国を揺るがすような巨大な悪よりも、クレーマーやモンスターペアレントみたいな街に潜む小規模な悪をね」
「なんだそれ……意味わかんねぇ……モンスタークレーマーとかモンスターペアレントが本物のモンスターになっちゃうのかよ……」
「ええ、マジで意味が分からないわ。だからこそ、国もこの細菌の解明には積極的ではなかった。だってよくわからないし、割とどうでもいいもの。だから公には発表もしていない」
「それはそれでどうなんだ……」
いくら国を傾けるようなものではないからと言って、人を怪物に変える細菌は放っておいたらやばいだろ……。
「でも、この細菌の存在を知り、その解明にめちゃくちゃ躍起になった人達もいた。それが――コンビニ業界よ」
「は……? あー……」
一瞬なんでコンビニ業界が……と思ったが、先ほどまでの話と今の状況ですぐに理解してしまった。
「そうよ。コンビニ業界は自らの客層の悪さを自覚している。そしてそれはクライム細菌の大好きな“小規模な悪”よ。だからこそ、クライム細菌によって甚大な被害を受けると予測したの」
「客層が悪いって自覚してるの悲しすぎるでしょ……」
もちろんコンビニに来る客の大半は“いい人”もしくは“普通の人”だ。しかしコンビニの特性上、多種多様な人が大量にやってくるため、割合自体は少なくとも“悪い人”の総量は上がってしまう。ある意味では仕方のないことなのだ。
「被害を危惧したコンビニ業界は多額の投資を行って研究所と連携し、クライム細菌の研究を進めた。そして、クライム細菌自体を封じ込めることはもう不可能であることを知ったわ」
「え……じゃあ俺達コンビニ店員は一生お客さんが怪物になることに怯えながら働かないといけないの……?」
命の危機に直面しながらコンビニ店員するのはつらすぎる……そうなったら流石に辞めたい……。
「そう気を落とさないで。怪物になるのを防げないなら、怪物になってから防げばいい。それがコンビニ業界の出した結論。クライム細菌の増殖を感知し、その場に向かってクライマーを撃破する。それを可能にするのがこれ」
女性は手に持っていたレジカウンター風のおもちゃを掲げた。
「クライム細菌を“悪”ではなく“正義”に反応させ、装着者を正義のクライマーへと変貌させる。それがこの『光らない!でも鳴る!変身ベルト』よ」
「結局コンビニ店員は危険に晒されてるし、ベルトの呼び方はダサすぎるし……もうダメだろコンビニ業界……」
「あっ、この名前は私が面白いから呼んでるだけでちゃんとした名前が別にあるわ」
「ならそっちで呼んでよ……」
というか、今も俺が抑え込んでいるこの扉の向こうではクライマーとかいう怪物が外へ出ようと暴れており、割と危険な状況だ。だというのに、目の前のこの人は余りにも平然としていて調子が狂うし疲れてくる。あと見た目は完全に中学生なのに語り口調は大人だから余計変な気分になってくる。
「でもそのベルト、さっき使えなかったんじゃ……」
「……ええ。クライム細菌の特徴を反転させているこのベルトを使うには、“小さな悪”の反対、つまり“大きな正義”が必要。私はこんな体になるまでクライム細菌の被験者として様々な研究に協力してきたけど、変身するという最後の実験だけでは結果が残せなかった。まぁ、私は大義名分ではなくお金のために研究へ協力していたのだから仕方ないわね」
「…………」
突然自分のことを語られて頭が追い付かない部分もある。だが、何らかの副作用で身体が中学生になってしまうまで研究に尽力してきたのに、どんな理由であれ最後の最期で己の正義を否定された彼女のつらさは痛いほど伝わった。
……だが、どうやら彼女と長い間話すぎていたようだ。俺の背にある扉が立てていたミシミシという音が、もう限界が近いことを伝えていた。
とうとう俺は扉の壊れる衝撃音と共に吹き飛ばされてしまう。そしてクライマーは扉を完全に破壊するとトイレから店内の通路へと足を踏み出してしまった。
「クソっ、流石にもう逃げないと……そろそろ警察も来るだろうし」
「いいの? 警察も所詮はただの人間。この怪物を簡単に押さえつけられるとは思えないわ。それに押さえつけたとしても、変貌した人間は殺すしかないわ」
「殺……」
その言葉に思わずたじろぐ。いくらさっき会っただけの人とはいえ、いくらクレーマーとはいえ、人の死が直面していると知って身震いする。……けれど彼女の今の口ぶりは、逆説的にある事実を示していた。
「そのベルトを使えば……あの怪物を倒して、お客さんも助けられるのか……?」
「ええ、可能よ。これを使えば人間からクライム細菌を取り除いて破壊できる」
俺の予測は正しかった。もしこのベルトを使って俺が変身できれば、この場の問題を解決することができる。
「でも……」
彼女曰く、このベルトを使うためには“大きな正義”が必要らしい。だが、今まで研究に尽力してきた彼女に使えなかったものが俺に使えるわけない。俺はそう思い込んだ。
「あなた、ヒーローが好きなのね」
「え?」
突拍子もなく問いかけられて、何のことだと疑問を抱く。だが、彼女がその言葉を投げかけてきた理由はすぐに分かった。彼女の視線は俺のズボンのポケットからはみ出ていたキーホルダーに向けられていた。お姉さんから受け取った、『仮面ファイター』のキーホルダーだ。
「……ただ好きなだけじゃない。ずっと憧れてるんだ。“正義のヒーロー”になることに」
恥ずかしげもなく、思わず本心を吐露する。
……そうだ。俺のこの思いは、小さいころからずっと変わらない。お姉さんと会えなくなったあの日から15年間ずっと抱き続けてきた俺の“正義”。『人を助ける“正義のヒーロー”になる』。俺のこの思いはきっと……ちっぽけなものなんかじゃ決してない!
「なら、試してみる? “正義のヒーロー”になることを」
「……ああ! 藤咲さん、そのベルトを俺に貸してくれ」
俺は差し出されたベルトを強くつかみ、受け取る。
「『レジオンカウンター』。それがこのベルトの名前よ」
俺は受け取ったベルトをまじまじと見つめる。レジカウンターの形をした見れば見るほど妙ちくりんなベルトだが、今はそこに確かな熱を感じられた。俺の思いを形にしてくれる。そんな確信を持つことができる熱を。
……お姉さん、見ていてくれ。俺があの日なれなかった“正義のヒーロー”になるところを。俺の――『変身』を。
最後にちらりとキーホルダーに視線を落とした後、俺は覚悟を決めてベルトを腰へとあてがった。先ほど同様に帯が伸び、腰に固定される。そして……
『レジオンカウンター!』
藤咲さんが装着したときには流れなかった起動音声が店内に鳴り響いた。嫌になるほど聞いたレジの機械音声と同じ声だったが、今は聞きなれたその声のおかげで逆に安心できた。
それを聞いた藤咲さんは笑みを浮かべ、俺に新たなものを手渡す。これは……
「おにぎり?」
「の、形をしたデバイスよ。頭頂部のボタンを押して起動して」
言われた通り、おにぎり型デバイスの頭頂部についたボタンを押してみる。
『Rice Ball!』
先ほどと同じ機械音声さんがめっちゃ流暢にRiceBallを発音してくれた。
「あとはいつものとおりよ」
「いつもの通りって……これ初めて使うんだけど……」
「コンビニ店員のあなたならわかるでしょう?」
そう言われ、俺は手に持ったおにぎり型デバイスをよく見直す。よく見るとそのデバイスにはバーコードのようなものがついていた。それから腰に付けたレジカウンターを模したベルトを確認する。そして、彼女の言葉の意味を悟った。
「そういうことか……!」
すべてを理解した俺の声を聞き、藤咲さんは再び笑みを浮かべた。
俺はおにぎり型デバイスをレジオンカウンターのカウンター側にセットする。ガチャンという聞き心地の良い音が響き、それが正しい動作であることを確信した。
そのまま、今度はレジ側からレジ本体に比べてやたらと大きいバーコードリーダーを持ち上げ、デバイスのバーコードを読み取る。
『One Count!』
再び機械音声が鳴り響くと同時に、聞きなれた音楽もベルトから流れ始めた。これまた嫌になるほど聞いた店内BGMだ。正直これをいわゆる変身待機音にするのはやめてほしかったが……。
俺はバーコードリーダーをレジに戻す。そして最後は……そう、――客層ボタンだ。相対しているクライマーになってしまったおじさんの年齢を示すボタンを押し、俺は高らかに叫んだ。
「変身!」
そう叫んだ瞬間、俺の身体は白い靄に包まれる。
『CHANGE! FULL COMPLETE!』
機械音声と共にこれまでのバイト生活で聞いてきた、レジの様々な効果音が鳴り響く。そして……
『LEGION!!!』
靄が晴れると同時に、俺の身体は装甲を纏った戦士に変身した……らしかった。
「か、変わってるよな……」
自分の頬をぺたぺたと触ってみる。金属のような感触がしたし、多分うまく変身できていると思うのだが……。
「窓に自分の姿を映せばいいでしょう」
「あ、そっか」
藤咲さんに言われたとおり、俺は店内の窓ガラスの前に立ち、己の姿を確認する。
普段は争っている大手コンビニ各社が手を取り合って開発したことがうかがえる、それぞれのメインカラーをあしらった赤・緑・青の配色。そして頭と両肩に乗っかっているコンビニの目玉商品ともいうべきおにぎり。
目に悪いし絶望的にダサい姿だった……。
「あっ、来るわよ!」
あんまりにもあんまりな己の姿を見て絶望している俺に、気づけば真横にまで迫っていたクライマーが腕を振り下ろす。
「うおっ!」
慌てて両手を使い、振り下ろされた腕を受け止める。
「えっ……」
先ほどまではクライマーの圧倒的力になすすべのなかった俺だが、今は違った。クライマーの腕であっても易々と受け止められる。この身体ならこいつと戦える、そんな確信を俺は得た。ならまずは……。
俺はクライマーの身体を抱きかかえて持ち上げる。このままこいつと店内で戦闘を続けては、店への被害が心配だった。だからこそ、戦いの場を屋外へ移す。
「藤咲さん、自動ドア開けて!」
「わかったわ!」
藤咲さんが自動ドアのそばに立ち、その扉を開放する。
俺はその扉に向かって、先ほどのお返しとばかりにクライマーを投げ飛ばした。
「ナイスショット!」
クライマーはドアから外へと投げ出され、駐車場のアスファルトに叩きつけられる。
「すごい……俺、マジで変身したのか……」
変化した己の姿と力を見て、『変身した』という実感が次々と芽生えてくる。
「やったわね、レジオン。……というのもなんか味気ないわね。せっかくならあなたの好きな『仮面ファイター』をもじって何か名前を付けましょう」
「名前か……。うーん、仮面……仮面……」
何となく“仮面”の部分は外したくなかったがその先が思い浮かばない。
「あっ、あなたってバイトよね」
「えっ、ああうん。そうだけど……」
何か思いついた風の藤咲さんに嫌な予感がした。
「じゃあ『アルバイター』から取って、『仮面バイター』。あなたの名前は『仮面バイターレジオン』よ」
「えーー……」
「かっこいいわね。祝福してあげるわ。誕生おめでとう仮面バイターレジオン」
いや、かっこ悪い……でもまぁ……
「語感がいいからそれでいいか……」
他に思いつかなかったのでその名をしぶしぶ了承した。
「しゃあ!」
気合を入れなおして俺は駐車場へ駆け出す。
そしてもうすでに立ち上がっていたクライマーに渾身のパンチを炸裂させた。
「オラッ!」
クライマーは軽々吹き飛ばされ、アスファルトの上を数メートル転がった。すさまじいパンチ力だ。
だが、すぐに起き上がるとこちらに向けて両腕を向けてきた。
「なんだ……うわっ」
次の瞬間、両腕の鉤爪がこちらに向かって発射される。そんな技を隠し持っていたのか。
こちらに向かって突き進むそれはとても人間の瞬発力で避けきれるものではなかった。かわせない……そう思いつつも俺は必死に地面を蹴った。
すると、いともたやすく俺の身体は大地から離れてしまった。
「えっ」
気づくと俺は空中にいた。それも数十センチメートルの高さではない。数メートルだ。
わずかな滞空時間ののち、俺は地上へ着地する。あの高さから落ちれば無事ではないはずだが、俺の身体はびくともしなかった。もちろん鉤爪はとっくにかわせている。
「脚力も強化されてるのか……」
どうやらこのレジオンカウンター、想像以上の発明品らしい。
……と、危うく力に魅入られて本来の目的を見失うところだった。俺はあのクレーマーのおじさんを助けるために変身したのだ。
「藤咲さん、彼を助けるにはどうすれば……」
その問いかけに対し、藤咲さんは俺にあるものを投げ渡した。
「レジオン! これを使って!」
投げ渡されたそれはカードだった。
「使い方は知っているはずよ」
「……ああ!」
俺は手渡されたその電子マネーカード風デバイスを腰のレジオンカウンターにかざした。
『CHARGE……CHARGE……』
流れ続ける機械音声と共に右足へパワーが充填されているのを感じる。そして……
ピロンッ
聞きなれた決済音が響くと同時に俺はその脚力を生かして上空へ飛び上がる。
「いけ仮面バイターレジオン! ファイター……じゃなくてバイターキックよ!」
「うおおおおお! レジオンキーック!!」
そのまま俺は落下のエネルギーを利用し、藤咲さんの命名をガン無視したキックをクライマーに炸裂させる。
「ガ……ア……」
キックの直撃を受けたクライマーの身体を再び黒い靄がまとう。そして靄が晴れると、その姿は最初に見たクレーマーのおじさんに戻っていた。それを確認して安堵した俺は腰に巻いたベルトを外す。
『ご利用ありがとうございました~』
機械音声のそんな声が響き、俺の姿もいつもと同じしがない25歳フリーターの姿へと戻った。
「お疲れ様、仮面バイターレジオン」
変身を解いた俺に藤咲さんが労いの言葉をかける。
「その名前、長いしこの姿の時に呼ばれるとなんか恥ずかしいな。俺は菊地。菊地政樹だ」
「それもそうね。では改めてお疲れ様、菊地君。ちなみに私は藤咲ルカというわ」
「それはさっき聞いた」
「先輩! 大丈夫でしたか!?」
藤咲さんと話していると、避難して警察を呼んでくれていた桜坂さんが駐車場に戻ってきた。
「あっ、桜坂さん。こっちは大丈夫だから心配しないで」
「うぅ……よかったです……私、言われたとおりに逃げてきてしまったけど、もし先輩に何かあったらって思うと心配で心配で……」
桜坂さんの目は涙を浮かべているどころか、もうポロポロと大粒の涙がこぼれ始めていた。どうやら本気で心配してくれていたみたいだ。
「本当に大丈夫だから、そんなに泣かないで。そういえば警察は呼んでくれた?」
「は、はい。そろそろ来る頃だと思います。……ところで先輩、そちらの25歳女性の方は?」
桜坂さんは俺の傍らに立っていた藤咲さんに視線を向ける。彼女が見た目通りの年齢ではないと知っているのを暗に伝えるためか、『25歳女性』なんて言い方をしている。
「私? 私は……」
少し思案した後、藤咲さんは何かを思いついたようにニヤリと笑みを浮かべた。
そして、自分の腕を俺に腕の絡めながらこう言った。
「私は彼の『相棒』よ」
「あ?」
そう言い放った藤咲さんに対する、渾身の「あ?」は桜坂さんの口から発せられたとは思えないほど低く恐ろしい声だった。
********
『仮面バイターレジオン』への変身から数日が経った。
あの日は結局、あれから来た警察に対してどう説明すればいいか悩んでいた所に藤咲さんが「私に任せろ」と言って俺や桜坂さんを解放してくれた。ああ見えても大きな研究機関の人間だから、いろいろ顔が利くのかもしれない。
そしてその翌日、全国ニュースで『クライム細菌』のことが報道された。実例が出たために流石に国ももう隠しきれないと観念したのだろう。これで少しはクライム細菌への関心が増えて研究が良い方向に進んでくれればよいのだが……現在は様々な陰謀論が渦巻く混沌と化してしまった。
一方で一つの明確な対応策である『レジオンカウンター』については発表されなかった。これは解決策を提示しないことでクライム細菌に対する研究競争をより活発化させたい狙いか、それともモノがモノだけに新たな憶測を生まないようにするためか。そのあたりはよくわからない。
そして俺と桜坂さんはというと……
「お客さん、全然来ないですね~」
「そうだね~」
クライム細菌の影響で客足の少なくなった某コンビニエンスストアで相変わらず勤務していた。ちなみに3日ほど修繕のために休業していたが、修繕後は棚やトイレが前より綺麗になったと店長が喜んでいた。そのあとに減った客を見て絶望していたが。
「というか桜坂さんもタフだよね。あんな目にあってまだコンビニバイト続けてるの普通にすごいと思うよ。逆に前のバイト先はなんでやめちゃったの」
「え? あー、前のはなんか『楽しくないなー』と思ってやめたんですけど、ここのバイトはまぁつらい時もありますけど、その分良いこともありますので!」
「良いこと? コンビニバイトしててなんかいいことある? あっ、廃棄のおにぎりやお弁当を食べられることとか?」
「えへへ~、内緒です」
何が良くてバイトを続けているのか、桜坂さんはその理由を教えてくれそうになかった。
そんな会話を続けているとしばらくぶりに入店音が響いた。
「「いらっしゃいませー」」
桜坂さんと二人でお決まりの挨拶をする。
しかし入店してきた男性は店内を物色することなく、まっすぐにレジに立つ俺たちの下へとやってきた。
「あっ……」
その人物は、先日クライマーになってしまったクレーマーの男性だった。
「先日は大変ご迷惑をおかけしました……。クレームを入れて怒鳴り散らかしただけではなく、怪物になって店内まで破壊してしまうなんて。それに菊地さんには命を助けていただいたとお聞きしました」
「えっ、誰からですか?」
「私よ」
ひょっこりと、男性の陰から顔をのぞかせたのは藤咲さんだった。
「藤咲さん!」
「研究所で療養を受けていた彼に事の次第を話したら、謝罪とお礼をしに行きたいと言ってたから連れてきたのよ。私もちょうどあなたに用があったから」
「はい。藤咲さんにもあれから大変お世話になりました。それから桜坂さんも、申し訳ございませんでした」
「あっ……はい」
男性の余りの豹変ぶりにあっけにとられた様子の桜坂さんは気のない返事を返す。
「これ、皆さんにご迷惑をおかけしたお詫びと、助けていただいたお礼の品です。ぜひ召し上がってください」
そういうと男性は俺に紙袋を手渡した。ちらりと見えた包装によると、どうやらお菓子らしい。
「では、私はこれで失礼します」
「は、はい。ご丁寧にどうも……」
男性はそう告げると踵を返して去っていく。俺も桜坂さん同様、男性の変貌っぷりに驚いて若干引き気味の反応しかできなかった。酒が入っていないと元々こんな人なのか、それともクライム細菌が消えたことで何らかの影響が表れたのか。理由はわからないが、ひとまず彼を助けることができてよかったと思う。
「それで私の方の用だけれど……」
残された藤咲さんは持っていたアタッシュケースをレジカウンターの上に乗せた。ちなみに桜坂さんは俺の隣で藤咲さんを睨んでいた。いったい藤咲さんの何が桜坂さんをこうも警戒させてしまったのだろう。
「これは……?」
「あれから研究所に掛け合って、今日ようやく許諾が下りたわ。『レジオンカウンター』の正式な使用者はこれからあなたよ。菊地君」
アタッシュケースを開けると先日使用したレジオンカウンター一式が入っていた。
「というわけでこれからもよろしく頼むわね。『仮面バイターレジオン』」
「……はい!」
そう強く答えた次の瞬間、レジオンカウンターが激しく鳴った。レジが異常をきたした時と同じ音だ。
「どうやら次の『クライマー』が現れるようね。さ、行くわよ」
「うん! 任せろ!」
俺はレジオンカウンターの入ったアタッシュケースを片手に駆け出した。“正義のヒーロー”『仮面バイターレジオン』として。
「ちょっと先輩! バイト中にどこへ行こうって言うんですか!?」
~完~
書き終わってからファ〇マと〇ーソンのレジでは客層ボタンが廃止されているらしいことを知りました。