雑学百夜 牛の涙のその理由
紀元前2000年頃のエジプトでは乳牛から搾乳する際、母牛の前足に子牛を縛り付けていた。
こうすることで母牛の母性本能が刺激され乳が出やすくなると信じられていた。
冬の終わりを感じさせる寂しい風。
そんな風に吹かれるまま、とある日曜日、私は近所の美術館で企画されていた『エジプト壁画展』に立ち寄った。
なんでだっただろう?
何か理由があったわけじゃないし、エジプトの文化にだって特別興味がある訳じゃない。
だけど、まぁ、強いて言うならあの人が待つ病院に真っ直ぐ向かいたくなかった、ただそれだけだったのだろう。
だけど展示自体は元々大して期待していなかったこともあってか予想に反してどうして中々面白かった。
何メートルもの壁一面に描かれた戦争画、哀れな死者の魂を天秤に掛ける宗教画…何千年もの前の絵であるにも関わらず色彩は鮮やかでそれでいて力強いタッチで描かれており一作一作にある種の執念や怨念のようなものも感じた。
そんな数々の展示作品が並ぶなかいっとう私の目を惹く壁画があった。
大きな牛の前足に人間が子牛を縛り付けている。子牛は訳も分からず立ち尽くし、大きな牛は涙を探しながら子牛を見つめている。タイトルは『搾乳』。絵のすぐ下には解説文もあった。
————紀元前2000-1800年ごろの古代エジプトの搾乳風景が描かれています。子牛が母牛の前足に縛りつけられていますね。こうすることで母牛の母性本能が刺激され乳が出やすくなると古代エジプトでは信じられていました。母親の気持ちを利用したちょっとズルい搾乳方法。古代の人々はどうすれば上手に搾乳できるか、いろんな経験を知識や技術として蓄えていったのです。よくみると母牛の目に涙があふれています。ピラミッドの主の死を嘆いているのか、子牛の為の乳を横取りされたのが悲しいのか。母牛の涙の理由を知るのはこのレリーフを刻んだ古代エジプト人のみであり、今はもう知る由もありません————
最後の妙に突き放したような文体に少し笑って、そして独り悲しくなった。
涙の理由、私は分かるかも。なんとなく。
だけど、ね。
私は絵の中の牛に語りかける。
そんな顔しちゃダメだよ。
その子の前では頑張ろう? 涙だけは見せないように。
だって親なんだから。子供を不安にさせちゃダメだよ。
生意気かなぁ。分かるよ。分かるんだけどさ。
……どうしても泣きたい時は布団の中とかお風呂場とか一人になれる場所でこっそり泣くのがお勧めだよ。
絵の中の牛は何も言わず只々目に涙を溜めたままこちらを見てくる。
コロナ禍の折、ガラガラだった美術館の一角で私の溜息はやけに深く響いた。
「どこに行ってたん!? あなた母親の自覚あるん!?」
さっきの美術館と打って変わってナースコールや子供の泣き声が騒がしい小児病棟の中でお義母さんの怒鳴り声は一際大きく響いた。その声の大きさはというと隣の病室にいる泣き虫で有名なハルくんが思わず泣き止むほどだ。
女だてらに一世一代で会社を立ち上げ財を築いてきたことが自慢なだけあってお義母の一喝はどこぞの武闘家顔負けの迫力がある。
すごいなぁ。
怖いとか怒りより先にこんな情けない感情しか湧いてこない所もお義母さんは気に入らないんだろう。そのくらいのことは私にだって流石に分かる。
「……ごめんなさい」
俯き答えるもお義母さんの怒りは収まるどころか益々熱を帯びてきてしまった。
「謝って済むことじゃないの!! 親になるってことがどういうことなのかあなたはちっとも分かってないのよ!!」
お義母さんが一歩詰め寄ってきた。
病棟の廊下の端から何人かの看護師さんが心配そうにこちらを見てくる。
大丈夫、大丈夫ですから。
目と身振りでそっと応える。
「けんちゃんのミルクはもうあげといたから! おむつはちゃんと買ってきたの!?」
「はい、ここに……」
私が差し出したオムツを奪うと「はい、じゃあ、あとは私がやっとくからあなたはもう家に帰ってなさい」と義母は手をシッシと振り払う。
「あの……健樹は大丈夫ですか」
私の言葉に義母は露骨に眉をひそめた。
「私が見てあげてるんだから大丈夫に決まってるでしょ。なに? 私じゃ不足なの?」
「あっ、いえ、そういう訳では……ごめんなさい」
何度目かの私の「ごめんなさい」という言葉に義母は深く溜息を吐き言った。
「……はぁ、心配するくらいならそもそもあなたがケンちゃんをもっと丈夫に生んであげれば良かったのよ」
反射的に出かけた「ごめんなさい」をグッと飲み込み、私は唇を噛み締めた。
お義母さん越しに健樹の方に視線をやる。
そこにはベッドの上で小さな体を目いっぱいに伸ばす健樹が見えた。
「ダァダァ」とまるで目の前の騒ぎなんてどこ吹く風といった様子でただ無邪気に笑っている。
聞こえなかった? 良かった。
そんな風に思ってしまうことは親としてやっぱり失格なのかもしれないけど。
健樹は生まれつき耳が聞こえない。体も弱く、一歳の今に至るまで家にいるよりも病院で過ごす時間の方がよっぽど長い。
医者からは他にも何らかの障害が出てくる可能性が高いと言われていて未だ予断を許さない状況が続いている。
夫も私も勿論ショックを受けた。だがそれ以上にショックを受けていたのがお義母さんだった。
溺愛している息子の子ども、まして自身にとっての初孫ということもあって健樹に寄せていた期待はかなり大きかったらしい。だからこそお義母さんは人並み以上に落ち込み哀しんでいた。
だがやがて元々勝気な性格のお義母さんはその悲しみを怒りへ変え、そしてその矛先を私へ向けながら、少しづつ立ち直り始めた。
「あなたがもっと頑張ればよかった」
「子を産む母親としての覚悟が足りなかった」
「私だったら自分の命と引き換えにしてもお腹の中で子供を守り続けた」
喉の奥から私の胸にナイフを突きたてお義母さんは高らかに笑うようになった。夫はそれを見て「母さんもやっと立ち直ってくれたな」とこっそり私に耳打ちをしてきたことがあった。
「そんな……」
私が悲痛な声を挙げると、夫は「まぁ、おふくろも昔からあんな性格だしさ。適当に流しといてくれよ」と手を合わせながら苦笑いを浮かべるのみで、少し私が食い下がると「ごめん。もう明日も仕事が早いからさ」と私を振り払った後「なぁ、いちいち迷惑かけないでくれよ」と吐き捨てながらリビングを出て行った。
リビングに独り残された私はドアが閉まる音を聞きながら、私は全てを悟った。
私はもう我慢すればいいんだ。このまま、誰にも迷惑をかけないように。
一度そう思ってしまえば何だか気が楽になった。肩の荷がスッと降りた。その肩の荷が降ろしていいものだったのかどうかは分からないけど。
「ねぇ、このままでいいんですか?」
いつだったか、病棟の師長さんに呼び出され2人きりの面談室で言われたことがある。
「家庭の問題でもあるし、私たちが表立ってどうこう言える立場ではないのかもしれませんが……周りから見てるとやっぱり少し心配で」
強面で白衣を着ていないと女子プロレスラーと間違えてしまいそうな師長さんはそこまで言うと声を潜めさらに続けて言った。
「それにここだけの話、あのお婆ちゃんウチの院長と繋がってるみたいで…上からはあまり病院側がどうこう出しゃばらないように圧力を掛けられてるんです……」
「大丈夫。知ってます」
いつだったかお義母さんが家で電話しているのを聞いたことがある。
「あら〜先生。お久し振りです。あの節は大丈夫でしたか?? そうですか〜いえね、先生実は私の孫がそちらでお世話になってるんですけど、嫁が全然使えなくてね……」
そこから先は聞かなかった。どうせ何を言おうとしているのかは想像がつく。電話口の向こうで辟易とした顔を浮かべながら「分かった。分かった」と頷く院長の姿も。
自分のやり方や信念を露ほども疑わず否が応にも他人に押し付ける事が出来る人なのだ。
あの人は本当に強い。そして私は嫌になるほど弱い、弱い、弱い……
師長さんは私の顔色を伺いながら言った。
「情けないかもしれないけど、せめて、あなたからはっきりSOSがありさえすれば私たちも何とかやりようがあるかと思うんです」
「……そうでしょうか」
私の反応に師長さんは一瞬笑みを浮かべる。
「はい。私達も協力しますから」
優しく師長さんの言葉が響く。
だからこそ私の答えは決まっていた。
「……ううん。大丈夫ですよ」
迷惑をかけたくない。強がりでもなんでもなくこれが心の底からの本音だ。
「だけどお母さん……」
そう続きかけた師長さんの言葉を遮る。
「ずっと我慢します。私が悪いだけですから。大丈夫です。ご迷惑ばかり、本当にごめんなさい」
頭を下げながら謝り続けた。
師長さんはそんな私を暫く見つめた後、こうなる事を本当は最初から分かっていたみたいにマスクの下で小さなため息を吐いた。
お使いついでにお義母さんの罵詈雑言を浴びながら、私は病室の窓から差す木漏れ日に照らされた健樹の横顔に語りかける。
ねぇ、健樹。
あなたの瞳には今、世界はどんな風に映ってる?
耳の聞こえないあなたにとって目に見える全てが世界なんだもんね。
この世界には悲しいことなんて何一つないの。
だってほら、お母さん泣いてないでしょ?
ねぇ、だからあなたは笑ってて。私はそれだけで嬉しいし、もう、それだけでいいの。
翌週、さらにその翌週、義母から呼び出しがあった時は病院に行く前に美術館に寄るのが恒例となった。
デパートから病院に行く途中にあるというのが時間潰しにちょうど良かったし、何よりあの牛に会いたかった。
格好悪いけど、凄く気持ち悪いけど、あの牛に私は自分を重ねていた。
————泣いちゃダメだよ。
ねぇ、子供が見てるよ。頑張ろう?
ねぇ、お願い。頑張ってよ————
何度も何度も牛に言い聞かし、自分を騙し騙し、私はいつも何とか、辛うじて病院へ向かうのだ。
そんなある日、いつもの絵の前で不意に声を掛けられた。
「この絵がお好きですか?」
振り返るとそこには白髪でべっこう色の眼鏡を掛けたいかにもお爺さんというような男性が立っていた。
「えっ、あっ、あの、あなたは?」
「あぁ、いや、これは失礼」
お爺さんは笑いながらそう言った後、改まった口調で続けた。
「私は藤野と申しまして普段はしがない美術教師をしていまして、週末はここで監視兼解説のボランティアをしているんです。家に居ても女房には邪魔者扱いされるのでね」
そう言った後、お爺さん……藤野さんは笑いながら白髪頭を掻いた。頬がほんのり赤い。後半の一言はこの人なりのユーモアだったのかもしれない。もうちょっと気を遣って笑ってあげたらよかったって後から少し後悔した。だけどまぁあまり不自然に笑ったら笑ったでこの人はどの道照れそうな気もする。
「あっ、どうも……」
「いやいや。どうもすみません。いやなんだか奥さん、毎週いらっしゃってはこの絵をジッと見られてるので、お節介ながらつい気になりましてね」
藤野さんは白髪を掻きながら言う。
「あぁ、いや……ごめんなさい。お邪魔ですよね」
私が頭を下げると藤野さんは大げさなくらい顔と手を横に振って「なにをなにを! 好きなだけ見ていってください。それこそが美術館の醍醐味ですから」とまた笑いかけてくれた。
「ふふっ、ありがとうございます」
私もそんな藤野さんの表情にようやく素直に笑みを返すことができた。
「突然びっくりしましたよね。たはは、どうにも絵の事となると見境なく話しかけてしまうのが私の悪い癖です」
藤野さんは白髪を掻きながら笑った。その後、眼鏡を掛けなおしながら改めて聞いてきた。
「良い絵ですよね。この絵がお好きですか?」
私は困ったように笑いながら答えた。
「……そうですね、好き? なのでしょうか? 何故か見に来ちゃうんです」
「うんうん。良いですね。そのお年でそういう絵と出会えたのは本当に幸せですよ」
「あぁ~うーん……幸せ……ですかね?」
困り笑いが苦笑いに移り変わる。
そんな私を見て藤野さんはふと首を傾げた。
あぁ、しまった。危ない。
私は慌てて口をつぐむ。
誰かに助けを求めてしまうところだった。
また誰かに迷惑をかけてしまうところだった。
————何してるの? あなたも独りでずっと我慢して。いい加減に諦めてよ。
ねぇ。私達、約束したよね?————
涙交じりに目の前の牛が睨みつけてくる。
最近、こんなことが増えた。ふとした瞬間に幻聴が頭の中に響くのだ。本当にあるのかどうかもわからない尖った視線が全身を貫いていく。
胸の拍動が加速して、息が苦しくなってくる。
もしこれ以上、藤野さんが「何かありましたか?」とか私のことを気にかけるような言葉を言ってきたら、私はきっとその場で倒れてしまっていたかもしれない。
だけど藤野さんはそんな私を見た後、軽く眼鏡を掛け直したのみでそれ以上は何も聞いてこなかった。
暫く二人の間に沈黙が続いた後、不意に藤野さんはたんぽぽの綿毛を吹くような軽い口調で「この絵って結構人気なんですよ」と教えてくれた。
「……そうなんですか?」
「えぇ、小学生とかお父さんとかは奥の戦争の絵巻の展示に夢中なんですけど、お母さん世代の方は結構熱心にこの絵を見ていかれます。まぁその奥様方も数分後には奥の宝飾品展示コーナーに首ったけですけどね」
悪戯っぽく藤野さんは笑う。
「私もこの絵は大好きです。だけどねぇ……」
そう言うと藤野先生は一つ息を吸った後、眼鏡の奥の目を尖らせながら続けて言った。
「一つだけ言わせてもらうならこの解説文はナンセンスだと思いませんか?」
そう言って藤野さんは解説文の一部を指差す。
————ピラミッドの主の死を嘆いているのか、子牛の為の乳を横取りされたのが悲しいのか。母牛の涙の理由を知るのはこのレリーフを刻んだ古代エジプト人のみであり、今はもう知る由もありません————
「知る由もありません、なんてどの口が言ってるんでしょう?」
少し早口で藤野さんは言葉を続ける。
「何のために作者がこの絵を遺したと思ってるんでしょうか? 涙の理由は間違いなくこの絵に描かれているのです。幾千年もの時を越えて、私達に伝えたいことをこんなにも深く、深く刻んでくれているのに」
藤野さんの口調は何だかさっきと打って変わって少し怒っているように響く。
「あなたはどう思いますか? いつもこの絵を見ているあなたには伝わっているんじゃありませんか?」
眼鏡を掛け直した後、藤野さん、いや、藤野先生は真っ直ぐ私の目を見ながら聞いてきた。
眼鏡の奥から鋭く光る視線。
その時、藤野先生の背中に黒板が見えた。指先にはチョークだって覗いてる。そんな気がする。窓辺から指す柔らかな陽光。グラウンドから聞こえる男子の掛け声。聴こえる、感じる、そんな気がする。
この人は本当に教師なんだ。そんなことをふと思うと同時に私の背筋は自然と伸びていた。
「私ですか? ……確かにこの絵は凄く好きです。その『知る由もありません』って部分に引っ掛かったこともあります……だけど私芸術とか本当に全然分からなくて……」
何とか言葉をひねり出す私に、先生は顔の前でひらひらと両手を振り笑顔を浮かべる。
「いやいや、そんな芸術だなんてかしこまらないで。正解も不正解も無くて、ただあなたの思った通りのこと、それが全てです」
そこまで言い一呼吸置いた後、先生は絵の方を向きながらゆっくりと教えてくれた。
「ただ、一つお節介を言うのであれば『想像』してください。そうすればきっと絵のほうからあなたに語り掛けてくれますよ」
「想像ですか?」
「えぇ。想像してみてください。この絵が描かれた背景を。古代エジプトではピラミッドの建造に大勢の奴隷が駆り出されたのかもしれません。もっとも最近の研究ではお祝い事として市民も参加していたのではないかって説だったり、二日酔いで仕事をさぼっていた奴隷もいたりしたなんて説もあるみたいですがね」
藤野先生は小首を傾げ笑った後、続けて言った。
「まぁ、それで想像、想像ですよ? 古代エジプトに特別、絵の才能がある奴隷がいたとしましょうよ。その奴隷は建造に従事しながらも絵の腕を買われレリーフを彫るように命令されたとしましょう。ちなみにですよ、私はこの奴隷を女性だと勝手に考えてます。理由はこの絵のタッチに何とも言えぬ柔らかさがあるからです。この牛の輪郭線たるや……まぁまぁそれは置いといて……」
藤野先生は額に少し汗をかきながら楽しそうに話し続ける。
「主の偉大さを示すような絵を描くように言われたのかもしれません。神の強大な力の前でまるで無力な人間を描くように言われたのかもしれません。ですがそれでもこの奴隷は一番最初に農耕における何でもないような日常のワンシーンを描いた。そのことで監視人からは叱られたかもしれません。こんな地味な絵を描くな、なんてね。結局、直ぐに主を讃える絵を描かされたかもしれません。でもどんな派手な絵を描かされようと、奴隷の作者が一番描きたかったのはこの絵だったんじゃないかと思うんです」
「どうしてですか?」
私の質問に藤野先生ははにかみながら少し嬉しそうに答える。
「当時の奴隷にどれほどの自由があったのでしょうか? 今となっては考えられませんが人の命が家畜のように扱われていた時代は確かにあるのです。生まれたばかりの我が子を『商品』として取り上げられた奴隷もいたかもしれません。このレリーフの作者もそうだったのかもしれません。母牛にかつての自分を重ねたのかもしれません……」
少しの静寂の後、先生はゆっくりと口を開いた。
「そこまで想像して初めて私達はこの母親の涙の理由を知るのです」
藤野先生はそこまで言って、眼鏡の奥から試すように私を見てきた。
「さぁ、あなたは何故だと思いますか?」
先生は私の全てを知っているのかもしれない。それこそ得意の想像力で。溜息にひた隠してきた私の全てを————
この牛の涙の理由……それは私がこの絵を好きになった理由でもある。
「…………きっと自分の不甲斐なさに泣いているんだと思います」
迷い、惑いながら出した答えを藤野先生は頷き優しく受け止めてくれた。
「母親なのに。強い人の前で何も出来ない自分が情けなくて、母親失格の自分が心底嫌いで泣いているんだと思います。ねぇ、先生。違いますか?」
最後は縋るような声になってしまった。
————だって、そうじゃないと私は本当にひとりになってしまう。
せめて、せめて、この絵だけは私の味方であって欲しい。
ねぇ、先生。否定しないで下さい。お願い。間違ってるなんて言わないで下さい。
もう、これ以上……許して。お願い……先生……じゃないと私……私————
そんな私の胸の内を知ってか知らずか先生は何度も頷きながらこう言った。
「なるほど、確かにそうなのかもしれませんね。そう言えばこの牛も随分と寂しそうな顔をしていますもんね」
先生は顎に手をやりながらそう言った後、ゆっくり一言を付け加えた。
「間違いなんかありません。本当の理由はきっとその牛があなたにだけこっそりと教えてくれますよ。出会ってくれたあなたにだけ、いつか、きっとね」
そこまで言った後、藤野先生はふと我に返ったように「あぁ、いやぁ、あはっ。ごめんなさい。つい熱くなってしまいました。いやぁ年甲斐もなく恥ずかしい。どうも昔から絵のこととなるとこんな調子で」と照れ笑いを浮かべた。
『いつか、きっと』
先生の言葉が頭の中には何度も響いた。
————すっかり冷めたお風呂の浴槽の中でブクブクと沈ませた「いつか、きっと」、隣でいびきをかいている夫の隣で枕に染み込ませた「いつか、きっと」————
だけど先生の「いつか、きっと」は今までのどの『いつか、きっと』より優しく私の背中を撫でてくれる。
「先生……」
きっと私は「本当ですか?」って聞こうとしたんだと思う。
だけどそんな私の言葉を遮るように遠くから高い声が聞こえてきた。
「あっ! 藤野せんせーいみーっけ!!」
振り向くと丸い眼鏡を掛けニコニコと笑いながらこちらに駆け寄る女の子と、その女の子の後を面倒くさそうに歩きながらついていく色白な女の子がいた。
眼鏡の子は私に気付くと「こんにちはー」と愛想よく挨拶をし、色白な女の子はペコっと小さく頭を下げてくれた。
「高見さん、白石さん、こんな所で何してるんです? もう直ぐ期末テストですよ?」
藤野先生の言葉に「そっちこそ何してんの?」と白石さんと呼ばれた色白の女の子が返すと、高見さんと呼ばれた丸眼鏡の子も「瞳ちゃんと美術部が休みの間、藤野先生がどこでサボってるか当てあいっこしてたの!」と笑った。
「いや、別にサボりというかただの休日ですからね」「暇なら美術室開けといてよ。仕上げたいのがあるんだけど」「私も瞳ちゃんの絵描いてるとこみたーい」「いや、何のためのテスト期間なんですか……」
先生は2人に詰め寄られながら、困ったように笑っていた。
そんな光景を一歩離れたところで見ながら私はふと思った。
学生時代こんな先生に出会いたかった。そうすれば私の人生はもっと違ったものになっていたかもしれない。
あぁ、もう遅いだろうか。それとも、まだ、いつか、きっと……?
ぼんやりと立ち尽くす私に藤野先生は「学校の教え子達なんですが全く言うことを聞いてくれなくて」と苦笑いを浮かべた。
「そんなものですよ」と私も笑顔を返そうとした時、携帯に一本の着信が入った。
通知画面に表示されていたのはお義母さんの名前だった。
「何やってるの!! 満足にお使いもできないわけ!!」
お義母さんの声が相も変わらず病棟中に響く。処置室で注射の処置中だった若い医者はビクッと肩を震わせた後「あ」と呟いていた。
「信じられない!! 私が母親だったころは子供が熱を出した時は三日三晩だって私は泊まり込んだのに……」
お義母さんはそう言うと健樹を検温していた新人の看護師さんに向けて「本当、最近の母親はねぇ?」とわざとらしい溜息を吐く。
若い看護師さんは困ったように笑みを返す。
そんないつもの光景に、私は病院に、そして現実に、戻ってきたんだと実感が湧いた。
さっきまでの美術館での出来事がまるで嘘だったんじゃないか。そんな風に思えてしまうほど心が芯から冷めていくのを感じた。
いつものようにお義母さんは怒鳴り、叫び、その度私は「はい」「はい」「私が悪かったです」と小気味よく情けない声を響かせ頭を下げる。
「本当にわかってるの!?」
悲しみが頭の先からつま先まで満ちていく。頭を下げる度、涙が零れないように気を付ける。大丈夫。私は出来る。今まで何度だって繰り返してきたんだから。
「……はい」
言われるがまま頭を下げる私にお義母さんは小さく溜息を吐いた後、続けて言った。
「……まぁ、いいわ。ちょっと健樹を見ときなさい」
「えっ?」
思わず顔を上げる。お義母さんの方から私に健樹を任せるなんてこれまで一度だってなかったのに。
「なに? 文句あるの?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
目を伏せる私にお義母さんはパチパチと算盤を弾くようなリズムで言った。
「あのね、先生が健樹について大事な話があるみたいなの。これからのことにも関わるみたいだし私がちょっと話を聞いてきてあげる」
「えっ、それなら私も……」
弱弱しい声色が気に障ったのだろう。お義母さんは怒鳴り叫んだ。
「あんたが聞いたってどうにもならないでしょ!!」
続けてそのままお義母さんはさらに怒鳴る。
「元気に生むことも出来なかったあなたが母親面しないで!」
その言葉を聞いた瞬間、目の前の景色が薄っぺらになるのを感じ、足元がふらついた。
騒ぎを聞きつけて、たまらずナースステーションから師長さんと何人かの看護師さんが病室にやってきた。
「ちょっと! 流石にひどすぎます!」
だがそんな師長さん達の言葉にもお義母さんはまるでひるむ様子を見せない。
「うるさいわね。あなたたち、他人の家族に口出す権利あるわけ?」
お義母さんは毅然と言い放つ。そんなお義母さんの態度に看護師さん達は二の矢を言い淀んでいた。
慣れている。人を押さえつけることに。
自分以外の誰かがお義母さんの標的になっているところを見ながら、ふと思う。
こんな強い人を相手にしてたんだから、こんな私でも仕方ないよね。
力なく私は笑った。
そんな何も言ってこない私を見て、お義母さんは見限るように鼻を鳴らし、看護師さん達は完全に黙ってしまった。
病室を包む沈黙の空気の中に私はいくつもの「ごめんなさい」という言葉を溶かす。
ごめんなさい。弱くて弱くてごめんなさい。
涙だけは見せませんから、どうか、どうか許してください。
この世界に涙なんてないから、悲しいことなんて何一つ無いからって信じさせてあげること。
それだけが私が健樹にしてあげられる只、唯一の母親らしいことなんです。
黙ったままの私にもはや一瞥も送ることなく、お義母さんはベッドの中で不思議そうにこちらを見ている健樹を抱き上げながら言った。
「こんな情けない嫁じゃなくて、これからは私が健樹の母親になってあげる。さぁ、健樹。強く産んでもらえなかった分、これからは私が強く育ててあげるからね」
その言葉を聞いた瞬間、私は今までにない程死にたくなって、情けなくなって、そのまま、ずっとずっと堪えていたものが堰を切って溢れ出した。
健樹の目の前なのに。ずっとずっと我慢してきたのに。
ごめんね。ごめんね。弱いお母さんで本当にごめんね。
まるであの絵の母牛みたいに、私は大粒の涙を零しながら何度も何度も呟いた。
「ダァー!! ギャー!!」
その時突然、雷が落ちたかのようにお義母さんの腕の中で健樹が泣き始めた。
その声を聞いてお義母さんは勿論、看護師さんもそして私さえも驚いた。
何故なら健樹は聴覚障害の関係もあり本当に滅多に泣かない子なのだ。
自身の泣き声も知らないそんな健樹が今、大声で泣き叫んでいる。
「おぉ~どうしたの?? ケンちゃん、よしよし。ねぇ、どうしたの?」
お義母さんがいくらあやしても健樹の泣き声は収まるどころかどんどん大きくなっていった。
「ねぇ、どうしたの? おしめはさっき交換したし、ミルクだってあげたのに……」
泣き止まない健樹にお義母さんはただ困惑していた。
私とおそろいの大粒の涙を零しながら泣き叫ぶ健樹。私は思わず反射的に手を伸ばしていた。
「……健樹」
ごく自然とお義母さんから健樹を取り返し、私は自身の腕で包むように抱きしめた。
久し振りに感じた温もり。腕の中で互いに一雫ずつの愛しさを染み込ませ合う。
健樹は少しずつ落ち着きを取り戻しながらもその小さな手で私の体を二度とだって離さないようにきつく抱き着いてきた。
そうだ。そうだよね……。
その瞬間、理屈じゃない、心で分かった。
私と健樹とそして、あの牛の涙の理由を。
「ねぇ、お義母さん」
気付けば言葉がこぼれ出ていた。
「なっ、なによ。馴れ馴れしい」
「お義母さん、あなたみたいに強い人には涙を流す本当の理由なんか分からないですよね」
さっきのお義母さんのように私は静かに、そして毅然と続けた。
「私だってずっと知りませんでした。涙って弱い自分を嫌いになるために流すものだとずっとずっと思ってました」
一つだけ息を吸う。
「だけど、私今ようやく分かりました」
聞こえていないはずなのに私を掴む健樹の力がちょっと強くなったように感じた。
「涙を流すことであなたと同じ気持ちなんだよって寄り添うことが出来るんです。いつも一緒だからねって伝えたくて零れる涙だってあるんです」
目の前の健樹を、そして数千年の時を越え、泣きながら母牛のレリーフを刻んだ数千年前の貴方を思い私は涙を流す。
————私達はずっと一緒だからね。
溢れた涙が腕の中の健樹の額に一滴だけ零れた。
肌を伝う感触がくすぐったかったのだろうか。いつの間にか泣き止んでいた健樹はケラケラと笑ってくれていた。
「すっかり暖かくなったんだよ」
聞こえるはずないのについつい話しかけてしまう。
健樹は「うー」「だー」と声を上げながら私の腕の中で何度も身をよじりながら辺りを物珍し気に見回していた。
————あの病室での騒ぎの後、何か言い返そうと一歩詰め寄ってきたお義母さんから守ってくれたのは師長さんだった。
「さぁ、じゃあそろそろ先生のICを聞きに行きますか?」
と言い私とお義母さんの間に割り込んでくると「ちょっと、先生の話を聞きに行くのは私よ!」と怒るお義母さんに「もちろんですよ。先生はお婆ちゃんも一緒にどうぞって言ってましたから」と言いながら私を連れ立って先生の待つ面談室まで案内してくれた。
今にも怒鳴り声を上げそうなお義母さんの隣で聞いた先生からの話は決して良いものではなかった。心肺機能が落ちてきており、今回は何とか安定したが今後の状況次第では家でも鼻からチューブで酸素を吸入しながら生活しないといけなかったり、最悪の場合人工呼吸器が接続になる可能性もあるとの事だった。
「外出にも多少制限が掛かります。その前に少しでも色々親子で思い出を作ってあげて下さい」
そんな先生からの言葉を受けて私は健樹との外出許可を貰った。
「あまり遠くはダメですよ?」と釘を刺されたが心配しなくても行きたかった場所はすぐそこ。
私が健樹を連れてきた場所は美術館だった。
どうしても一緒にあの牛の絵が見たかったのだ。
今すぐは分からなくても、いつかあの絵の意味が分かるそんな年齢まで元気に生きて欲しい、そんな願いを込めながら向かった。
桜並木の向こうにある美術館の入り口には、ちょうどおあつらえ向きにベンチに座りながら未だ楽しそうに話す藤野先生たちがいた。
良かった。私にとって初めての健樹に会わせたい人たちだ。
最初に気付いたのは眼鏡の子だった。私に気付くと藤野先生の服を引っ張って私の事を伝えてくれた。
「おぉ! これはこれは。お戻りでしたか。実はさっきまでこの子達にもあの牛の話をしていたんですよ」
「赤ちゃん、可愛ーい! なんて名前なんですか??」
先生と眼鏡の子が迎えてくれる中、色白な女の子は私の遥か後ろを見ながら「あの人、知り合い?」と聞いてきた。
振り返ると、そのはるか後ろの桜の木の下にお義母さんがいた。
お義母さんは私と目が合うと気まずそうに目を逸らした。
「ずっと、あなたのこと見てるよ」
そんな色白な女の子の言葉に「私じゃなくてこの子だと思うけどね」と私は笑い返した後、健樹を抱えたままゆっくりお義母さんの方へ歩み寄っていった。
悪気があってやってるわけじゃない。いつか夫に言われた言葉を思い出す。
確かにそうだった。この人は愛し方が不器用なだけ。
ICの時、お義母さんは細かいところまで先生に質問してくれた。私では気づきもしなかった視点で質問したうえで、その答えを私にも聞かせることで間接的に私にアドバイスをくれているようなそんな気がするほどだった。
「健樹にはお母さんが二人いるんだよ」
そう健樹に話しかけたあと「ちょっと性格はきついけど」とこっそり言い加えた。
一歩一歩と近寄っていく。
お義母さんはそんな私に少し戸惑い、迷った末にプイっとそっぽを向いてしまった。
そんな簡単に全ては上手くなんていかない。
だけど、大丈夫。
いつかきっとまで、あと一歩。
小さく風が吹いた。葉擦れの音が私達を包む。
運ばれてきた春の兆しに鼻先をくすぐられたのだろう。健樹はクシャミを一つだけ響かせた。
吸い込まれそうな青い空に高く、遠く。どこまでも、いつまでも。