誰が何と言おうと、私はフィーネ
二年になった。
無事に成績トップを維持したまま、私は一学年上がったわけだけど……そのことに関して、そこまで感慨はなかった。
私の頭の中は、ずっと別のことで占められているからだ。
引き出しの中にある封筒を一度確認すると、私は昨日と同じように再び本棚を漁る。
次に読む本を見繕いながら、私は当時のことを思い出していた。
今でも、あの時のことは鮮明に思い出せる——。
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『 なま え わすれ た だろ 』
その問いに、私の思考は一瞬止まった。
紙の中にある僅かな文字。その意味を理解すると同時に、様々な感情が去来してきた。
『私は死んだらしい』
自分が転生した直後に真っ先に思ったこと。
それは、自分が死後転生したということだった。
そして私は、目の前にあった鏡を見て、自分がフィーネに転生したということに思考の全てが持って行かれた。
物語の中の登場人物。悪役令嬢。
そりゃあ、驚くだろう。
そのことを考えるのは当然だろう。
だけど、私の異世界転生において一番重要だった部分を、私は全く意識できていなかった。
——そもそも、私はどうやって死んだ?
自分が死んだと真っ先に思った理由は何なのか。
異世界転生したから死んだ、では因果関係が逆だ。
今の今まで、どうしてそんな当たり前のことを気にしなかったのか。
……私は、再び紙の中の文字に目を向ける。
名前。
私の名前は、フィーネ。ティルフィーネ・トラヴァーズ。
この環境になってから一年以上も経過すると、当たり前のようにそのことを受け入れてしまっている。
今の今まで気付かなかったのだ。
気付かなかったことに、気付かなかった。
鏡の前に立つ。
白いショートヘアの、可愛らしい少女。
その女の子が、無表情でこちらを見ている。
鏡の女の子を指差す。
すると、鏡の中の女の子も私を指差した。
「あなたは、フィーネ」
鏡の中の少女が、口を動かす。
知っている。
日本という国で開発された、乙女ゲームを買って遊んだ。
鏡の中の少女とは違う、黒い髪と黒い瞳の人種が溢れる国。
その日本には、四十七の都道府県があった。
私も、そのどこかに住む、黒髪の一人だった。
そのはず、だ。
何故、今までこのことを意識しなかったのだろう。
はっきりと、国の名前は思い出せるのに。
「私は、誰?」
自分の名前が思い出せないなんて。
肉体に、魂が宿る。
しかし記憶は、脳に宿るのだ。
私はフィーネの身体の中にいながら、フィーネの記憶を思い出すような異世界転生イベントをやっていない。
にもかかわらず、0歳ではなく9歳の段階で、記憶を失った状態で転生してきた。
しかし言語や知識の記憶はある。ならば、転生前の記憶があるはずなのに。
「私は、誰?」
鏡の中の少女に問う。
急に不安になってくる。
自分が、自分でなくなるような……。
「あなたは、だれ?」
鏡の中の、少女が問う。
日本人の私ではない、少女が問う。
ああ。
これは、まずい。
いけないと、わかっていても。
「あなたは、だれ?」
問わずにはいられない。
私は……私は誰だ?
『名前、忘れただろ?』
忘れている。
私は……私は、本当に日本人?
日本から転生してきた?
私はこのゲームを、ちゃんと遊んだうちの一人?
一体『何』が転生してきた?
これ以上は、本当に、危険だ。
この先に、自我が保てる自信がない。
「あなたは……」
「——フィーネが雪姫ごっこやってる!」
「ああっ、気付いちゃいましたよティナ姉様!?」
突然、横から元気のいい声が飛び込んできて、一気に頭が覚醒した。
続いて聞こえてきた妹の声に、私は振り返る。
「……ユキヒメ?」
呆然としていた私は、言われたことをまず復唱した。
私の呟きにティナ姉は、首を傾げながら「違うの?」と呟く。
「だってさっき、鏡に向かって喋りかけていたじゃない。あれって『世界一美人なのはだあれ?』ってやつだよね」
それはユキヒメじゃなくて白雪姫……って、童話の中の世界での童話だから、全然違う作品名なんだ。
私が鏡に向かって喋っていたから、ずっとその一人遊びをしていたと思っていたんだね。
「そして最後に、『なにーっ、一番カワイイのはレヴァンティナですってーっ!?』って叫んで、鏡を拳でぶっ壊すまでが雪姫ごっこのワンセット」
「何その物騒な遊び!? アンヌお母様に怒られるよ!? っていうか別にユキヒメごっこやってたわけじゃないからね!?」
むしろそこで、堂々と一番可愛い女の子をシンディでなく自分に設定できるティナ姉の自信に驚くしかないよ!
本当になんていうか、いろいろ堂々としていますねこの姉は!
と、そこまでいろいろ考えて……私がさっきまで囚われていた、あの自分の立ち位置が分からなくなってしまうかのような異様な感覚がなくなっていることに気がついた。
私は、助かったのだ。
「——って、大丈夫ですかフィー姉様!?」
ティナ姉と一緒に私を見ていたシンディが、力が抜けて座り込んでしまった私のもとへと駆け寄る。
「うん……大丈夫。心配かけてしまってごめんね」
私は、不安そうな表情で近くに来たシンディへと笑いかける。
「ティナ姉もありがと」
「……? 何が?」
事情が分からず首を傾げるティナ姉。そしてシンディと目を合わせて……二人で首を傾げた。
そりゃそーだよね、何がありがとうなのかまったくわからないだろうし。
本当に今のは危なかった。
そういえば鏡に向かって自分が何者か問いかけるのはあまりよくないと聞いていた。
でも、あの時はそうするのが自然に思えてしまっていた。
私は、二人を見る。
「ちょっとしばらく、調べ物とかしたいんだけど……協力してくれる?」
「いいけど、あんまり力にはなれないかもしれないわよ?」
「大丈夫。シンディは?」
「もちろん、フィー姉様の力になれることなら何でも協力します」
二人の顔を見て、私は自分の足でしっかりと立ち上がった。
うん、大丈夫。自分はしっかりとここにいる。
あんな手紙が何だ。
自分の過去が分からないことが何だというのだ。
今の私の周りには、今の私を見てくれる人達がいる。
誰が相手だったとしても、今の自分の場所を守ってみせる。
それが、フィーネに転生して、フィーネとして関わってきた私の責任でもあるのだ。
向こうがその気なら、相手になってやろうじゃない!
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あの日のことを思い出しながら、メモ帳を開く。
『名前:保留』
今は、このことを気にする段階ではない。
それよりも重要なのは、この名前に関することだ。
いろいろ考えていることはあるが、まずは真っ先に思ったことは一つ。
——この手紙を送りつけてきた相手は、私が転生者であることを、知っている。