【最終列車が出る前に】 空 - wings
著者:N高等学校『文芸とライトノベル作家の会』所属 空 - wings
「……部長。ホントに行くんですか?」
「転勤は会社人の務めだからね」
時計の針は十七時。温かい春の時節からは程遠く、駅のホームに吹きつける風は肌を凍らせるように冷たい。桜咲く麗らかな春と言えど、突如として訪れた季節外れの寒気は、瞬く間に首都・東京を冬へと舞い戻らせた。長い冬ごもりからようやく解き放たれたはずの花や虫たちも、この翻りにはたいそう驚いたことだろう。
夜中とは言え、まだ十七時。街はこれから一層の眩さを増して、盛り場はより一層の騒がしさを纏う。されど駅のホーム——「東京発・青森行き」下りの新幹線を待つこのホームは、少し違う。帰省ラッシュや行楽シーズンであれば、そこら中に大小様々な人と荷物とが目まぐるしく往来するのだろうが、単なる平日のホームにその光景は見当たらない。都会の喧騒は薄いで、まるで世間とは別の次元に佇んでいるかのような。人の少なさも手伝って、何とも奇妙で騒がしい。
人が少ないとは言え、全くの無人というわけではない。出発を待つ新幹線の車内を覗いてみれば、大きなキャリーケースといくつかの荷物を手に持つ歳若い女性、書類に目を通しながら神経質そうに貧乏ゆすりをしているスーツ姿の中年男性、移ろわない車窓の景色に視線を傾けている着物姿の老年の女性など。人の数こそ少ないが、確かにいる。彼らの行く先はどこなのか、目的は何なのか……誰一人としてわからない。一つの白い運命に重なり合った彼らが、一体何の故に重なり合ったのかを、彼らは、私は、知らない。
私と部長は、そんなホームに立っている。
乾いた空気を伝って、私の声が響く。部長は私を見ずに、ただ新幹線の白い外装をぼんやりと眺めている。悔しさの滲み出た私の言葉を他所に、あくまで先輩は事も無げな様子を見せつける。
「でも私は知ってます! 本当は部長じゃなくてあのバカ息子の責任なのに」
「まあ、会社としてはこんな五十路手前のバツイチのおじさんよりも将来性がある会社の御曹司を守りたいんだろう」
彼はそう言って笑う。正確には「嘲笑う」だろうか。諦めと皮肉が入り混じるその表情には、しかし不思議なことに、ある種さっぱりとした感が見える。私はそんな横顔を苦々しく見つめる。
「仕方ないことだよ」
独り言つ部長の横に、私は立っている。背の低い私は、見上げるようにして彼を見つめている。私が彼と初めて会った十年前に比べて、彼の頭には白髪が増えた気がした。五十路の男であればしかたないのだろう。かく言う私は、特にこの十年で変わったところなどなく、あいも変わらずちんまりとした体躯。小さい体と幼い見た目のせいか、彼は私のことを子供扱いしてからかうことが多かった。棚の高い位置にあるものを取ろうと四苦八苦していれば「お子様だなぁ」と先に取って渡してきたり、たまに昼食を一緒にすればお子様ランチを注文しようとしてくる(嫌いではないし、むしろ好きだったりするが)。そのほかにも色々ないたずらやからかいに会い、その度に怒る私を見て、彼は面白そうに笑うのだ。自分のコンプレックスをいじられるのはあまり好きではないのだが、彼からされたいたずらに、心の底から嫌悪を感じたことは不思議となかった。
会社に入りたてだった頃、周りが自分の抱えている仕事で精一杯な中、新入社員の私の面倒を率先して見てくれたのが、部長だった。彼にも彼の仕事があったはずなのに、彼は私に色々なことを教えてくれた。コピー機の使い方や、電話の応対、取引先との角の立たない接し方など……。彼はお世辞にもかっこいいわけではなく、無精髭を生やし、頭脳優秀だとかスポーツ万能というわけでもない、たいした取り柄もないような、ただの中年男だが、彼は、職場の暗い雰囲気を吹き飛ばそうと必要以上に明るく振舞ったり、部下が失敗を起こせばすぐさまフォローして事態を収め、上からの無茶振りや言い掛かりにも何とか対応して周りの負担をなるべく減らそうとしたり、とにかく自分よりも周囲を優先する人だ。何か見返りを求めるわけでもない。この男は、ただひたすらにお人好しなのだ。
だからこそ、そんな彼が時たま見せる整然とした眼差しや、落ち込んだ私を励まそうとふざけていたずらを仕掛けてくるような彼に、私は尊敬や信頼とはまた違った、ある感情を抱くようになった。
恋。
小学校、中学校、高校と来て、恋愛なんてものにまったく縁のなかった私は、最初、この感情の正体に戸惑った。初めて抱いた感情に、どう接すればよいのかわからかったからだ。恋をするにしたって、初恋の相手が二回りも歳上で、しかもバツイチで、頼りにはなるがどこか抜けているような、そんな相手であれば、誰だって思考が停止する。
昔から「年の差恋愛」なんてものは、芸能人のニュースやドラマ、小説の中でしか見たことのない代物だったし、よりにもよって自分の上司——社内恋愛である。
属性過多。
収束不可。
何度も「勘違い」を疑った。困った時に助けてくれたからといって、何も自分だけに与えられた優しさではないわけで、彼の世話焼きは同期・部下、男女問わず、平等に振り分けられたものなのだと、きっと思い過ごしなのだと、そう結論づけた。結論づけようとした。
しかし、そう考えるようになるに連れて、私の心は妙な独占欲を感じるようになっていった。なぜ自分以外の女性に優しくするのだろう。なぜほかの人にもその笑顔を向けるのだろう。私だけに向けてほしい、私だけを見てほしい、と。私の初恋をあっさりと奪っていった彼は、私の心など露知らず、その不器用な優しさを分け隔てなく、誰にでも惜しまなか
った。
誰だって一抹の優しさは持ち合わせている。しかし有限であるそれは、余りに与え過ぎれば自分の身を滅ぼし、余りに求め過ぎると醜く肥え太る。彼の優しさにも、当たり前だが限度というものがある。渇きに喘ぐ誰かに水を分け与えれば与えるほど、彼自身の飲み水は少なくなっていく。
人は無限に優しくなどなれない。
私は知っている。彼が自らの優しさに溺れ疲れていることを。
私は知っている。深夜、誰もいない会社の非常階段で一人泣いていた彼の姿を。
故に私は、彼の傍に立ちたいと、彼の役に立ちたいと、そう願った。この感情が私の勘違いから生まれたものであろうとかまわない。仮に本当の恋愛であっても、決して咲くことのない徒花であろうと、それでいい。
それなのに。
「でも、だからといって青森は遠すぎます! 明らかに左遷じゃないですか!」
彼の異動が決定したのは、そう心に決めて間もなくのこと。私以外にも、彼にお世話になった社員の多くがこの人事に反対したが、既に決定してしまった辞令を覆すことなどできるはずがなく、何より、部長自身が異を唱えることもなく、逆に私たちを宥め賺すという有様だった。私たちは憮然として彼に抗議したが、それでも彼は「自分の仕事に専念しなさい」と言うだけだった。
「いいんだよ。それに実は僕は林檎が大好物でね。それに、今の時代は新幹線で一本だろ?」
「まあ、そうですが……」
安心させるよう、彼はやっと、私の顔を見てにこやかに笑いかけてくれた。苦い顔をしていた私の頭を彼は撫でながら、大丈夫、大丈夫だから、と、まるで不安そうにしている子供をあやすかのように言う。私は彼の腕を振り払って、子供扱いはやめてください、と少し怒った顔をして睨む。彼は笑った。
誰もが納得していなかった。何人かが社長に直談判しようと言い出すも、それはすなわち会社に楯突くということ。それほどまでの痛手を負いたくはないと、結局その話もうやむやになってしまった。いくら恩や感謝を感じているとはえ、自分の立場まで危うくなるのは避けたいと思うのは至極当然だ。だからと言って、見送りの場に私以外の誰も来ないというのは、いささか納得できない部分ではあるのだが。
「お、雪だ」
気がつけば、白い粒がちらほらと舞い始めていた。気温は更に冷え込んで、吐く息は白く濁り、季節外れの寒さを印象づける。ホームに立つ駅員も、寒さを紛らわそうと腕をさすっている。新幹線の窓は車内と車外の気温差で結露し、外から車内を覗くことは難しくなった。大荷物の女性も、サラリーマン風の中年男性も、着物姿の老女も、皆うっすらと白く染まった車窓の内側へと隠れてしまっている。
「まさに『なごり雪』だね。まあ、汽車じゃなくて新幹線だけどさ」
降る雪を見上げながら、先輩が聞き慣れない言葉を私に伝える。二人とも厚手のコートを着ているおかげで凍え死ぬまではいかないものの、それでも寒い。私は鼻の先がひりひりと赤く染まる感覚を覚えた。彼は荷物を地面に置いて、両手をコートのポケットに入れている。私も彼にならってポケットに手を突っ込もうとしたが、少しはしたないかなと思い、すぐにやめた。
私はふと考えて、やっぱりわからないから彼の顔を見る。
「なんですか、それ」
「イルカの歌だよ。『汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる〜♪』ってやつ。今の若い子には難しかったかな」
説明されてもわからない。雪? イルカ? イルカって寒いところにいたっけ。
寒さのせいで頭が動かないのだと結論づけて、私は考えるのをやめた。
「知らないです」
「すごく流行ったんだ。まあ、時代かな」
彼は苦笑い。
「それより君はいいの? 僕みたいなおじさんといたら嫌な思いしない?」
「そんなことありませんよ。それより、今の子が何を歌うか知ってますか?」
「いや、しらないなあ」
「こういうシチュだと、『初めての恋が終わる時』ですね。あ~りがっと、さ~よ~な~ら~ってやつです」
「そうなのか。知らなかった」
私が一節歌ってみても、彼はピンときていない様子だ。
なるほど。これがジェネレーションギャップというやつなのか、と私は一人腑に落ちる。
「初めての恋ですよ、恋」
「バツイチのおじさんにそんなこと言うもんじゃないよ」
他愛ない会話。
他愛ない時間。
一分でもいい、一秒でもいいから、この時間が長く続いてほしい。
私はコートの右ポケットから一通の封筒を取り出し、彼に見つからないよう後ろ手に隠す。何の装飾もない、真っ白な封筒。その中に書かれているのは、これまでの感謝の気持ちや、新しい土地でも頑張ってくださいといった励ましの言葉でもない。
告白。
吐露。
あるいは、自白。
今まで彼に対して感じていた気持ち、隠し通そうとしていた情炎、溢れんばかりの心恋の数々をしたためた、俗に言う「ラヴレター」。もうすぐ三十の扉を開くという女がラヴレターなんて、と自分でも思う。それでも書いてしまったのは、口に出せない想いを、口に出しても受け取ってもらえないであろう想いを、「文字」という形に乗せて伝えれば、あるいは——と、どこかで期待していた自分がいたからだろう。
何度も書き直した。何度も書くのを止めようとした。それでも何とか書き結び、封をして、ようやく完成したそれを、だがしかし、渡しあぐねている。
後ろ手に隠し持つ一通の手紙を、私は強く握りしめる。
ラヴレターです、なんて言う必要はない。押しつけるように彼の手に握らせればいい。あるいは、感謝の手紙です、とか言って、何かほかの理由で包んでしまえば、彼は疑いもせずに受け取ってくれるだろう。
それが、できない。
私は、できない。
これまでにも、彼に想いを伝える機会はいくつもあったはずだ。その度に二の足を踏んで、最後の足掻きとばかりに用意した手紙さえ、私は渡せないでいる。
たった一つの言葉なのに。
たった一つの動作なのに。
彼に嫌われたくないという気持ちが、今の関係性を壊したくないという恐れが、鎖のように巻きついて離れない。
私は、後ろ手に隠し持つ一通の手紙を、行き場のない気持ちを込めて、強く、強く、握りしめる。手紙はささやかな悲鳴をあげながら、ただの紙くずへと変わっていった。
「あ、もう新幹線が出るみたいだ」
「ええ~、そんな~」
私はやるせなさを振り払って、あくまで明るい言葉を返す。澱のように濁りきったこの気持ちを、彼に気取られないために。
「名残惜しいけどここまでだよ。それに、二度と会えなくなるとも限らないんだからさ」
まもなくの発車を告げるアナウンスがホームを駆け巡り、彼は置いていた荷物を手に、乗車口へ。私は手に持っていた紙くずをポケットへ押し込んだ。
——二度と会えなくなるとも限らない。
それはつまり、あなたに会うためには何か理由がなければならなくなるということ。
今までのような上司と部下の関係性は失われ、「かつての部下」「かつての上司」という、名ばかりで実質の伴わない空虚な関係へと、新幹線が発つであろう数分後には、瞬く間に変換されてしまう。
私という存在が、彼の記憶の中で薄らいでしまう。
嫌だ。
それだけは嫌だった。
彼への辞令が下された時、私が真っ先に恐れたのは、いの一番に怒りを覚えたのは、彼が無能な人間を庇って辺境の地へ遷されるという事実ではなく、理不尽な謂れを背負わされたというのに、ただの一言も声を荒げたり、感情的になることなく、事務的かつ他人事のように私たち部下をあしらったことに対してでもない。
彼の傍にいることが許されなくなってしまったことに、私は悲観したのだ。
叶わない恋とわかっていても、それならば彼の傍にだけはいたかった。愛を露わにするわけではない。愛を返してもらうわけでもない。不器用な彼の、ほんの些細な手伝いができれば、少しでも支えになることができれば、私は満たされるのだと、ようやく決心がついたというのに。
あなたは私を愛してはくれない。私がどれほどあなたを愛していようと、優しいあなたは、優し過ぎるあなたは、私を愛さない。
初めて、私はあなたを恨んだ。
誰にでも優しいあなたは、優しさを他人に強請るような人間ではないけれど、あなたのそれは、人に善意を押しつけて、ただ自己満足に浸っているだけに等しい。そんなあこぎな人間ではないとわかっていても、そう感じてしまうほどには、私の心に余裕などなかった。
ギヴ・アンド・テイクなんて言葉、あなたは知らないのでしょう?
あなたがもし二面性のある男で、私が偶然にもそんなあなたの本性を見つけてしまったならば、私はここまで苦しまずに済んだだろうか。
「まあ、そうですけど。わかりました。また会えるように願掛けします」
なんとか返事を返そうとしても、どういうわけだか、うまく言葉を返せない。
声が揺れる。
さっきまではあんなにも余裕があったのに。熱に浮かされたかのように、私の視界はぼんやりと霞みだす。
この寒さのせいだろうか。
この雪のせいだろうか。
多分、違う。
「そうか。それじゃあ、またな。東京で元気にやれよ」
彼の言葉は、凍えるような寒さの中を貫いて、私の耳へと伝う。
私は何とか彼の姿を見届けようと顔を上げる。彼は乗車口から私に微笑みかける。
「はい」
何とか絞り出した一声は、意外にもか弱くて、果たして彼に届いたのかは定かでない。
列車に近づかないよう、声を張り上げる駅員。
まもなく、扉は閉ざされる。
私の恋も閉ざされる。
ふと気がつくと、彼は心配そうな声音で私の名前を呼んでいる。何事かと我に返ってみれば——私の頬には一筋の雫。
「……それと、部長」
汽笛の音が空を裂く。
私は彼の顔を見つめ、にっこりと笑う。
「私」
一筋の軌跡は、やがて首まで到達する。
涙はとまらない
泣き笑う私。
驚いた様子の 彼 。
扉が閉まる。
「好きでした」
一つの白い運命は首都・東京を抜け出して、様々な運命の行き先へと走りゆく。真白な雪は深々と降り続き、時針と分針が頂点を指し示してもなお降り続け、未明にはようやく降り止むだろう。
降り積もった雪の上には、一人の女のなき骸が。
降り積もった雪の下には、一人の女の悲しみが。
季節外れの寒気はようやく首都・東京を離れ、いずこへと消え去る。
さりとて、麗らかな春の息吹が再び戸を啓くのは、これよりまだ先の話である。
原文はシリーズ説明の部分に記載しています。