Blend ‐ブレンド‐ or granulated sugar
大男は、ガトー・ベェクと言った。現皇帝ヒガシ・ベェクの嫡男である。つい最近父から、帝位をどうするか話し合いをしたばかりである。
父の専属はミスペル・ビスキュイと言うが、これがまあ大変腕の立つ男で、長年父の相棒を務めてきた。年に二、三度は反逆者が現れるのだが、城の厨房でそれを迎え撃つ。そして必ずそれらを打ち倒し、強固な守りを築いているのだ。
腕の善いパティシエを従えていることは、善い皇帝の証拠である。自身に嘘を吐かず、信頼を勝ち得ているのだ。民のため様々な政策を組み立て、造り上げていた。
それを、自分が継ぐときが来たのだ。いつになく真剣な面持ちで、自分の専属になってくれるパティシエを探すべく森に足を踏み入れる。森での歩行は慣れていないため、貴族はほとんど馬を使って移動していた。幼いころから十分に体を鍛えさせてもらっているので過度かもしれないが、不慣れな土地で足を傷付けてしまっては、本末転倒と言うものだろう。
道に迷ったところを森で出会った少女に教えてもらい、やっとのところでパティシエが棲まう村へと辿り着いたのであった。
「突然押しかけて申し訳ないが、朕はガトー・ベェクと申す。すまぬが、この村一番腕のいいパティシエはおらぬじゃろうか?」
ガトーは馬から降り、最も近くで作業をしていた少年に声を掛けた。年の頃は十より少し上、半ばくらいだろうか。まるでプルーンそのものと言わんばかりの、艶のある同色の髪と瞳をしている。まだ教育機関に通うような歳ではないのか、親の手伝いをしていた。
「ご貴族様ですか!? でしたら自分はいかがです?」
「其方はまだ星を有してはおらんじゃろう? 残念じゃが、もう少し成長してから自分に見合った者を探すのじゃな」
円い瞳を輝かせて猛アピールを食らったが、ガトーはこれを軽くあしらった。星の有無くらいは文化の違う貴族でも分かっている。そもそも星で表す制度はこちらが取り決めたのだ。知らぬ方が可笑しかった。
「そんなぁ……。ですが自慢のプルーンマフィンでも貰っていってください!」
少年は肩を落とすが、めげずに自分の菓子を差し出してきた。その精神が良い方に転ぶことを願って、ガトーは焼き菓子を受け取る。
「ありがたくいただくとしよう。それで、其方の存じている中で一番腕の立つ職人は誰かいるじゃろうか?」
「そうですね。この村一番なら……、ハニー・キャンディさんでしょうか。自分ももうすぐ通う予定ですが、いまは新しくできた製菓学校にいると思いますよ」
「ふむ、そうじゃったか。……はて? 本日は休校では……?」
ガトーはマフィンと引き換えに、満足の笑みを見せる少年から良い情報を貰った。しかし森で出会った少女は、本日は休みと申していたはずだが……。よもや……、
「妖精ではあるまいな……?」
「え、何です?」
「いや、何でもない。学校は夕刻までじゃろうか? また道に迷っては酷なため、ここで待たせてほしいのじゃが……。村の長はいるかな?」
耳聡く独り言を聞かれてしまったようで、少年に疑念を抱かせてしまった。自分も良い歳をして何を考えているのかと、多少恥ずかしくなる。ふと思っただけのことではあるが、慌てて取り繕い、話を変えた。
「長さまなら、あの母屋におります。どうぞごゆるりと」
示された指の先には、古い小屋が建っていた。長だと言うのにみすぼらしい建物だと不思議に思うが、ガトーは指された場所を信じるしかない。
「そうじゃったか……。世話になった、失礼する」
「はい! 是非うちのマフィンもよろしくお願いします!」
少年に念を押され、黒馬を引きながらその場を去る。一口齧ってみたが、まだまだ発展途上な味がした。もう少し相手を思いやれれば、成功するやもしれん。
やがて入口に着いたので、馬を柱に繋がせてもらって中に入った。木の皮でできた簾のようなものを掻い潜り、鎮座する男性に話しかける。
白髪交じりであったが、元はカカオに似た色であっただろう。
「長殿でいらっしゃいましょうか? 朕の名はガトー・ベェクと申しまする。専属パティシエを探しに此方までやって参りました」
「うむ……。確かに僕は森の長である。ベェクか……、懐かしき名だ。ヒガシ・ベェク殿のご子息と言ったところかな?」
でっぷりとした老爺は、先代の皇帝に就いていた専属パティシエだった。二十三年前に父が皇帝の座に代わり、失脚させられたのだ。しかし敵意は向けられておらず、静かにただ座っていた。
「左様でございます。父の名はヒガシ・ベェク。父がご無礼を」
先程の少年はここに気付けなかった。自分の名もまだまだであることを自覚する。
「何、気にしてはないよ。クラム・ショコラとして生まれたが、僕はその驕りが命取りだった。完全に力不足だ」
職人は人のせいにはしない。環境のせいにも、道具のせいにもせず、ただ己の腕を信じ技術を高める生き物であった。高貴な誇りを持ち、自分にも真摯に向き合ってくれる。
「……長殿、朕はもうすぐ、帝位を継ぐ予定です。それに伴い、長殿の村のパティシエと契約を結びたく思っております」
この場に置いて、前置きは無用だ。互いに分かってここへ来ている。堅苦しい挨拶に、頭を悩ます必要はない。
「そうですな……。ご子息様も、もうそのような歳になりましたか……」
ご子息と言われ、間違ってはいないのだが少し心臓が痛む。やはり自分はヒガシの息子としか見られていなのだろうか。恐らくはただの敬称として使われているだけだと知っているが、それでも不安は隠せなかった。ガトーは眼を伏せ、続きを語る。
「……はい。それで、先程村の方に伺ったのですが、村一番のパティシエは“ハニー・キャンディ”と言う方でしょうか?」
「ハニーか……」
それでも落ち込んではいられないので、今し方得た情報を長老に問うた。何やら神妙な顔をして唸っている。
「違いましたか?」
「いや、そうではない。確かにキャンディ家の子女は天才だ。だが、いまは学業に励んでいるのでな。誰の専属にもなれませぬ」
「そうでありましょう。して、いつ卒業なされますでしょうか?」
ガトーも、少年と母屋の間を歩きながら、ふと思っていた。
「ご存知でしたか。その子はいま第一期生で入学してましてな、卒業は……はていつになるか……。親を呼びましょう」
「お手数おかけいたします」
子のことに関しては親が一番情報を持っている。第七十一代クラム・ショコラは見た目通り重い腰を上げ、外へ向かった。
しばらくして、二人の男女を連れて戻ってくる。どちらも卵の髪色をして、ふんわりとした印象だった。
「突然お呼び立てして申し訳ありませぬ。朕はガトー・ベェクと申しまする」
パティシエ夫妻に敬意を表し、恭しく礼をする。夫妻は驚いたような表情をして、慌ててお辞儀を返した。
「いえ、こちらもみすぼらしい恰好で申し訳ございません。我が娘ハニーについてでしょうか?」
「左様じゃ。ハニー・キャンディとやら、パティシエの腕は村一と聞いた。是非ともお嬢さんを朕の専属パティシエールにと思い尋ねたところじゃ。現在は学業に励んでいるようじゃが、修業はいつになりましょう?」
「やはり、いつかは専属のお声が掛かると思っておりましたが……。あの子は、親の私が言うのも何ですが、天才です。学校に掛け合って、修業課程が取れるように手配いたします」
「何じゃと? それは可能なのか?」
「できるだけのことはいたします。まずは本人に話してみます故、しばしお待ちいただければ幸いです」
すぐの修業が可能と言うことは、一つ星となり専属の契約が結べると言うことだ。そうなればガトーも晴れて皇帝となり、願ったり叶ったりである。厳正な学び舎がそれを許してくれるかは不明だが、ここは喉から手が出るほど欲しかった。父の名を勝手に出せばあるいは、とは思ったが、それがバレればますます自分の立場が弱くなるため迂闊なことはできなかった。
自分はただ待つことしかできず、本人との交渉に向けて策を練るばかりだった。
「ハナノギ! こっちよ!」
「ち、ちょっと待ってくれ……! ッハ、そんなに早く、走れない!」
ハニーは明志を連れて、どんどん森を進んでいく。しかしハニーの手が置かれているのが手ではなく袖というところが、何とも可愛らしいと言うものだ。しかし明志にとっては、そのようなことはどうでも良かった。元気な少女に主導権を握られては、堪ったものじゃない。
明志は都会生まれで、森などほとんど立ち入ったことはない。森住まいのハニーに比べると息が上がって、足がもつれそうだった。
「もう少しだから!」
「ハァ……! 別に俺は……、気にしない、のに……っ!」
「あたしが気にするの! そんな臭いでお菓子を作られたら、絶対不味いもの!」
先程は美味しいと言ってくれた気がするのだが、変なところに気が付くと思い込みが激しいのが女と言うものだ。逆を言えば、臭いが取れればもっと旨い菓子を作れると言うことだろうか。
途方もない考えに気を取られる隙もなく、拓けた土地に出た。そこは、幾つもの木と葉でできた民家が立ち並ぶ。テレビで観た時代劇のような、世界の部族を訪問する番組のような集落であった。
「隠れてて! 様子見てくるから」
ハニーは珍しく声を落とし、明志に森の端で待っているよう命ずる。年頃の女の子がこんなおっさんをプライベートスペースに招き入れるのは、やはり問題があるのだろう。明志の学校は寮もあり親と共に暮らしていない生徒も多いが、この環境から見て恐らく家族がいるのだ。親に見つかったら何を言われるかを想像するだけで、おぞましかった。
やはり巻き込まれる前に姿を隠すのが得策だろうか。しかし久しぶりに出会った人の温もりに、この場を去るのを尻込みさせている。だがよそ者の自分が溶け込める自信もなく、ただ静かに、木の裏に身を隠すだけであった。背中を流したら、少女から情報でも得てまたどこかへ旅立とう。
「ハナノギ! 良いわよ、ちょうど誰もいないみたい。温泉に案内するわ」
「……いや、人前で裸になるのはちょっと――」
言うが早いか、ハニーはまた明志の袖を引っ張って無理やり同行させる。抗議するのも無駄なので、それに従うしかなかった。
木々の密集する場所から抜けたので、まだ足取りは軽い。早足で移動する中、明志は巨木の横を通り過ぎる。その隣には他の家よりいささかみすぼらしい小屋が建っていた。黒い馬が繋がれているため誰か住んでいるのだろう。この土地にも馬がいることに、少し安堵する。
とは言え生で見るのは初めてなため、あまり実感はなかったことは内緒である。
ふわりと湯の匂いがして、明志は思っていたより浮き上がる。日本人は風呂好きと断言されているが、確かにそうである。迷い込むまでは何の気なしに毎日浴びていた湯であるが、やはりないと困るものだ。それを思い出させてくれたことだけに関しては、ハニーに感謝した。
「なかなかな温泉だな」
湯はたっぷりのミルクを垂らしたように乳白色で、滾々と湧いている。いわゆる天然温泉で、誰の管理もなく揺蕩っていた。
「夜にあたしも入るんだから、汚さないでよね?」
すでに汚れた体に何を言う。どうやらここは、村人が勝手に出入りする公衆風呂らしかった。ハニーは風呂へは向かわず、近くの小屋へ入っていく。
「取りあえず石鹸とタオルがあればいいかしら? 誰のか分からないけど、これ借りちゃおっと」
「……いいのか、そんなことして?」
日本でやったら犯罪だ。いや、どこでもそうなのかもしれないが。
「いいのよ! どうせ後で誰のか分かるし、そのとき返せばいいわ! はい、これ!」
ハニーは勝手に持ち出した桶入りのお風呂セットを明志に持たせる。誰のか分からないものを使用するのに明志は気が引けたが、ハニーの言葉を信じありがたく使うことにした。みたところ小さい村だし、村人同士での噂は早く広まったりするのだろう。
押し付けたハニーはと言うと、再び小屋の中に引っ込んでしまう。そして明志に向かって、中から大声で叫んだ。
「男のお風呂なんて覗かないから、早いとこ入っちゃって!! 綺麗にして出てきてほしいけど、長湯なんかしないでよね!?」
自分がけだものだったら、どうする気なのだろう。森ばかりのところに棲んでいるせいか、そう言ったことには疎い感じはしていたが。しかしハニーは明志の趣味ではなかったので、そのような心配はいらなかった。
そしてハニーは聞いてもいないことを続ける。
「ここは昔温泉まんじゅうを作っていたのだけど、いまは空き家なの! 皆、荷物置き場として使ってるわ! この時間なら誰も来ないから!」
「そうか、ありがたくいただくよ」
ネクタイを緩め、プチプチとボタンを外す。それにしてもまあ、良く汚れたものだ。学校に帰る前に、新しいものを用意しなければならない。湯船に足を突っ込むと、細かい泡がまとわりついた。ミルク色だと思っていたそれば、炭酸泉らしい。炭酸泉で作った温泉まんじゅうは日本にもある。パティシエの性か、ここで食べれないのがいささか悔しかった。
しかしここはいったいどこなんだ? ベェク帝国、とハニーは言っていたが。地図にも乗らない小国か。しかし公用語は日本語だ。そう結論付けるのは問題があると思うが、そう仮定するしかない。
どこぞの都道府県の観光地、と理解すれば合点が行くような気がしたが、それにしては規模が大きかった。それにハニーがスタッフだとしても、演技をしているようには見えない。
だが、しかし……。明志は森に迷い込んだ経緯を思い出す。湯に浸かって余裕が出たのか、やっと思いを巡らすことができた。
「花ノ木先生! 早く捕まえてください!」
女子生徒の声がする。あれは誰だったか。
「どっかやって! キッチンでネズミなんて見たくない!!」
そうだ、ネズミ……。オーブンを開けたらネズミが紛れ込んでいたらしい。自分はその瞬間を見ていないのだが、ちょうど近くを通りかかったのが運の尽きだった。
面倒ごとは男の自分に良く任される。ネズミが見たくないのはこっちだって一緒だ。それを異性だからと言って守ってくれるだろうと仮定されるのは、大変困る。元々明志の所属している学校には男性も少なかったし、そう言う話が回ってくる率が高かった。
白いまんじゅうみたいなネズミを追いかけているが、全然追い付かない。
「痛ってぇ!」
それは突然で、飛びかかってきたまんじゅうに鼻を噛まれていた。そのとき何故か、煙たい匂いがする。明志は思わず鼻を押さえてうずくまった。やがて痛みが少し収まったため掌を見るが、幸い血は出ていない。
「変な感染症とか掛かってないだろうな……? え……、何だ、ここ?」
病気に掛かったらパティシエ人生は終わりだ。しかしそれより何より、自分の周りが一面ミント色で覆われていたことが問題であった。夢でも視ているのだろうか。まさか謎の病原体で幻覚でも視ているのだろうか。
しかし草の匂いや感触、風さえも感じられる。少し歩くと、サクサクと生命を表す音も聞こえた。
「どこなんだ、ここは……」
誰に投げるでもない問いかけは、木々に吸収された。それらが答えてくれるはずもなく、遠くで鳥が鳴くばかりである。取りあえずはどこか人のいる場所に出なければならない。校舎の近くにはこのような森はないが、きっとどこか公道に繋がっているだろう。
そして明志はハニーに会うまで歩き出した。まさかこんなにも歩き詰めになるとは思っても見なかったのだ。自分の足にふと眼を落とし、ここまで頑張ったことに対して褒めてやる。若干筋肉が付いただろうか。明志にとっては不名誉であるが、じんじんと脈打つそれはまた愛おしく、労わってやった。
「ハナノギ! いつまで入ってるのよ!?」
急に女の甲高い声が掛かり、明志はどきりとする。思い出にふけっている内についつい長湯になってしまったようだ。
「わ、悪い! もう少し待ってくれ!」
「早くしてよね!? 見付かったら……、恥ずかしいじゃない!」
せっかく借りた石鹸を使わないまま返すのは何とももったいない気がしたので、もう少し待つようにハニーに促した。恥ずかしいと言われても、恐らく矛先が向くのは自分なのでハニーが気負う必要はない。その点を言えば、女は得だし羨ましかった。
「ねぇ! もう少し掛かるのよね!? ちょっと行くところがあるから、待っててもらってもいいかしら!?」
「……。構わない! 好きにしろ!」
明志は少々気になったが、ここはハニーのフィールドだ。彼女も彼女なりにあるのだろう。人を呼びに来る可能性もあったが、こちらもその隙に逃げればいいだけだ。
「良かった! じゃあ待ってて!」
「――ふぅ」
人の去る気配がする。明志はようやく羽を伸ばせた気がした。趣味ではなくても、隣に女が居られては気が気でない。
空を仰ぐと、陽は傾きかけている。何回も見た光景であるが、この世界で初めて美しいと思えた。前までは暗くなる恐怖で居ても立ってもいられなかったのだ。
動かないでいたせいか、湯気が濃く立ち込めてきた。そのときだ。じゃぷ、と音を立てて誰かが入ってきたのだ。明志は一瞬、ハニーが入ってきたものだと錯覚する。
「ま、待て……! それはマズい……っ!」
「おっと、失礼。先客が居たのか」
しかし炭酸の霧が晴れると、それはがたいの良い男だった。明志はほっと胸を撫で下ろし、逃げようと浮き上がった腰を落とす。男同士なら何ら問題はない。
「長老に勧められてな。朕も湯をいただくことにしたのじゃ。この湯は村の自慢なのじゃろう?」
「え? え、えぇ……」
気さく話しかけられ、明志は困る。この男もよそ者なのだろうか。明志を村の民だと思っているらしかった。
「其方等、パティシエは腕がいい。長老がしっかりしているからじゃな」
そう言われても自分には関係がなかった。あとでハニーに伝えといてやろう。しかしハニーの他にもパティシエがいると言うことだろうか。珍しいこともあったものだ。
「あの……、あなたはどうしてここへ……?」
問われて、男は眼を円くする。それはラムネゼリーのように透き通り、純粋な瞳であった。まるで意外だと思っているような反応だった。しかしそれは一瞬で、今度は考え込むように顎に指を遣った。
「……そうじゃな。正直なところ、父の退位の取り決めが進んでいるから、が一番やもしれぬ。逃げられぬ状況でなければ動けぬとは、……失望したじゃろう?」
ガトーは内心、そうだと言ってほしかった。自分でない誰かが皇帝になれば、もっとこの国は良くなるのにとも考えていたのだ。
しかしそれでも、認めてほしい心は存在し、その間に挟まれ苦悩していた。
明志はそれを語られたけれども、ちっとも理解していなかった。ただこの人物が何をしに来たのかを訊いただけなのに、哲学を諭されてもどうしようもない。
「はぁ……。でも、人間って結構追い詰められないと動けないと思いますよ。俺もそうでしたし……」
今までにないサバイバル魂を発揮させ、ここに至るのだ。人間追い詰められないと力なんて発揮できない。そもそも明志が自分の店を持てなかったのも、流れに身を任せ過ぎたが故である。
「そうじゃろうか……? 朕の二十三年の生涯には、いつも父の影がちらつく」
――同い歳かよ……。
見た目は明志より若い。きっと現代に疲れていないためだろう。古臭い言葉遣いだが、位の高い者が使うそれであった。
自分のことはもう若くないと思っていたが、体を鍛えればまだまだいけるだろうか。明志は自分の腕を眺めて、即刻諦めた。
「やはりパティシエの腕じゃな」
「そう、ですか?」
大男は明志の腕を見て、そう告げる。いまの“腕”は、実力と言う意味ではなかった。相手の同性と比べて随分とひ弱ではあるが、確かにホイッパーを振るうことには自信がある。
「朕は是非とも腕の立つパティシエを専属にしたい。父の意向を継ぐために」
「専属……? どうして、です? パティシエはたくさんいます。腕がいいのは確かに大事ですが、自分の旨いと思った職人を支持するのも、楽しいもんですよ」
それは過去の明志の願い。同じような腕のパティシエはごまんといる。そこから抜きん出たく、毎日毎日技術を磨いたものだ。だがパティシエとしての幸せは、誰かが傍にいてくれるから生まれるのだと後になって気付いたのである。
「そうか……。それも一理あるの。父はそのようにして専属を選んだのを思い出したよ。感謝する」
その専属と言うのは何なのか。どういった意味があるのかは、ついに聞けずじまいだった。いま聞いてしまうとよそ者だとばれてしまうからだ。あとでハニーに訊けばいい。このお伽噺は、何とも謎が多そうである。
「邪魔したの。良い湯じゃった! さて、ハニーとやらはもう帰って来てるじゃろうか……」
「ハニーの、知り合いか……?」
「む? いや、朕は村一番との噂しか知らぬよ。其方は知り合いかの?」
聞きなれた名前だったため反応してしまったが、特に親しいわけではない。
「あー、いや、俺も名前だけしか……」
取りあえずごまかし、男を後にさせた。去る前に名前だけ教えてもらう。
「そうじゃ、名乗りがまだであったな! 失礼した! 朕はガトー・ベェクと申す。温かい湯は人を開放的にさせるの! 参ったわ!」
大口を開けて快活に笑う。相手だけ名乗らせるのは気が引けたので、こちらも名乗ることにした。こうして知り合いは増えていくのだ。
「俺は花ノ木……あ、いや」
ここでの文化に則るなら、ファーストネームが先なのだろうか。ガトーも外国名のようだし、明志は慎重に言い直した。
「俺は、アカシ ハナノギだ」
それはひとつ、環境を飲み込んだ証である。
「アカシ! 変わった名じゃの! 色々と勉強になった! 其方は教師に向いておるぞ!」
この歳で、同年代に呼び捨てにされることはあまりない。教師として勤務してからますますだ。それがとてもくすぐったかった。
それにしても、なりたくなかった教師に向いていると言われ、明志は湯に溺れそうになる。そこに才能は要らないのだが。明志は自分の能力を呪った。できればパティシエとして慕われたかったのだ。もちろん学校でも菓子作りを教えている。しかしそれはパティシエと言えるのか、昔から考えていた。
もうすぐ夜の帳が降りる。明志も湯を後にし、依然と同じものを羽織った。結局同じ服では、湯に揉まれた効果はあるのか甚だ疑問だが、それしかないので仕方がない。
「おい、上がったぞ。遅くなってすまない」
明志は薄暗い小屋に入るが、ハニーは戻っては来ていなかった。捨てられた、のだろうか。成人の男と気付き、怖くなったのだろう。明志は軽く溜息を吐き、踵を返す。どこへ行くではないが、散策をしたかった。
昼頃に通り過ぎた巨木の傍にやってきたとき、ガトーの声が響く。明志は巨木に身を隠し、聞き耳を立てた。
「其方がハニー・キャンディか! 朕はガトー・ベェクと申す。さっそくじゃが、朕の専属になるつもりはないか?」
「あたしが……、専属? 光栄にございます、皇太子様。ですが……あたしはまだ学生の身……」
帰らないと思ったら、ガトーに足を止められていたらしい。何か事故に巻き込まれたわけではなさそうだったので、明志の胸のざわつきは少し収まった。しかし丁寧な言葉づかいもできたのかと感心する。
「ふむ、それは聞いておる。しかし其方の二親が学び舎に掛け合ってくれるそうでな。すぐに修業課程を出せるやもしれぬのだ! それであれば、其方は朕の専属になってくれるか!?」
「え……、それは……」
皇太子が直々に願いに来て、断ることのできるパティシエなどいるのだろうか。ハニーは少し口をつぐむ。そのように急に言われても、想像が付かなかった。ひざまずいたまま、うなだれる。
「ハニー。光栄なことじゃないか」
「そうよ、心配することはないわ。あなたはできる子だもの」
後ろで、卵色の髪の両親が答えるように促していた。この二人は知らないのだ。ハニーがいまスランプであることに。
「村一番の腕と聞いておるし、朕にはどうしても其方の力が必要なのじゃ!」
ハニーの腕が一番? 何を口走っているのだ、あの男は。あんな不味い菓子を作る未熟者が、腕の立つパティシエールのはずがない。良くは分からないが、ガトーは腕の良いパティシエを探していると言っていた。それは錯誤があってはいけない。
明志はどうしても、黙ってはいられなかった。
「そう、ですね……。あたしで良ければ――」
「待て! こんな未熟なパティシエールに注文するもんじゃない! こいつの作ったクッキーを食べたことがあるのか!?」
ハニーが押されて飲み込もうとしているが、それは阻止しなければ。でないと大変なことになる。ガトーのためにも、そうしなければならないのだ。
「ハナノギ!? どうして出てきたのよ!?」
「おや、アカシ! また会うたの!」
しまったと思うにはすでに遅く、もう突っ切るしかなかった。歳だと思っていたが、ギラギラとした感情は残っていたようである。それもそうか。俺はまだ、ガトーと同い歳だ。でかい野望があってもおかしくはない。
ぎょっとしたハニー一家を尻目に、ガトーに突っかかる。殴られたら終わりだが、パティシエの神髄をかけて大男を口説かなければならなかった。別に自分が一番とも思ってはいないが、舌には自信があった。伊達に教師はしていない。
「確かにアカシの言うことにも一理あるの。ハニー女史、朕に何か作ってくれぬかの?」
しかしそれは、意外にもあっさりと受け入れられたようだ。ガトーはハニーに向き直り、にこりと笑う。無礼など気に留めることもなく、話を進めてくれた。この中で一番物分かりが良く助かっている。
「ちょっとハニー、この男の人は、知り合いかい……?」
「えっ!? えぇ、まあ、あの、そのー……」
明志の見てくれを観察すれば当然だろうが、ハニーの父と見られる男性は心配していた。体こそ清潔にしたが、服はそのままであるので何とも違和感があるのだろう。それによそ者であることは、きっと気付かれている。
「その……ハナノギは……」
「俺は教師だ」
その言葉に効力はないだろうが、自分の地位を証明するために一先ず告げてみた。それに乗ったのはハニーだ。
「そう! わたしがお願いしたの! 帝都で評判の腕のいいパティシエなのよ!?」
「何と、そうじゃったのか! 無知で申し訳ない!」
だんだんと話がややこしい方向へと流れてきている。ハニーの両親はと言うと、ますます訝るような眼を明志に向けるばかりであった。明志は道を修正するために、本来の目的を果たせるようガトーに促す。
「ガトー、……殿下。俺の生徒ですが、まだまだ未熟な部分もありますので、その……、プロのパティシエールとして扱うのはお止めください。まずは現在の技量を図っていただければと思います」
「ふむ、そうであったな」
「わたしたちの娘を、愚弄するのですか!?」
今度は母親の出番だ。得体のしれない男が突然現れたので夫に守られてはいるが、大事な娘を肯定するために叫んでいる。
「あ、いえ、そう言うわけでは……」
これではまるでモンスターペアレンツではないか。さすがに教師の明志でも、それは対処したことがなく、ただ苦笑いを張り付けるだけしかできなかった。しかし制止したのはハニーである。
「父様、母様! これはあたしの腕の問題よ。ハナノギ先生、キッチンでしっかり見ていてください。これから皇太子様へ捧げる菓子をお作りいたします。しばらくお待ちください」
言ってハニーは明志の袖を引っ張る。今度は北の森ではなく、ひとつの民家に入るようであった。
「それと! 本気で作るから、誰も入ってこないでよね!?」
いつもの口調も戻ったようで、唇を尖らせて言い放つ。ハニーはやはり、職人の気質を持っていた。自身の腕は、自分が一番良く分かっている。それを年齢のせいにも、不調のせいにもしなかった。
バタン、と勢い良く扉を閉め、ひとりの影がへたれこむ。それは明志ではなくハニーであった。少女の細く白い腕はぎゅっと自分の肩に引き寄せて、小さく震えている。怖いのだ。立派な地位に就いたら、自分はどうなるのだろう。たった十八年しか生きていない背中には、とても重かった。
しかも周りは自分のことを天才だと思っている。ハニーはあの楽しかったころに戻りたいのに、どんどん世界がかけ離れていってしまった。
「ハニー、助かった。ありがとう」
見兼ねて声をかけるが、明志にはその事実しか言えない。ハニーより長身なため腰を折って、目線を合わせてやる。
「ハニー、俺には分からんことも多いが、何でも言え。できる限りのことは助けてやる」
仮にもハニーの教育を請け負った身だ。教師としてできることならしてやるつもりだった。
「……じゃあ、あたしの代わりに皇太子様の専属パティシエになってよ。……何てね! 冗談よ! さ、何を作ろうかしらね!」
「――――……」
ぽつりと呟いたハニーの言葉には答えてやれなかった。彼女だって自分で解決しなければいけないことは知っている。専属になる、ならないは双方の意志で決定ができ、もちろん断ることだってできた。だがそれを断ったからと言ってハニーの不調が治るわけでもない。
「ねぇ、ハナノギ! 先生はいったい何が食べたい?」
幼い思考ではちきれんほど考えているのに、彼女は柔らかく笑っている。せめて忘れさせてやれる時間を作るために、菓子の名を答えることしかできなかった。
「そうだな……。チェリーパイでも、貰おうか」
せめて、めいっぱい時間がかかるものをリクエストすれば、忘れ去ってくれるだろうか。
「いやだ! 生地から作れって言うの!? それじゃ朝になっちゃうわ!」
けらけらと腹を抱えて笑うが、ハニーはよし、と思い直して厨房へ立った。
「作ってみるわ。待っててね、ハナノギ!」
薄力粉………一五〇グラム
強力粉………五〇グラム
塩……………ひとつまみ
バター………一五〇グラム
冷水…………一〇〇グラム
さくらんぼ…四〇〇グラム
砂糖…………六〇グラム
レモン汁……少々
卵黄…………少々
良く冷えたバターを一センチ角にさいの目切りにし、ボウルに移す。その上から薄力粉と強力粉を混ぜたものを振るう。スケッパーで切るように混ぜ、バターの周りに粉が付くようになったら冷水を二、三回に分けて入れる。よく混ぜる必要はなく、粒は残っていていいのでひとまとまりにする。まとまった生地を氷室に入れて約三十分から一時間寝かせる。
その間にチェリーのフィリングを作る。これはジャムの応用で、ジャムほど潰さなくとも良いが艶が出るまで火を通しておく。チェリーは種取り機があれば便利だが、縦に切り込みを入れ種を中心に左右で反対方向に回せば簡単に取れる。
パイ生地が冷えたら、打ち粉をした板の上で綿棒を使って四方向へ伸ばす。この伸ばした段階で中にバターを入れ込むものもあるが、今回は割愛することにした。伸ばした生地を三つ折りにして、さらに伸ばす。これをもう一、二回ほど繰り返した。
再度氷室で十分ほど冷やす。今度はその間にオーブンの予熱だ。オーブンは二〇〇℃。あとはタルト型とフォークを用意し、チェリーフィリングの熱を見る。すぐ火から外したので十分に冷めていた。
生地が冷たくなったので、先程の伸ばしては三つ折りにする作業を三回繰り返して、生地は完成だ。タルト型に敷き詰め、余分なところは切り離しておく。フォークで穴をあけ、チェリーを流し込めば後は焼くだけだ。忘れてはいけないのは、最後の飾り。これは生地が余れば作っても良いし、なくても良い。
二センチほどの幅のひも状にカットした生地を網目のようにチェリーの上に乗せていった。焼く前にほぐした卵黄を生地に塗り、オーブンへ投入する。焼き目が付いたら一八〇℃に落とし、二十分ほど待つのみであった。
朝まで、とはいかなかったが、深夜のデザートになってしまったようだ。ハニーは気が紛れたのか、パイが焼ける匂いをすんすんと嗅いでいる。
「ねえ、ハナノギ。これが美味しくなかったらあたし、皇太子様の専属パティシエールを断ろうと思うの」
「……旨かったら?」
その選択肢も、あっていいはずだ。明志は一部始終を見ていたが、特に変なところも誤った手順も見つからなかった。
「そうね……、それはちょっと考えようかしら。やっぱりお菓子作るのは楽しいし、皇太子様の近くにいれば、知らないレシピだって手に入る可能性が高いから」
考える、との言葉に明志は少々ムッとしたが、後半の言い訳には彼も同意した。やはりレシピは多いに越したことはない。それに披露する場も多そうだ。井の中の蛙になるには、もったいないほど世界には情報が溢れている。
「あのね、ハナノギ。あたしって、クラム・ショコラかもしれないんだって」
「クラム……、何だって?」
また聞きなれない単語だ。次から次へと、もう勘弁してほしかった。
「ハナノギは外国の人だものね。知らなくて当然よ。ベェク帝国のパティシエには、必ず天才が現れるわ。その人たちはクラム・ショコラの名称を賜れるの」
しれっと自分を天才と呼んでいる気がしたが、明志は黙って聞き続けていた。
「その見た目は決まってて、チョコレート色の髪に、クランベリー色の瞳を持つんですって。信じられないかもしれないけど、あたしも生まれたときは父様と母様と同じ、綺麗な卵色の髪の毛だったのよ?」
「……変なこともあるもんだな」
ハニーの髪はもうすぐ、テンパリングしたチョコレートのような色に変化しそうであった。瞳は木苺だと思っていたが、確かにクランベリーが集まったようにも見える。
「ふふ、そうね。変、よね。だんだん焦がされたような色になってしまって……、でも、あたしは誇らしかった。いまの長老は第七十一代クラム・ショコラで、あの名高い人物にあたしもなれるんだって思って。……だけど、決まりって自由じゃないのね。あれやこれやと言われるうちに、何が何だか分からなくなったわ」
それは、学校で出す課題に似ていた。明志も生徒にあれこれ教えているが、良く挫折して去っていく者も少なくない。上手く汲み取れなかった者もいるが、事実、型に填められて個性を失ってしまった独創的な者もいる。
歳若き夢追い人が、空しく去っていくのは何とも口惜しかった。時代や国が違えば、あるいは学校が違えば彼らの夢は叶っていたかもしれないのに。
だけれどもハニーの言葉からすると、やはりどこの環境も難しいようだ。異なる場所では、もちろん異なる規律が存在する。
「気にしないことだ。俺が言えるのはそのくらいだな」
明志が教師になって二年ほどだが、若人と接する機会は他と比べて多いだろう。精一杯生きている彼らに言えることは、何かに縛られてはいけないと言うこと。見えない糸に縛られれば、その分身動きが取り辛くなる。それは蜘蛛の糸くらい簡単にほどけるように、自分で思い込んでおかなければならないのだ。
基本はあくまで基本。抑えることは重要だが、ときには道を外さねばいけないこともある。
気付けば、辺りは粘り気のあるさくらんぼの匂いで満たされつつあった。ハニーの立場について、もうすぐ答えが出るかもしれない。彼女の眼にはもう揺らぎはなかった。この子の決めたことだ、自分は何も言うまいと、明志は心に決めたのである。