愛を知らせる心臓
ロボットの私は今日の午前三時に活動を停止する。
これは人間でいうところの死にあたる。
内臓されているバッテリーが一定のスピードで減っていく。
私はそのことをご主人様には告げていない。
この人はきっと悲しむだろうから。
そんな顔は見たくなかった。
最期に見るのは、あなたの笑った顔がいい。
だって私はあなたの笑った顔が他のなによりも好きだったから。
何も知らないあなたはいつものように「おやすみ」と言って笑った。
血の通った温かい声だった。
私はその声を聴くのが好きだった。
私の耳に設置されているマイクが僅かに震えている気がするから。
「おやすみなさい」と、私は笑って返した。
下手くそな作り笑いしかできない私の、笑った顔が好きだとあなたは言ってくれた。
それだけで、あなたに出会えてよかったと思った。
月明かりが差し込む海底のような部屋の中で、一人分の小さな呼吸。
ご主人様の寝息が聞こえる。遠くで虫の鳴く声と、トラックの音がした。
もう私の瞳のレンズが温かい太陽を見ることはない。
あなたと見た空の蒼さを私は忘れない。
あなたもきっと忘れないから、なくさないで持っていてほしい。
残り一時間。
私は壁にもたれるように座って、ご主人様の寝顔を見ていた。
思えば、この人が小さい子供の頃からずっと一緒にいた。
それが今では、すっかり私の身長を追い抜いてしまっている。
お世話ロボットである私は、登録されているご主人様が大人になると内臓バッテリーが自動で消費していく設定になっている。
これは誰にも止められないし、他言できないようにプログラムされている。
私はそういう商品なのだから仕方がない。
嬉しいことだと思う。
十数年間。大きな病気も怪我もなく、生きてくれた。
これからも元気に生きてくれる。
私のいない世界でも、あなたはちゃんと呼吸をする。
私がいない世界でも、あなたはちゃんと笑うことができる。
大切な人を見つけることができる。
この悲しみを乗り越えることができる。
あなたは優しくて強い人だから。
きっと私がそういうと
あなたはそんなことないよって泣くだろうけど
人の前で泣けるあなたはやっぱり強くて優しいよ。
その涙だけで、嬉しいから。
残り三十分。
私の人生はあっという間だった。
幸せだった。
でももうすこしだけあなたを見ていたかった。
心配だからじゃない。
愛していたから。
あなたの未来に、私もいたかった。
一日でも多く、一緒の世界で笑いたかった。
私はそっとご主人様の頬に触れた。
この温もりだけ、もっていきたい。
そうしたら寂しくないから。
「……ん? どうした?」
ご主人様が起きてしまった。
いつもの優しい声が私の体に響く。
「なんでもありませんよ」
「眠れないのか?」
「……そんなところです」
本当は起きたらいいなって思っていた。
頬に触れると起きることくらい分かっていた。
でも、触れたかった。
最期にもう一度だけ声を聞きたかった。
大好きなあなたの声をもう一度だけ……。
ご主人様は布団から起き上がると、私の隣に並んで座った。
一緒に壁にもたれて窓の向こうの月を見つめた。
「眠らなくていいのですか……?」
「お前が眠ったら、寝るよ」
「いいですよそんなの。明日も早いんですから」
「お前だって早いだろう」
「私はロボットなので、寝なくても平気です」
「俺も平気だよ」
「……分かりました。もう私も布団に入ります。寝ましょう」
いつものように自分の布団の中に入ろうとしたときだった。
「今日はこっちで一緒に寝るか?」
「……なんでですか」
「眠れないんだろう」
全部お見通しなのだろうか。
分からないけど、今はその優しさに甘えたかった。
これが最期の優しさになるだろうから。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
彼は背を向けて眠りについた。
すぐに寝息が聞こえた。
それが嘘だってことは、すぐに分かった。
笑ってしまうくらい下手くそな嘘だった。
でも、それが私の大好きな優しさだったから。
残り五分。
私はご主人様の背中にぎゅっと抱きついた。
大きな背中だった。
いつのまにこんなに大きくなっていたんだろう。
あなたは私が思っていたよりも、ずっとずっと大人になった。
ちゃんと育ってくれた。
本当にありがとう。
死なないでいてくれてありがとう。
消えたい日もたくさんあったのに、生きてくれてありがとう。
それを乗り越えて、あなたは大人になった。
あなたは一人じゃないよ。
今までも、これからも、一人じゃないよ。
だって、今日まで生きてこれたから。
あなたの今は、たくさんの人が作ってくれたから。
そのことを忘れないで。
もしも、世界中で一人ぼっちだと感じてしまったときは思い出してほしい。
あなたのことを大切に思ってくれてる人はたくさんいるよ。
目に映らなくなってしまうときもあるけれど。
疲れてしまって、何も考えられなくなる日もくるけれど。
あなたが今生きているのは、誰かがあなたを心から想っているからなんだよ。
それだけ、忘れないで。
あなたが生きているだけで、喜ぶ人がいること。
あなたの心臓は、それを知らせるためについている。
あなたの優しさは、その人たちを幸せにできるよ。
私はそのことを知っているから。
私が知っていたことを忘れないで。
迷ったら心の中にいる私に訊ねてほしい。
そこの私は、あなたのおかげで幸せな人生を歩めたよ。
あなたが生きていたから、嬉しかった。
おでこをご主人様の背中に当てた。
それと同時に鼻先が触れた。
いつもの匂いがする。
懐かしい。
今が一番幸せだと、最期だからそう言えるよ。
あなたのそばで迎える死より、幸せなことなんてないよ。
いつのまにか何も見えなくなっていた。
体も動かない。
最期に聞こえたのは、泣き声が混じった小さな「ありがとう」だけだった。
そこで私の記憶は途絶えた。
*
*
*
白い光の中で私は目覚めた。
すぐそばで、笑っている成人男性がいた。
その隣に同じ年くらいの女性が赤子を抱えていた。
「おはよう」
いつもの聞き慣れた声でご主人様はそう言った。