ブリリアントガーデン
絶対に逃がさない、という意思が込められていそうな細く小さな手を、ロバートは茫然と見つめていた。
その手が掴んでいるのは自分の腕であり、手の先にあるのは、愛想のいい笑顔を浮かべているようでいて、どこか気迫を感じさせる妙齢の淑女の顔である。
一瞬前までは、まるで想像がつかなかった事態に、ロバートはなぜこんなことになったのだろうかと、のろのろと頭を働かせた。
事の発端は、この淑女がロバートの目の前でふらついたことだった。
舞踏会場の端でそろそろ帰ろうかと考えていたロバートの視界の隅で倒れそうになったのだから、紳士の義務として彼は慌てて彼女を支えた。
その時に彼女が恥ずかしそうにこう言ったのだ。
「ごめんなさい。今日はちょっと踊りすぎたみたいです。疲れただけなのです。少し休めばよくなりますから」
通常ならば、ここで恋の駆け引きが始まったのかと警戒するところだが、彼女に限ってそんなことはあるはずがなかった。顔見知り程度の間柄だが、彼女のほうはちょっとした有名人なのだ。
踊りすぎたという行為が彼女のイメージにそぐわないと思いはしたが、特に気にせずロバートは紳士としての義務を続けた。
「ではひとまずゆっくり休める場所までお連れしましょう。リンジー嬢」
そう提案すると、彼女は太い柱の陰にあるソファーを指差した。
「ご親切にありがとうございます。ではあのソファーまでお願いできますか?」
もちろんですと返して、ロバートはリンジーを支えながら導いた。到着すると、そこが半分ほど仕切りカーテンで隠れているせいで、かなり人目につきにくく会場から隔絶されていることに気がついた。
こんな所で女性が一人で休んでいれば、異性からの誘いを待っているように見えないだろうか。
「ここでいいのですか?」
「はい。ゆっくり休みたいので」
彼女はわかっていないらしい。
「ではあなたの付き添い人を探して来ますよ。どこにいるかご存知ですか?」
ここで見捨てるわけにもいかず、ロバートは記憶に全く引っ掛からない彼女の付き添い人の顔を思い出そうとしながら尋ねた。
と、ここまでがロバートが茫然とする一瞬前までの出来事である。
やっぱりわからない。
なぜ自分が獲物を逃がさんとする猛禽類の獲物になったような気分を味わっているのか。なぜいつの間にか腕を掴んでいた、白い手袋に包まれた手が、鷹の前足のように思えてしまうのか。
リンジーはにこりと笑みを深くした。
「ロバートさん。よろしければ隣に座っていただけませんか?」
嫌だ。
と思ったものの、そんな率直な断りかたを紳士ができるはずもない。
「いえ、僕よりも付き添い人に来てもらったほうがあなたも安心するでしょう。探して来ますから、手を離していただけませんか?」
努めて穏やかにロバートは言った。すると彼女もそれに負けず穏やかな口調で返してくる。
「疲れているだけですもの。わざわざ彼女を呼ぶ必要はありませんわ。それよりも少しだけ話し相手になっていただけませんか? あなたが彼女を探すために使ってくださろうとした時間の、その間だけで結構ですから」
こんな言い方をされれば断りにくい。もともと帰ろうとしていたところだ。咄嗟に約束があるのでとも言えず、ロバートは了承の証として隣に腰をおろした。噂や印象のせいで、この女性が悪い人ではないと思っていたせいもある。
「よかった」
嬉しそうなリンジー嬢を見れば、ロバートは自分が彼女の意中の人であるかのような錯覚に陥りそうになる。
「わたし、実はあなたにとてもいいご提案があるんです」
しかし彼女は続けてこんなことを言った。
「ロバートさん、どうかわたしの偽りの恋人を演じてくださいな」
「はあぁ?」
ロバートは裏返ってそのまま宙返りをしたような声を出した。
無理からぬことである。ロバートが呆気に取られたのは、何も彼女が「偽りの」と言ったせいではなく「恋人」という言葉のせいだった。
「いや……リンジー嬢、あなた恋人いるでしょう……」
リンジー・オールウィン。士官の娘。
彼女はこの大きくも小さくもない町の社交場で、一度くらいは耳にしたことがあるという程度の有名人だった。
それは彼女と恋人の関係によるものである。二人は幼馴染みで、男のほうは現在研究者として留学中で、いつ帰れるとも知れない身なのだ。そんな立場にも関わらず、彼は留学前に彼女に想いを告げて、帰ってきたら必ず結婚しようと約束した。
リンジー嬢はそれを受け入れた。家督を継げない彼がそれなりの功績を手に入れて帰って来るのは、本当にいつになるのかわからないのに。
二十一歳で、結婚適齢期で、もっといい相手が他にいるだろうにと言われている現在も、彼女はずっと待っている。寂しくないのかと人に聞かれても「わたしは彼を応援していますから」と言って。
世の奥様方が大好きな話である。ご夫人たちは彼女にとても好意的だ。純粋で一途なお嬢さんとして。
ロバートにしても、彼女のことはぼんやりとではあるが、いい印象を持っていた。
ついさっきまで。
なぜ偽りの恋人になれなどとそんなことが言えるのか、理由を説明してほしい。
ロバートが不審げな視線を向けていると、彼女はあっさりとその理由を口にした。
「いませんわ。わたし、彼に捨てられましたので」
「はああぁぁ?!」
ロバートは大声を上げた。これは驚きよりも怒りのほうが大きい。
どういうことだ。自分で待っていてくれと言った女性を捨てるなんて。
「ちょっと! 声が大きいです。静かにしてください」
リンジーは慌ててロバートを宥めるように手を振った。幸い音楽の低音と重なったので、ほとんど気づかれず、何事かと振り返った人たちも、誰が発した声なのかわからなかったようで、すぐに興味をなくしていた。
しかしロバートはそれどころではない。
「本当なのですか。捨てられたというのは」
もしそれが本当なら、相手の男はふざけきっている。そんなことをされたのが自分の家族だとしたら、ロバートは間違いなくその男の元へとんでいってボコボコに殴っているだろう。気持ちを踏みにじっただけでなく、若い娘の一生を左右する期間を無駄に過ごさせたのだから。
「ええっと、捨てられたというのはちょっと違うかもしれません」
ロバートの怒りが予想外だったのか、リンジーはしどろもどろになった。
「だってわたしも彼と婚約したのは、ただ結婚が遅くなって好都合だというだけですし」
「は……?」
「むしろできるなら結婚しなくて済むほうがよかったので、無意識にもうっかり手紙の返事を忘れたり、誕生日を忘れたりしちゃったこともありましたし。もういっそ留学先であちらの女性にたらしこまれてくれないかとも思っていたんですよね。そうしたら……」
リンジーは満面の笑みを浮かべた。
「本当にそうなったのですよ!」
「どっもどっちじゃねーか!」
小声でロバートは怒鳴った。
「まあ、失礼ですね。わざとやったわけじゃありませんわ。それにわたしはちゃんと彼に結婚が遅くなって好都合だからと伝えていました。それでもいいと言ったのは彼のほうです。男が一度言ったことを覆すものではありませんわ。悪いのはあちらです」
「そうかもしれんが、そうなのかもしれんが、なんかおかしい……」
少なくとも捨てられて喜んでいる人間が言うことではない。
「あんた噂と全く違うじゃねーか」
早々にロバートは淑女に対する敬意を放り投げていた。
「あら、わたしは嘘なんて一度も言ったことはありませんわ。彼を待つのが嫌になって他の男性と結婚したいなんて思ったことはありませんし、いつだって留学中の彼を応援していましたから」
周りが勝手な解釈をしただけだということだろう。実際に彼女はおしゃべりなようではなかったし、社交場にもあまり顔を出していなかったから、噂や恋話が好きな人間に、一途な恋だと思い込まれただけというのはあり得る。
「まあ、そんなことはどうでもいいのですよ」
リンジーは重要なのはそこではないという言い方をした。嫌な予感がする。
「今までは彼を待っていたので、婚期が多少遅れても問題なかったのですけれど、このことがお母様に知られれば、わたしのためにと、すぐにでも結婚相手を探して来るかもしれないんです。それを避けたいのです。将来的に結婚がやむを得ないものだとしても、できるだけ遅らせたいですから」
「なんでそんなに結婚するのが嫌なんだ?」
当然の疑問をロバートは口にした。世の令嬢というのは結婚はともかく、できるだけ早く婚約をしたがるものだ。
しかしリンジーは心の内を隠すようににっこりと笑った。
「女性は誰でも結婚をしたがっているものだなんて思わないでくださいな」
ロバートは虚を衝かれたように眉尻を上げた。
「それであなたに恋人のふりをしていただきたいのです。ちょっと付き合っているように装ってから別れてくださればいいだけですわ。そんなに悪い話ではないでしょう? 女性にとってはお付き合いした男性が多いというのはいいことではありませんけど、男性にとっては勲章みたいに扱われますもの」
「……いえ、僕にとってのメリットはほぼありませんね。そろそろ帰らせていただきたいのですが」
ロバートは逃げることにした。これは厄介なのに掴まりそうになっている。
「あら、本当にそうですか? 舞踏会に来ても、いつも男性同士でお話されているだけで、女性をお誘いにはならないロバートさん」
含みのあるものを感じたロバートは、浮かそうとしていた腰をぴたりと止めてリンジーを睨んだ。
「……どういう意味ですか?」
「だって結婚相手はまだ探していないのだとしても、いつも必要最低限にしかダンスをなさいませんし、軽い火遊びをされているようにも見えませんもの。だからもしかして、女性が苦手なのではないかと……」
「別に苦手ではありません。舞踏会には顔を広めるために来ているだけですから」
ムッとしてロバートは反論した。二十代半ばなので男性としてはまだ結婚を急ぐ必要はないし、社交場には女性と知り合うためではなくて、仕事のために来ているのだ。
「それにしても女性に近づこうとなさらないでしょう? あなたはこの町有数のお金持ちのご長男ですもの。若い娘を持つご夫人から注目されているんですよ。それで、何か理由があるのではないかと、最近はいろいろと噂が出始めていて……」
リンジーは同情めいた視線を向けた。
「……どんな?」
恐々としながらロバートは尋ねた。聞きたくないが、聞かないほうがもっと恐い。
「実は見た目に反して、とても臆病な方で、意中の女性をダンス誘うことすらできないとか、過去に手酷く振られたことがあって、そのことをずっと引きずっているとか」
予想の斜め下だった。好き勝手な言われようである。
「そんな事実はない!」
「もしかすると女性が恐いのかもしれないとか」
自尊心を傷つけられたロバートはきっぱりと言った。
「恐くはない! ちょっと苦手なだけだ!」
「やっぱり苦手なんじゃありませんの」
「うがぁぁ……!」
あっさりと罠に掛かったロバートは呻いた。
「ですからその噂を払拭するためにも、将来のために苦手意識をなくすためにも、ちょっと恋人のふりをしましょうというご提案なんです。ほら、悪い話ではないでしょう?」
至って気軽にリンジーは言った。
しかし噂のことは事実である。慢性的に結婚相手となりうる男性が不足している社交界では、目当ての男性から相手にされない女性の、主に母親が鬱憤をはらすかのようにこんな噂を流すことがあるのだ。希望的見解とも言う。
ロバートはブルジョワジーと呼ばれる類いの商人の長男で、貴族のいない、中流上位階級が主であるこの町の社交界では、人気があるほうなのだ。
「だからと言って、僕があなたに協力しなくてはいけないことはないだろう」
反抗心からロバートは許否をした。しかし内心ではとてつもなく焦っている。女性に対して臆病というのは、社交界では男としてかなりの減点要素である。そんな噂が本格的に広まるのは全力で阻止したい。
すると余裕の表情を浮かべていたリンジーが、悲しげに眉根を寄せた。
「でも……あなたに協力していただけないと、わたしはこれからずっと好奇の目に晒されることになります」
ロバートの良心を一撃する一言だった。計算して言っているのだとしても、それは事実である。同情によるものが多いだろうが、悪い意味で注目を浴びるのは間違いない。そのせいで母親がすぐにでも結婚をさせようとする可能性が高いということも。
はぁ、とため息を吐く。別に無理難題をふっかけられているわけでもない。それに困っている女性を助けるというのは、紳士として至極当然のことだ。ついでに自分の馬鹿馬鹿しい評判を回復できるなら、一石二鳥というものだろう。
「本当にふりだけでいいのですね?」
リンジーがぱっと顔を上げて目を輝かせた。
「ええ、もちろんふりだけです。お母様が変な期待を寄せてしまうかもしれませんけど、そこは任せてください。まだそんなことは考えられないとか言ってしっかり誤魔化しますから。何なら恋人ではなくて、仲のいい男友達ということでもいいです」
一気に元気になってまくしたてるリンジーに、ロバートは脱力してしまったが、まぁいいかとこの時は深く考えていなかった。
◇ ◇ ◇
その後、リンジーの友人の手腕により、彼女が恋人に振られたという話は瞬く間に町の社交界に広まった。
ほとんどの人の反応はリンジーを可哀想な人だと言っており、元恋人に怒りを向けるといったものだった。しかし中にはこの結果を予想通りだと、したり顔で言う人間も何人かはいた。
どちらにしろ彼らはリンジーの動向を探ろうと必死になっている。その様子を見ていたロバートは、細かい経緯は知らないが、やはり男のほうが最悪だと、遠い地の安全地帯にいる人間に悪態をついた。
話に信憑性を持たせるために、リンジーはロバートと協力関係を築いたあの舞踏会の日から、社交界には出ていない。
とてもそんな気分にはなれないだろうと言いながらも、お節介なご夫人たちはせっせとお茶会や舞踏会の招待状を送っている。
やがて二週間が経った頃、リンジーは再び社交界に顔を出した。ロバートにエスコートをされながら。
会場中が色めきだって、二人の周囲に人垣ができあがるのはあっという間だった。
「リンジー嬢、もうお加減はよろしいの? 体調が優れないと聞きましたけど」
「何か力になれることがありましたら言ってくださいね」
「あの、ところで今日はなぜお二人がご一緒にいらしたの?」
一人が一番気になっていることを思いきって尋ねると、全員がリンジーとロバートを交互に見た。
「体調もよくなってきたようなので、気分転換にお連れしたのですよ。友人として」
ロバートがそう告げると、何人かの女性はひっそりと安堵した。少ない花婿候補がまた減ってしまったのかと危惧したようだ。概ね言葉通りに受け止められたらしい。
しかしそれが二回、三回どころではなく、五回、六回と続けばもうそれは友人ではないだろうという意見も出てくる。
しかもロバートはいつもリンジーが人に囲まれそうになるとどこかへ連れ出したりと、何かと気にかけているし、彼女もロバートを頼りにしているように見えるのだ。
まだ恋人と別れたばかりなのにと顔をしかめる者もいるが、恋人に捨てられた人間が傍で慰めてくれた異性に惹かれるというのは、よくあることである。
つまりはそういうことだろうと誰もが思った。
馬車で迎えに来てくれたロバートを、リンジーは自宅のエントランスで目を丸くして迎えた。
今日は昼間に公園を散歩する約束で、彼はちゃんと時間通りに来ている。驚いたのは目の前に小さな花束と、チョコレートらしき包装箱を突き出されたからだ。
受け取らないリンジーにロバートは首を傾げた。
「気に入らないのか?」
「えっ、いえ、嬉しいわ。ありがとう」
型通りの礼を言って受け取ると、リンジーはそれを執事に預けた。リンジーの反応を特に気にした風でなく、ロバートは乗ってきた無蓋馬車まで彼女を連れていく。
馬車が出発するとリンジーは唐突に口を開いた。
「わたし失念していたわ」
「何をだ?」
「こういう関係を偽装するなら、当然あなたはわたしにプレゼントを何度も渡さなきゃいけないってことをよ」
「そりゃあ、そうだろう」
「考えていなかったのよ。そこまでしてもらうわけにはいかないわ」
リンジーが真剣な顔で言ったのでロバートは驚いた。口先だけの遠慮ではないらしい。
「だからって何も渡さないわけにはいかないだろう。そんなことをすれば僕の男としての信用が地に落ちる」
「そうだけど……あ、ねぇ、じゃあいくらかかったか教えてくださらない? 後でお支払いするわ」
「君、自由に使えるお金がそんなにあるのか?」
令嬢の買い物というのは、ほとんどがつけ払いなのだ。現金としての自由にできるお金などほぼないはずだ。
「えーと、じゃあ、物でお返しするわ。何かほしいものはある?」
ロバートはため息を吐いた。
「いらない。言っておくけれど、僕は個人でもそれなりのお金を持っているんだ。これくらいの出費は痛くも痒くもない。気にされるほうが面倒だ」
「……そういう問題じゃないわ」
ぼそりと呟いてリンジーは俯く。ロバートは今度は心の中でため息を吐いた。よくわからないが変なこだわりがあるらしい。
「君は結婚避けのため、僕は女性に慣れるためという交換条件だっただろう。だったら僕が渡すプレゼントを、女性が喜ぶものかどうかを教えてくれればいい」
リンジーは奇妙な顔でロバートを見つめた。
「わかったわ」
これ以上はごねても無駄だと悟ったので、リンジーは納得した。
「さっきのプレゼントはよかったわよ。初めはあれくらいが調度いいと思うわ」
「そうか」
そっけない返事が返ってくる。まるでそんなことくらいは知っていると言われているみたいで、リンジーは落ち込んだ。
「あなたっておかしいわ」
「どこが」
「だって全然女性が苦手なようには見えないんだもの。舞踏会ではちゃんとさりげなくわたしを助けてくれるし、どんな女性に対してもしっかり受け答えしているし。ついこの前までは本当に女性を避けているように見えたのに」
「そりゃあ、社交界に出るようになって数年は経ってるんだから、上っ面ぐらいなら取り繕えるようになる」
リンジーは意外そうに目を瞬かせた。
「え、じゃあ、本当に苦手なの?」
「苦手というよりも面倒だな。だいたいあの社交界での回りくどい言い回しというのが嫌いなんだ。男でもそういうのが好きな奴がいるが、男ならまだ何が言いたいかわかる。でも女はさっぱりわからん。褒めているのに残念そうな顔をされるし、入れ込んだつもりはないのに、裏切られたような目で見られるし」
苛立ったようにロバートは腕を組んだ。
「女は何を考えているのか全くわからない。付き合ってられん。…………何だよ」
リンジーは生暖かい眼差しでロバートを見つめていた。
「いえ、ちょっと先週末に会った七歳の甥のことを思い出していて」
「……なぜ今、それを思い出すんだ」
同じことを言っていたからだ。
しかしリンジーは淑女の気遣いとして、それは心の内に止めておいた。
「でもそれって相性というものだと思うわ。男性でもそういった言い回しが好きな人がいるように、女性でもそんな言い回しが嫌いな人はいますもの。もう少し踏み込んだお付き合いをすれば、その女性がどんな人かわかるのではないかしら。あなた愛想よくすればすごくモテそうですし。顔もちょっと目付きが鋭いけど悪くはないから、もったいないと思うわ」
「それはそこそこの地位とお金があるからだろう」
「だからこそちょっと愛想よくするだけで、女性が選り取りみどりなんじゃないかしら」
なるほど一理ある、とロバートは思った。
ロバートにしてもいずれは結婚相手を探さなくてはいけないのだ。ずっと一緒にいなくてはいけない女性が、面倒な人間だというのは御免である。それなりに選びたい。
そんな話をしているうちに公園に到着した。二人は馬車から降りて、並木道を知り合いに挨拶しながら歩いていく。
ロバートは顔見知りを見つけては声をかけていた。
「ここでは誰にでも話し掛けるのね」
「女性との駆け引きが必要ないからな。それに今は君がいるから、ご夫人方に話しかけても娘を押しつけられる心配がない。気兼ねなく営業ができる」
「営業?」
「今度、駅の近くにレストランを開くからな。宣伝しなくちゃならん」
「宣伝なんかしていたかしら?」
リンジーは首を傾げた。確かに駅の近くの建物を改装していて、店を開くという話はしていたが、ロバートはそれがレストランとすら言っていなかったはずだ。
「まず話題に上らせなくちゃいけないからな。何の店かすぐに教えてしまったら、すぐに興味をなくされてしまうだろう。情報を小出しにして、最新流行の店とでもいっておけば、開店までずっと興味を持ったままでいてくれる人間はそこそこいるはずだ。それに高級店を好む人間はあからさまな宣伝が好きじゃないんだよ」
「そんなことをしなくちゃいけないの?」
商売についてまるっきり知識のないリンジーは驚いた。彼女にとって宣伝とは、新聞に広告を載せたり、ポスターを作ったり、もっと直接的に店に来てくれと売り込むことだった。
「当たり前だろう。ただ店を開いただけで、客が来てくれるわけがない。それに僕は赤字にならなければいいなんて、そんな生ぬるいやり方はしない。がっつり儲けてこその商売だろう」
口調の強さが普段とは段違いであった。リンジーは若干引いた。
「あの……やっぱりわたし、いただいたプレゼントの分は何かお返しするわ」
でないと後が恐い気がする。
しかしロバートはとても嫌そうな顔をした。
「待て、別に僕は守銭奴じゃないぞ。人に贈った物に未練を見せるほど懐が狭くはないし、僕個人の金については使い方にこだわりもなければ、執着もない。仕事には成果がなくてはいけないと思っているだけだ。僕が好きなのはお金ではなくて利益だ」
つまりただの金儲け好きである。
彼の性格は家業ととても相性がいいのだった。
リンジーはそれまであまり理解していなかったロバートとの付き合い方が、なんとなくわかってきた。
◇ ◇ ◇
周囲の認識はもう、ロバートとリンジーが恋人同士であるいうものに固定されつつある。
二人もそれについてはもう否定しないことにした。リンジーの母親が結婚について、早急に事を運ぼうとはしなかったからだ。これはまだ元恋人と別れたことに立ち直っていないふりをしたリンジーが、そんなにすぐに結婚を考えなくてはいけないならロバートとは別れると言ったからなのだが。
ともかく、二人の交際は順調であると思われていた。
あまり女性に近づこうとしなかったロバートが、常にリンジーと共に舞踏会に現れるし、リンジーも以前より表情が明るくなったと言われている。二人はあまりダンスには参加せずに、おしゃべりに興じていることが多かった。彼らがどんな会話をしているのか、知りたがる人は多かったが、恋人たちの語らいを邪魔する無粋は社交界では嫌われる。彼らが期待されているような、ロマンス小説さながらの場面を繰り広げているのかどうか、確認できた者は幸いにしていなかった。
そんなロバートとリンジーの実際の会話とは、今ではほとんどがロバートの商売に関することなのだった。
「だから鉄道株にはもうそろそろ手を出すなと言ったのに、あの貿易商は見透しが甘すぎる。ギリギリで手を切っておいてよかったよ。リンジー、もし今後、父親が鉄道株を買おうとしたら、絶対に止めろよ」
「鉄道株が危ないなんて話は聞いたことないけど。絶対安全な株なのではないの?」
「絶対安全な株なんてあるわけないだろう。炭鉱夫だって鉄道株を持っていると言われている時代だぞ。もう既にどこの鉄道会社も危なくなってきている」
「どうしてそんなことになったの?」
恋人同士らしくないどころか、他人が聞いたら、そんな話を令嬢にするものではないと顔をしかめるような内容だ。
こんなところが、ロバートが女性と上辺だけの付き合いしかできない所以なのだが、それを指摘すべきリンジーは、本気で興味を持って話を聞いていたせいで、残念ながらそれに気づいていなかった。初めはロバートが好きそうな話題を出しただけだったリンジーなのだが、思いの外おもしろくてこんな話ばかりをしているのだ。
二人は偽装恋人としても、本物の友人としてもうまくいっていた。
ところがうまくいきすぎて、そこから困った事態に陥ったのはすぐのことだった。
周囲が二人はもうすぐ結婚すると思い込んでしまったのだ。
婚約しているわけでもないし、通常の交際から結婚に至るまでの期間を考えれば短いのだか、二人のそれまでの振る舞いと、現在の仲の良さがそう思わせてしまったらしい。
中にはリンジーが元恋人と婚約していたことこそが間違いだったと言う人もいれば、ロバートはずっとリンジーのことが好きだったから、女性と深く付き合わなかったのだと言う人もいた。
これではいくら何でも二人が別れた後に、ロバートの評判は落ちない、なんてことは言えなくなった。
むしろ恋人に捨てられた女性を慰めて惚れさせておきながら捨てた男として、この町での信用を失いかねない。
リンジーはかなり焦っていた。こんなことになるとは、ここまで人の注目を浴びるとは、思っていなかったのだ。ロバートに迷惑をかけたくはない。
誰にも迷惑をかけないようにするために、自分と恋人のふりをすることで、利点がありそうな人を探し出してあんな提案をしたのだから。
早急に対応を変えなくては。そう考えたリンジーは、ロバートにしばらく社交を控えると告げた。
「よくない噂が流れ初めているわ。このままいけば問題を起こさずに別れるなんて無理ではないかと思うの。段々わたしとあなたがうまくいっていないように見せかけましょう。それから別れれば大丈夫よ、きっと。あなたが悪いとは言われないはずだわ」
ロバートは目線を斜め上に向けて、リンジーの言葉に同意するべきか考えるような仕草をしてから「わかった」と頷いた。
それがあまりにもあっさりとした態度だったからなのか、リンジーは胸に小さな引っ掛りを覚えた。
二日後の昼過ぎ、リンジーは自宅の庭園をぼんやりと歩いていた。
普段ならもっと草花の様子をしっかり観察するのだが、どうも頭が違うことを考えようとする。
リンジーはすっきりしないものを抱えながら、自分の部屋の窓に目を向けた。出窓になっているそこには、ガラスの向こうに二瓶の花瓶がある。
その両方ともに、ロバートから貰った花束が挿してあった。植物に詳しいリンジーがきちんと手入れしているので、初めにもらった花束でさえ、ようやく枯れてきたところだった。
自然と口角が下がる。
「……もう少し何かないのかしら」
無意識に呟いた時だった。メイドに呼ばれてリンジーは振り返った。
「お嬢様、奥様がすぐにエントランスに来るようにと仰っています」
「すぐに? わかったわ」
なぜエントランスなのかと首を傾げつつ向かうと、リンジーはそこに思いがけない人物を見つけて驚いた。
「ロバート? 一体どうしたの?」
「近くまで来たから」
ロバートは包装のされていない紙の箱を差し出してきた。どうすればいいのかわからず、リンジーは目を瞬かせる。
「この前話していた毛織物商と契約が取れたんだ」
上機嫌で嬉しそうに言う。
「まあ、おめでとう!」
ロバートが長い間交渉を続けていると話していた相手だ。彼が苦労していたのを知っているリンジーは喜んだ。
「だからこれはお祝い」
箱を開けて中を見せられると、そこには軽そうな生地のショールが入っていた。
リンジーは戸惑った。くれるということなのだろう。しかしもうロバートがリンジーにプレゼントを渡す必要はないはずだ。
「……それならわたしがあなたにお祝いを渡すべきでしょう」
「別に僕が渡してもおかしくはないだろう。それにこれは試用品のうちの一つだ」
「そうなの……。ありがとう。なら大事に使わせてもらうわ」
迷ったがリンジーは結局受け取った。あまり笑わないロバートが笑顔でくれるものを断るなんてできなかったのだ。嬉しそうなところに水を差すのも嫌だ。
「ロバートさん、この後は何か急ぎの用事があるのかしら?」
それまで少し離れた場所で見守っていたリンジーの母親が声をかけてきた。
「いえ、急ぎというほどの用事はありませんよ」
「それなら二人で散歩にでも出ていらっしゃいな。せっかく家まで来てくださったんだもの。ねえ、リンジー」
リンジーが同意するに決まっていると思っている顔で彼女は提案する。
何を期待してこんなことを言うのかは明らかだった。結婚という言葉は使わないものの、彼女は二人がもっと親密になるようにと、いつも気を回している。
上手い断り文句を見つけられずに答えあぐねていると、同じく彼女にはまだ仲違いをしているように思わせるべきではないと判断したのか、ロバートが頷いた。
「……そうですね。では、少し出掛けようか、リンジー」
差し出された手を、リンジーは複雑な気持ちで取った。
しばらくすると、リンジーは友人や家を訪ねて来る夫人方から、ロバートと喧嘩でもしたのかと何度も尋ねられることになった。
このところずっとロバートと一緒に舞踏会や晩餐会に出ていたリンジーが、ぴたりと出席しなくなり、ロバートが一人で出ていることもあるのだ。しかもリンジーの体調が悪い訳ではないとくれば、予想通りに仲違いを疑われた。
ここですぐに喧嘩だと答えれば、また注目を浴びることになる。リンジーは否定も肯定もせずにお茶を濁した。
そしてそろそろ喧嘩だと肯定しようかという頃になって、何か様子がおかしいことに気がついた。
リンジーの周囲の人々はもうほとんどが、ロバートと喧嘩をしているのではと心配してはいないようなのだ。以前のように仲良くやっていると思っているのが態度でわかる。
原因はすぐにわかった。いや、むしろずっとこうなるかもしれない原因に気づいていた。
ロバートはあの後も何度かリンジーに会いに家まで来ているのだ。しかもその時には必ず何かちょっとしたものをリンジーに贈ってくれる。
そんな二人の様子をリンジーの母親が見ていれば、何の問題もないと思うだろう。そしてそれを周囲の人に話せば、ほとんどの人が喧嘩ではないのだと、あっさり納得したのだった。
振りだしに戻っている。
わかっている。リンジーだって悪い。
女性同士の繋りに詳しくないのであろうロバートは、きっと人前で会わなければそれでいいと解釈したのだ。
でもそんなわけがない。
リンジーがちゃんと言っておけばよかったのだ。
──プレゼントはもういらない。
──もう会いに来ないで。
そう言うだけでよかった。しかしそれはなぜか、リンジーにとってとてつもなく難しいことだった。
むしろロバートと一緒にいると、どうしてそんなことを言わなくてはいけないのかという気持ちが湧いてくる。
だが考えるまでもないことだった。
そうしなくてはロバートに迷惑がかかるからであり、そしてそれはリンジーとロバートが本物の恋人ではないからだった。
◇ ◇ ◇
「ロバート様がお見えです」
それを聞いた時、リンジーは庭園の中程にいて、自分の腕よりも一回り太い枝を抱えていた。
母親は出掛けている。執事はリンジーが着替えるまでロバートに待っていてもらうか、それとも今日は帰ってもらうかと尋ねる。
リンジーは少し考えてから決心した。
「ここまでお通しして」
いつも落ち着いている初老の執事が驚いて目を見開いた。
「今から、でございますか?」
「ええ、今すぐよ」
執事は微かにリンジーを非難する視線を向けた。しかし彼女が指示を覆らせる気がないとわかると、仕方がないというように屋敷へ戻って行く。
もう後戻りはできない。
作業を再開させたリンジーは、丸太の尖った部分をぐさりと地面に突き立てて高さを確認する。
リンジーが金槌を振り上げた時と、ロバートが庭園に入ってきたのは同時だった。
カーンと鈍い音がして、丸太が地面にめり込む。
「……何をしているんだ?」
「柵を作っているの」
呆気に取られているロバートに対して、リンジーは淡々と答える。彼が驚いているのは、きっとリンジーの行動に対してだけではない。
簡単に纏めているだけの髪はほつれが目立っているし、顔にうっすらとかいている汗にも張り付いている。服はリンジーが作業着と呼んでいるメイド服に似たもので、あちこちが土で汚れていた。手には園芸用の分厚い手袋を嵌めている。
ロバートはリンジーの趣味がガーデニングであることを知っている。だが、だからといって、リンジーのような階級の若い娘が、こんな格好で庭いじりをすることは絶対にない。
「庭師は……いや待て。いい。僕がやる。そんなものを振り回すな」
「駄目よ。手を出さないで」
リンジーが拒絶するように断ったせいだろう。ロバートは更に驚いて近寄ろうとしていた足を止めた。
「ようやく理想的な木材が手に入ったのよ。何度も完成予想図をスケッチして、位置を確認して、ここっていう場所と高さを決めたんだもの。わたしがやらなきゃ意味がないわ」
これまでにない熱意を感じ取ったのだろう。ロバートは庭園をぐるりと見渡した。
「……立派な庭だな」
「ありがとう。わたしが作ったのよ。その石レンガを敷いた通路も、わたしが石を埋め込んで作ったし、そこは何もない緩やかな坂だったけど、段差のある花壇にしたわ。あのカエデとシェーンベリーを植えたのも、剪定をしているのもわたしよ」
緊張しながら自分の手による成果を語っていたリンジーだが、段々と声に誇らしさが滲んでくる。
「木の剪定もしているのか?」
「ええ、大きな脚立に登ってするわ。木によじ登ることだってあるわよ」
リンジーはロバートをじっと見た。そして彼が次に言う言葉を待っている。
するとぽかんとしていたロバートは、くしゃっと表情を緩ませた。
「はは、予想以上だな」
屈託のない笑顔だった。
今度はリンジーがぽかんとする。
「令嬢にしてははっきりとした性格だと思っていたが、予想以上に規格外だったんだな」
今まで見たことのない反応だった。リンジーのこの趣味を知った数少ない人たちは、いつも二通りの反応しかしなかった。嫌悪感を見せるか、困惑するか。それが当たり前であり、常識であった。
リンジーに目を向けたロバートが笑みを消した。途方にくれたような彼女に、何かを悟る。
「君は……僕に嫌われたくて、その姿を見せたのか」
半信半疑の言葉は、リンジーの泣きそうな顔で肯定される。だがリンジーは首を振った。
嫌われるために言った。失望されて、こんなに常識のないおかしな女だとは思わなかったと離れてくれたらいいと思った。そのほうが、もう会いに来ないでと言うよりも簡単な気がして。
でも嫌われたかったわけではない。
「違う。……でも、変な女だと思ったでしょう?」
目の前ではそんな素振りを見せなくても、心の中では距離を置こうと思ったかもしれない。そんな疑いを持つくらいには、リンジーはいつもこの姿を知る人から嘆かれていた。
「確かに変わってはいるが……女性の趣味にしては変わっているというだけだろう。そんなに過敏になる必要はない」
ロバートは慰めるというよりは、理解ができないというように首を傾げる。
「でも皆、躍起になってわたしに止めさせようとしたわ。どうして花を育てるだけにしておかないんだって」
女がすることではない。何度も言われた言葉だ。中流上位階級以上に属する人間は固定観念に縛られすぎていた。
「初めは花壇の手入れをしているだけだったわ。でも段々、花や木を育てるだけじゃなくて、庭園そのものを自分の手で作ってみたくなったの。どこにどんな植物を植えればいいのか、空間の演出というものがどうやったら作れるのか、あらゆる景観を想像して、どれが一番美しいかいつも考えるようになったわ。庭師にお願いしてやってもらっても納得できないから、自分でやるようにしたの。独学だけどそれが楽しかったのよ」
リンジーの趣味は最早ガーデニングではなく、造園に近かった。
「これはわたしの生き甲斐なの。いつか絶対に止めなくてはいけないなら、この家にいられる間くらいは続けていたい。だからお母様に泣かれても、こっそり隠れてやっているの。お母様は気がついているでしょうけど、もう何も言わなくなったわ。結婚したらやめるのだからと思っているみたい」
寂しそうにリンジーは笑った。結婚しても続けられると思うほど楽天家ではなかったし、ずっと実家にいて養ってもらおうと思えるほど図太くもなかった。だからいつか結婚して、やめなくてはいけないのは、ちゃんと理解しているつもりだった。
「あの男と別れたのは、これが原因でもあるのか?」
元恋人のことだろう。ロバートは鋭い。
「わたしにとっては多分一番の原因だったわ。彼にとってはわからないけど」
リンジーは金槌を作りかけの柵に立て掛けた。
「婚約した後にね、見せてしまったのよ。どんな風に庭の手入れをしているのか。馬鹿なわたしは一縷の望みをかけてしまった。彼が結婚しても同じことをしてもいいってもしかしたら言ってくれるかもしれないと。でも彼は困った顔をしてから『結婚したら止めてくれるね?』って言ったわ。あれは疑問でも確認でもなく、強制だった。その時にわたしは、これからの人生が灰色に染まっていくことが決まったのだと思ったわ」
目を瞑ってリンジーは胸に去来した後悔をやりすごす。
「好きになる努力をするつもりだったわ。でももう、この人を好きになることは一生できないのだとわかってしまったの。彼は手紙だけでもそんなわたしの気持ちに気づいたのかもしれない。こうなってよかったけれど、もうこんな姿を結婚する相手に見せてはいけないのだということは理解できたわ。本当にわたしが馬鹿だった。……でも彼だって嘘を吐いたのよ。好きじゃなくても構わないなんて」
リンジーが彼と結婚の約束をした理由は、婚期を遅れさせることができるというものでしかない。だからそれが反故になっても後悔などない。後悔しているのは、受け入れてもらえるかもしれないと思って、この姿を見せたことと、彼の嘘を見抜けなかったことだ。
「好きな女から同じくらいの愛情を貰えないからって、他の女になびく男なんかさっさと忘れろ」
「未練なんかないわ」
「なら、いい」
ロバートの言い草がどこかおかしくて、リンジーは顔を上げた。いつの間にかすぐ近くに彼がいる。
「だったらもう、僕にしておけ。僕は君から生き甲斐を取り上げたりしない」
リンジーは絶句した。言われた言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「え?」
「だから僕にしておけ」
「……なんで、いきなり」
「いきなりか?」
とても嫌そうにロバートは聞き返す。
「まさか全く気づいていなかったのか? 何のために僕が用もないのに、毎回プレゼントを持って君に会いに来ていたと思っているんだ。オトそうとしていたに決まっているだろう」
「オトっ……! ええ?!」
リンジーは混乱しつつも、そうだったのかと心の隅で納得した。
確かにこの状況では、そんな理由でもない限り、ロバートがリンジーに会いに来るのはおかしい。ロバートは考えなしではない。
「で、でも、あなた女性が苦手でしょう」
「女性全般が苦手なわけじゃない。君が言ったように相性というものがある」
「……わたしとは相性がいいからってこと?」
困ったような悲しそうな顔をして、睨みながらリンジーは尋ねた。
それを見たロバートはなぜか笑った。
「それもある。でもただ急に思ったんだよ。もうこの先、君以上に一緒にいて楽しい女性は会えないだろうなって」
愛の告白というには熱がない。しかしロバートが言ったからこそ、リンジーの頬が徐々に赤くなる。
「リンジー」
更に距離を詰めて、ロバートはリンジーの顔を覗きこんだ。
近すぎて落ち着かなくなる。腕を組んだことは何度もあるのに。
「僕はそこそこ金持ちで、家業を継ぐことも決まっている。この町では地位もあるほうだ。それに君の趣味を止めさせようなんて思わない。好きなだけやればいい。いつかここよりも大きな庭園を作れる家だって買ってやる」
次々と自分の利点を挙げていくロバートが、何を言わせたいのかわからなくてリンジーは戸惑う。
期待と怖れが混合した目を向けると、ロバートは真面目な顔で尋ねた。
「君が僕を好きになるには、後は何が必要だ?」
一気に顔に熱が集まった。
なんてことを聞くのだろう。
しかし混乱していたリンジーは、思わず素直に聞かれた内容を考えてみる。
結論に至るのはあまりにも簡単だった。
「……ないわよ」
「何?」
「ないわよ、もう必要なものなんて!」
赤くなった顔を隠したくて両手で覆おうとして、汚れた手袋が目に入ったリンジーは手を下ろす。そっと窺うと、ロバートは唖然としていた。何なのだろう、その顔は。
だいたい「結婚する気になるには」ではなく、「好きになるには」だなんてずるい。
「それは、つまり」
「あなたが好きだということよ」
彼にばかり言わせるのが悔しくて、リンジーは遮るように続きを口にする。
僅かの間、ロバートは動きを止める。そしてふっと噴き出した。
「なんで笑うのよ!」
「いや、そっちこそなんでそんな挑むみたいな顔をして言うんだ」
「っ! してないわ」
自覚がなくはなかったが、本当にそんな顔をしていたのだとしたら、可愛いげがなさすぎていたたまれないので、リンジーは小声で否定した。
「そうか」
嬉しそうに納得したかのような返事をされてしまって、余計に情けなくなる。
「でも、あなただって、今までずっと恋愛なんて苦手だって顔をしていたのに、どうして急にあんなことを堂々と言い出せるのよ」
「そりゃあ、女性に対して臆病だなんて思われたら困るからだ」
「……うぅ」
リンジーが偽装恋人を提案した時に言っていたことだ。リンジー自身の言葉ではないが、揚げ足を取られたような気分になる。
「リンジー」
話を逸らすリンジーを嗜めるようにロバートが呼ぶ。両手で頬を包まれた。
今更ながらにリンジーは自分が汚れた作業着を着て、汗をかいていることに酷く慌てた。後ずさろうとするが、力を込められているわけでもないのに離れられない。
「ロバート、ちょっと一度着替えさせて」
「いいけど、その前に一つ確認しておかなくてはいけないことがある」
「何?」
一つだけならと、リンジーは先を促してしまった。
「君が結婚そのものに乗り気じゃなかったのは、これまでのような庭の手入れができなくなるからというだけか?」
「そうよ」
「じゃあ、結婚しても続けられるなら、嫌じゃないんだな? 時期を遅れさせようという気もないんだな?」
「……そうだけど」
とにかく自分の格好が気になっていたリンジーは、一つじゃなかったのかと思いながら、短く返事をする。
もういいかと聞こうとして目を合わせたそのタイミングでだった。
「じゃあ、僕と結婚することに何の問題もないな」
その後。
あんな格好でプロポーズをされたことに、リンジーはしばらく落ち込んでいたが、残念ながらロバートがそれに気づくことはなかったという。