唄う意味
8
奄民の部室を出てからも、英梨奈は絶えず厳しい表情を浮かべていて、明らかに李心に対して不満がある様子だった。李心は一歩前を歩く英梨奈の背中にむかって恐るおそるたずねる。
「あの、あたし、伝芸部に何かしちゃいましたでしょうか?」
「来ればわかるわ」
一瞬振り向くと、あとは黙ったまま廊下を進んでいく。二つの靴底のなる音だけが、李心の耳に重々しく届いていた。やがて、伝芸の部室の前に到着すると、英梨奈はドアを開けて李心を部室に招き入れた。彼女たちと入れ違うように、数人の部員が三線を抱えてこの日の練習場所である三階のリハーサル室へむかった。
李心は気まずそうに「失礼します」と小さな声で挨拶をして部室に足を踏み入れる。英梨奈は部室の一番奥、窓際においてあるソファセットのところまで進むと、李心が立っている扉口を振り返り手招きをした。ソファにはすでに先客が座っていて、李心がそばに立つと、彼女のまっすぐな長い黒髪がさらりと揺れて李心を見あげる格好になった。楚々とした愛らしい女の子と李心の目線が合い、お互いにあっと声を漏らした。
「と、泊さん!?」
「やっぱり犯人はリコだったのね」
「『やっぱり』ってどういうこと、エリ姉?」
「こっちがききたいわよ。私たちが勧誘していた泊さんが、やっと部室に来てくれたと思ったら、『唄あしびを見学に来ました』といって話が食い違うから、彼女から話を聞いたら今日の休み時間に、そういった部員の子が来たっていうじゃない。伝芸は、今日はまだ勧誘にいっていなかったし、もしかしてと思って、リコを呼びにいったのよ。リコ、あなたもしかして泊さんに自分のクラブ名いわなかったの?」
英梨奈に指摘されて、李心はようやく自分の犯したミスに気づく。清風が不思議そうに目を丸くして小首をかしげた。
「あ、いや……なんか、いきなり断られてしまって勢いに負けたというか」
「あなたは伝芸部ではなかったのですか?」
「うん。それまで勧誘に来ていたのは伝芸だったけど、あたしたちは奄民」
「奄民って、確か……」
清風が何かを思い出したような表情になる。これまで伝芸部が勧誘していたのだから、奄民は潰れたという情報が清風の耳に入っていたとしてもおかしくはない。
「うん、去年で部員がいなくなって潰れかけのとこ。今あたしたちで復活させようとしてるんだけどね」
「それで、なぜリコが彼女のことを勧誘しているのかしら?」
英梨奈の問いかけを李心は「なんでだろ?」と、苦笑いを浮かべてごまかした。英梨奈は軽くため息をつくと、李心に「とにかく、彼女は唄あしびが見たいそうだから、部室に案内してあげて」といって、扉口へと視線をむけた。李心はあたふたとしながら、「えっと、あたしたちの部室、こっちだから」といって清風を伝芸の部室から連れ出した。
ついさっき来た廊下を、今度は逆方向に李心は清風を連れて歩いていく。少し気まずそうな声で清風が李心に話しかけてきた。
「すみませんでした、私のはやとちりで。ずっと奄民は廃部になったと聞いていたので、まさか奄民の方だとは思ってもいませんでしたので」
「こちらこそごめん。ちゃんと伝えきれてなくて。自分のいいたいことを伝えるのに精一杯だったし、クラブ紹介に出たから、あたしが奄民だってわかってるつもりでいたよ。それはそうと……」李心が引きつった笑顔を取りつくろいながら、清風の後方に視線をむけると、そこには当然といった様子で英梨奈が歩いていた。「なぜエリ姉がついてくるのでしょうか?」
「あら、何か不都合があるかしら?」
「……いえ。ありません」
しゅんとして李心が視線を戻すと、英梨奈は前を歩く二人の背中にむけていった。
「泊さん、私はあなたの入部を諦めてはいないのよ。あなたの唄は伝芸部に、いえ、奄美の民謡界にとってなくてはならないものなの」
清風はその呼びかけに視線すら動かすことなく、李心が勧誘に行った時と同じ答えを繰り返す。
「私、民謡は唄いません」
「いえ、あなたは唄うべきよ。あなたが奄美民謡大賞の最優秀賞をとったのは何も偶然じゃないわ。それはあなたの唄のもつ力なの。あなたの唄は人を惹きつける力がある、そのことをもっと自覚するべきよ」
英梨奈がいうと、清風はその場に立ち止まって振りむきざまに声を荒げた。それは彼女の楚々とした様子からは想像もつかないぐらいにとげとげしく、しかしどこか哀しげな声で、その声色に李心は目のやり場に困って、清風からわずかに視線をそらせた。
「私よりも唄の上手な方はいくらでもいます。里先輩だって、去年の民謡大賞の青年の部で奨励賞を獲ったじゃありませんか? 民謡の未来を担っていきたいなら、先輩のような方たちが受け継げばいいんです」
「私は大賞はおろか、最優秀賞にも届かずに奨励賞止まりだったわ。あなたは自分の可能性も、奄美民謡の未来も諦めるというの?」
「私は民謡を唄うつもりはありません」
清風と英梨奈の間に重苦しい沈黙が漂う。李心はなす術もなく、二人の間でおろおろと視線を泳がせる。
清風は険しい視線を英梨奈に容赦なくむけているが、英梨奈はそれを正面から受け止めながら、はっきりとした声でいった。
「でも、唄あしびなら唄うのね」
「……いえ、見学です」
清風は一言で英梨奈との会話を打ち切ると、李心に「行きましょう」といって再び廊下を歩きだした。李心がちらりと英梨奈に視線を送ると、彼女は小さく息をついて、困ったような表情で、夕暮れの海辺に立つアダンの木のような寂しさを滲ませて立ちすくんでいた。李心は英梨奈以上に困惑したように「この状況で帰るの?」と口の中でつぶやいて、清風を追って背中を丸めて歩き出した。
三人の間の重い空気を引きずって部室にたどり着くと、李心は心なしか安心したかのようにほっと息をついた。部室の扉を押し開けると、中で心配そうな顔で待っていた碧と七海に自らの無事をアピールするように、小さく手をあげた。
「ただいま。お客さん連れてきたよ。こっち入って」
李心の手招きに応じて、清風が部室に入ってきて丁寧なお辞儀をした。続いて入ってきた英梨奈が清風の隣に並んで軽く会釈する。
「紹介するよ。こちらは泊清風さん。あとミドリは初めてだったよな。伝芸部の部長の里英梨奈先輩。で、こっちは部員のナナミとミドリ」
「ん? 初めてちゃうやん。昨日あしびばで……」
「ば、ばか! ミドリ!」
七海が慌てて割ってはいる。碧がしまったといった表情で口をおさえた。英梨奈は昨日のあしびばでの行動を思い出して眉をひそめたが、李心はそれを作り笑いでごまかした。
「と、とにかく泊さんが見学に来てくれたから早速練習しよう」
「あの、私は唄あしびを見たいのですが」
「ああ、そうだったな。それじゃあ、やろうか?」
清風と英梨奈に椅子をすすめると、李心も近くのパイプ椅子に座る。隣に碧と七海が並び、その対面に清風と英梨奈が座る恰好となった。
李心に伴奏を頼まれて三線を構えた七海だったが、その表情は不安に曇っていた。
「リコ、唄あしびっといってもミドリはまだ昨日ようやく一曲やっただけで、歌詞だって二、三節唄ったくらいで、まだ全然教えてないし」
「大丈夫、歌詞はあたしがいくつか書いてきたから」
そういって李心は制服のポケットから二つに折った紙を碧に差し出した。受け取った碧がその紙を開くと、まるで呪文のような文字が紙面を踊っていて、歌詞の意味はおろか、読み方すらもままならなさそうだった。碧はあからさまに不安げな顔を李心にむけたが、それを全く気にする様子もなく李心はいった。
「ミドリ。何も、うまく唄おうと思わなくていいから、楽しみながら唄おう。シマ唄は本来シマッチュの娯楽だったんだ。楽しくなければシマ唄じゃないってね」
どこかで聞いたことがあるようなキャッチコピーを振りかざして、李心は親指を天井にむけてつきあげた。しかし、緊張感に包まれた場の空気はたいして和まなかった。
「じゃあ、ミドリから順番に唄をまわそう。本当は『朝花節』からやりたいけど、まだミドリには朝花を教えていないから、『行きゅんにゃ加那』ね。じゃあ、ナナ伴奏お願い」
七海はうなずくと三線を構えて前弾を始める。弦が撥ではじかれるたびに、ぴんと張り詰めた空気が震えた。七海の左手が滑らかに棹のうえをはしり、人差し指と薬指が三本の弦を押しては離す動きを繰り返す。歌詞カードに目線を落としていた碧が視線を李心に送ると、李心はわずかに口元を持ちあげて、あごを引くようにうなずいた。
楽しく唄おう、自分にそういい聞かせて碧はゆっくりと息を吸い込む。
〽行きゅんにゃ加那 吾きゃ事忘れてぃ 行きゅんにゃ加那
出発ちや出発ちゃが 行き苦しゃ スラ行き苦しゃ
昨日、七海に教えてもらった歌詞、意味は確か別れの唄だった。唄いながら碧の脳裏にどこかの浜辺の風景がうかんでくる。
凪で鏡のように穏やかな海に小舟がうかんでいる。静かに繰り返す波の音、真っ白な珊瑚の砂がちりちりと音を立てて、波の満ち引きに合わせて踊るように行ったり来たりする。夕日を背景に旅装束の男が舟をこいで入り江をゆっくりと外洋にむけて進んでいくのを、波打ち際に立つ長い髪の女性がいつまでも見守っている。
夕暮れの海に吹く風が小舟を沖へ沖へと運んでいき、いずれその姿は水平線のむこうに消える。その時、二人は何を思っていたのだろうか……
数百年も昔にどこかで唄われた切ない恋心が、何世紀もの時を超えて今なお唄い継がれている事実に、碧はしばし心を奪われていた。誰が最初に唄ったのかすら、今ではもうわからないけれど、その時の景色や感情、匂いまでもが感じられる、そんな不思議な気分に静かに浸っていた。
「次、もう一回ミドリ!」
その声に碧がはっと我に返ると、李心と七海がそれぞれ一節を唄い終わり、再び碧に順番が回ってきていた。妄想の世界に飛んでいた碧は慌てて手にしていた歌詞に視線を移す。間奏が弾き終わろうとしていたが、碧はノートに踊る呪文のような歌詞を読み解けず、昨日教えてもらった他の歌詞すらも浮かんでこずに、うろたえた表情で李心のほうへ救いを求める視線を投げかけていた。
唄がとまる。
そう思った瞬間、碧の目の前に座っていた清風がすっと息を吸い込むかすかな動作に李心は気がついた。
「ナナ、続けて……!」
李心が小声で七海に指示をすると、彼女はうなずいて三線を弾き続けた。
その伴奏にぴったりと唄声が重なった。
〽懐かしゃや 道弾き三味線ぬ 懐かしゃや
刀自うらん青年んきゃぬ三味線だろ スラ三味線だろ
注解:道を歩き三線を弾く音が懐かしい。
あれはまだ独身の青年の三線の音に違いない。
碧も李心も、三線を弾く七海さえも清風に注目していた。確かに今、清風が唄をつけたのを聞いたのだ。民謡は唄わないと頑なにいっていた清風の唄声が、部室を静かに満たしていった。それは、まるで小さな花が一面に咲き誇るような、可憐でいてどこか力強さのある美しく澄んだ声だった。
清風の唄が終わると、さらに続けて唄声が響く。今度は英梨奈が唄っていた。
〽遊びばよ 汝きゃ吾きゃゆらとてぃ 遊びばよ
遊ばらん友人んきゃぬ 嫉妬しゅり スラ嫉妬しゅり
注解:私とあなたが遊んでいると
遊べない友人たちが嫉妬するのです
意外な参加者に李心は呆然と英梨奈を見つめていた。初心者むけの唄いやすい唄であるにも関わらず、英梨奈の唄声は、まるで水が流れるように形をとらえることができない、洗練されたまさに非の打ち所のない美しい節回しだった。
英梨奈が唄いおわり、全員がひと回りしたところで、ふたたび碧が最初に唄ったものと同じ歌詞を唄い始めた。
「さっきとおんなじ唄?」
李心の言葉に碧は「これしかわからんし!」と早口で返事をして、かまわずに唄を続ける。けれど、彼女の顔いっぱいに溢れる感情は、昨日までの練習の時の小難しそうなものとは違って、今まさに、この奄民に入部してから初めてシマ唄を楽しんでいるような、そんな興奮した色を浮かべて、言葉通りにきらきらと輝いていた。
碧のそんな様子に、李心は最初に自分がいった言葉を思い出す。
うまく唄わなくていいから、楽しく唄おう。
碧は李心がいったことを実践しているのだ。では、自分はどうだったのかと李心は自問する。伝芸部ではなく、奄民を復活させて唄あしびをやるんだ、と息巻いていた理由は何だったのか。
一生懸命に唄を練習することは大切だ。
例えば舞台でより多くの人に聞かせたい、唄を届けたいと思うならば、最低限でも他人が聞きうる唄を唄わなければいけない。けれど、そのためには長い時間をかけて練習をし、誰かに唄の指導をうけたり、時には自分の唄を矯正されることだってある。
それでも上手くなりたい人は、それを受け入れて自分のものにして上手になっていくだろう。
それは特段、良いことでも悪いことでもないと李心は思っている。少なくとも、李心だって人から上手だと褒められて嫌な思いはしない。けれど、李心が思うシマ唄は舞台の上ではなく、もっと生活に近いところにあった。
ばあちゃんと座卓を囲んで、おしゃべりをしながら唄うシマ唄。李心のシマ唄の原点はそれだった。
だから、そのシマ唄を李心は守りたいと思ったのだ。李心が守りたいのはシマ唄そのものではなく、シマ唄のある風景。李心が奄民でやりたかったのは、それなんだ。
李心の全身を電気ショックのような衝撃が駆け巡り、その瞬間に李心の思考は完全にシマ唄で埋め尽くされた。次々と唄いたい歌詞が溢れるように浮かんでくる。
放課後の廊下には三味線と手拍子の音、少女たちの楽しそうな唄声が、奄美の美しい浜辺に寄せては返すさざ波のように、止まることなく響き渡った。
9
『行ききゅんにゃ加那』を唄いはじめてから二十分近くたってから、ようやく演奏が終わり、李心は大きな吐息をつきながら、椅子の背もたれに体重を預けた。
「なんか、久しぶりにたっぷり唄ったな」
「うん、ホンマやね。あたしほとんど同じ唄しか唄えへんかったけど、でも何か楽しかったし、ちょっと上手くなった気がする」
碧は思い切り破顔すると、正面に座っていた清風にその笑顔をむけた。清風もそれにつられて、まるで封印を解いたように頬を薄いピンク色に染めて、こぼれるような喜びの表情をにじませた。
「ええ、なんだか自由に唄えるっていいですね。ぜひ、他の唄もやりましょう。次は何を唄いますか?」
声を弾ませる清風とは対照的に李心と七海は表情を翳らせた。お互い苦笑いをむけると、清風に申し訳なさそうにいった。
「泊さん。実は、ミドリは昨日入部したばかりで、唄あしびといってもみんなで唄えるのはさっきの『行きゅんにゃ加那』だけなんだ。だから、ミドリは見学してもらって、残りのメンバーで他の唄を唄うことならできると思うけれど」
七海は清風の気分に水を差すようで心苦しいといったように、足元に視線を落とした。一瞬の静寂が部室の中を満たす。
「そうですか。では、仕方がないですね」
一瞬、悲し気な表情を見せたと思ったら、それが幻であったかのように、気品のある笑顔を浮かべて「では、私はこれで失礼します」といって清風が席を立とうとしたそのとき、碧が彼女を引き止めるように声をあげた。
「待って! まだやろう。あと一曲だけやけど、もう一回みんなで唄おう!」
碧はわずかに口元をつりあげて、かすかな自信をのぞかせていた。清風は立ち上がろうとした姿勢のまま、碧を見つめていたが、やがて小さく「はい」と返事をして、もう一度椅子に腰を掛けた。しかし、七海の顔にはまだ碧に対する懐疑の色は消えていない。
「でも、ミドリ、そんなこといっても、まだ練習だってまともにしてないのに?」
「うん、まだ下手くそかもしれへんけど、そんなことは今は関係ないやんね? コンクールの演奏とは違うし、それに、泊さんが楽しく唄えるならそのほうがいいやん? だって今、泊さんの方から『唄おう』っていってくれてんもん。『唄いません』が『唄おう』に変わるって、凄いことやん?」
李心も七海も、英梨奈ですらその言葉にハッとさせられていた。
碧は立ち上がり、ケースから昨日手に入れたばかりの自分の三線を取り出して、ふたたび着席する。部室にいた全員の視線が碧に集中していたが、そんなことは気にも留めずに碧は三線を太もものうえに乗せて、調弦をはじめた。そのとき、清風の顔にわずかに驚きの色が浮かんだことを、誰一人気づくことはなかった。