顧問を探せ
1
李心たちが奄民を再結成すると決意した翌朝、李心と七海が教室で談笑していると、ばたばたと大きな足音を響かせながら、碧が教室へ飛び込んできた。一直線に李心の席に駆け寄ってくるなり、碧はA4サイズの紙を彼女の机のうえに、バンッと音を立てながら豪快にたたきつけた。入部届と題された用紙には大きく『奄美民謡研究部』の名称が書き込まれていた。李心が見上げると、碧は階段を全力で駆け上がってきたらしく、肩で大きく息をしている。
「リコちゃん! あたしシマ唄やりたい! はい、これ入部届!」
「お、おぅ……どうした、急に? 入部してくれるのはうれしいけど、軽音楽部はもういいのか?」
「うん、あたしもメグミさんみたいな唄を唄いたくて」
「メグミさんって?」
李心は訳が分からず眉根を寄せるが、そんなことはお構いなしと、碧は遠くを見つめるようにして手を組んだ。その瞳がうっとりと憧れを含んだ色に滲む。
「昨日家の近くの海岸で夕日を見てた時に偶然出会ってんけど、ヨイスラーとかスラヨイーみたいな感じの唄を唄ってくれて、それがもうすっごい綺麗で……」
「それで、知ってる人なの? そのメグミさん」
七海が興味深そうな視線を送ったが、碧は静かに首を左右にふった。
「ううん、全然。初めて会ったんやけど、不思議なことにメグミさんはあたしのこと知ってるみたいに、前に奄美に来たことあるでしょ? っていい当ててん。すごくない? ただ、前に来たときは小さかったからあたしはそのこと全然覚えてへんねんけど」
「なんだか怖いね、その人。怪しくない?」
明らかに胡散臭そうといわんばかりにたずねる七海だったが、碧は意に介さずにこたえる。
「すごい優しそうな人やったから、怪しい人とちゃうと思うけど」
「まあ、それはともかく、ミドリが入部してくれたから、あと一人だな」
李心は人差し指をぴんとのばして天井を指さすと、碧が叩きつけた入部届をクリアファイルに挟み込んだ。そこで思い出したように碧がたずねた。
「そういえば、その入部届ってどうするんやっけ?」
「ああ、この部活動継続申請書と一緒に顧問の先生に提出するみたい」
昨日、生徒会長から受け取った申請書を碧の前に掲げてみせる。ふぅん、と気のない返事をつくと碧が続けてきいた。
「それで顧問の先生って誰なん?」
李心と七海は顔を見合わせて、同時に首をかしげた。どうやら二人とも知らないようだった。
「あとでもう一度、生徒会室に行ってみるか……あの生徒会長苦手なんだけどな」
李心が頬を指でかきながらぼやいたが、結局、放課後に三人で生徒会室に行こうということになった。
2
生徒会室と表示されたプレートの扉の前に立った李心は、気乗りしないような動作でゆっくりと扉をノックする。「どうぞ」と中から声がして李心は扉をそっと開けて中に入った。中では眼鏡をかけた女子生徒と小太りの男子生徒が座って何やら事務作業をしている最中だった。目が合った途端、「あっ」と女子生徒が声を漏らした。引きつった愛想笑いを浮かべて、李心は会釈をする。彼女はクラブ紹介の時に、舞台袖で李心が強引にマイクを奪い取った相手だった。
「その節はどうも、奄美民謡研究部ですが、すこし調べてもらいたいことがありまして……」
「はい、何でしょう?」
例の眼鏡の女子生徒の方が応対する。特に嫌悪されている様子もなく李心は安堵した。
「クラブの顧問の先生を知りたいのですが、わかりますか? あたしたち活動を再開したばかりで、上級生がいないからまだ何もわからなくて、それで生徒会に聞けばわかるかと思って来たんですけど」
「ちょっと待ってくださいね」というと女子生徒はキャビネットからクラブ活動申請書類と書かれた分厚いパンチファイルを引っ張り出して、テーブルのうえに広げる。眼鏡のブリッジをくいと持ちあげ位置をなおすと、見出しを指でなぞっていく。
「奄民は……と。あった」
見出しに『奄美民謡研究部』の名称を見つけ、そこにナンバーリングされている番号の書類をめくって検索すると、彼女は開いたファイルを李心たちのほうに差し出した
「どうぞ、昨年の申請書類ですから、おそらくまだ変わっていないと思います。一応、再結成ということですから、念のため顧問の先生に声をかけておいたほうがいいでしょうね」
見出しに『奄美民謡研究部』と大きく名称が記載されており、そのしたに活動目的、活動予定日と並んで顧問の名前が記されていた。
『泊巌』
「中国人?」
碧は顔をしかめて首をかしげた。
三人は生徒会にお礼をして部屋を後にすると、その足で職員室にむかった。放課後の廊下は雑多な音であふれかえっているのに、ひと気が少ない不思議な空間だった。窓の外、一階のテニスコートでは、テニス部の新入部員たちが、コートのそばで並んでラケットの素振りをしている。今年も大漁。この南高でも人気のある部活を一瞥して、李心たちは廊下を歩いていく。
「あれでトマリイワオって読むんやね」
あるきながら碧が李心に話しかけると、あきれたような声で返事が返ってきた。
「高校生なんだからそのぐらい知っておけよな」
「リコもイワオよめなかったくせに」
李心がいったそばから、七海によって的確な指摘が深々と突き刺さる。李心はそれを聞こえないふりをしてやり過ごした。
「それにしても、なんか怖そうな名前の先生やな。生徒指導とかやってそうやね」
職員室を目の前にして、碧の士気は下降線をたどっていた。まったく気乗りしていない様子で七海のほうを振り返る。
「別に悪い事をしているわけじゃないんだから、誰が出てきても問題ない、と思う」
そういったものの、つい昨日の放課後、職員室で担任の山田教諭に大目玉をくらったばかりだったことを思い出し、七海の気分もコンクリートブロックのように重くなった。
「ま、今日はとにかく会って挨拶と入部届渡すだけだからな。なるようにしかならないし、深く考えずにてげてげでいこうよ」
気の重そうな二人に対して、李心は能天気に笑って職員室のドアをノックする。ガラリと音を立てて中に入ると、そっとあたりの様子をうかがった。
放課後の職員室はあわただしい空気に満たされていた。書類を抱えて右往左往する若い事務職員、電話対応に追われている教員は、確か英語の授業で見た気がする。皆が忙しそうにする中で、誰に声をかけたらいいのかとタイミングを計りあぐねていると、ちょうど李心の近くを一人の男性教諭が通りかかった。一見して年も若く、眼鏡をかけた顔が優しそうだったこともあり、この人ならば、と李心の直感でその男性教諭を呼び止めた。
「あ、あの、すみません。一年二組の南ですけど、泊先生はいらっしゃいますか?」
「えーと、泊先生は二人いるけど、生徒指導の泊先生でいいのかな?」
三人はぎょっとした表情を浮かべ、李心がすぐに言葉をつなげる。
「あの、イワオ! トマリイワオ先生です!」
「泊巌なら僕だけど、何か?」
ぎょっとした表情が一転、李心と碧の瞳が大きく開かれ二人は顔を見合わせた。
「ええぇッ!?」
「全然イメージ違った!」
大声を出した二人を、七海が慌てて諫めるも時すでに遅し。彼女たちは職員室で業務をしていた教師たちの注目を浴びていた。一年二組の担任、山田教諭から氷の矢の如く冷徹な視線を感じて、七海は顔をそむけた。
突然、降ってわいたような騒ぎに巌はうろたえるようにして、「とりあえず外に出よう」と、三人を廊下に連れ出した。廊下で三人と巌は対面するように並ぶと、巌は腕組みをしてため息まじりに三人に切り出した。
「それで、なんだかがっかりさせてしまったみたいだけど、僕に何か用事?」
「がっかり半分、安心半分です」
「はぁ?」
李心が真面目な顔で答えるのと対照的に、巌は困惑の表情を浮かべた。
「あの、わたしたち奄民の入部届を持って来たんです!」
七海が本来の目的を巌に告げて、三人分の入部届の入ったファイルを差し出した。巌は入部届を受け取ると、ようやく要領を得たように三人に視線を巡らせた。
「ああ、君たちか。クラブ説明会のステージを乗っ取ったという噂の生徒は。職員室でも話題になっていたよ。まあ、褒められてはいなかったけれどね」
穏やかな表情でそういう巌を見て、奄民の再結成に関して否定的ではなさそうだと感じ、李心たちはひとまず胸をなでおろした。しかし、書類をめくって確認していた巌の表情が僅かに硬くなった。
「あれ、入部届は君たち三人分だけ?」
「はい、今はまだこの三人しかいませんけど、今月中に必ずもう一人探します」
巌の問いに李心がはっきりと大きな声でこたえる。それに対して、七海は肩を小さくして上目遣いで巌を見ながらおずおずとたずねた。
「ちなみに、もしも部員が集まらなかったらどうなりますか?」
「まあ、規則上は廃部、かなぁ……」
ちょっと自信なさそうに親指と人差し指であごを触りながら巌がこたえた。
七海が足元に視線を落としながら「やっぱりそうですか」とつぶやくと、巌は「まあ、多分大丈夫だよ」と妙に明るい声で根拠のない励ましを送り、「では、これは預かっておくので、あと一人集まったらもう一度、僕のところまで来てください」と言い残して、職員室へ戻っていった。
その場に残された三人はお互いに顔を見合わせて、安堵したように大きく息を吐き出した。
3
ぐるりと部室の中を見渡し「おおー、ここが奄民の部室なんや!」と、碧が感嘆の声をあげた。昨日掃除をしたばかりなので、部室の中はきれいに整っていた。
三人は職員室で巌に入部届を渡した後、そのまま部室の鍵を借りると、碧を連れて特別教室棟一階の部室までやってきた。
李心と七海は適当に近くの椅子に座ると、楽器ケースから自分たちの三線を取り出して弦の音の調整を始めた。調子笛と呼ばれる調弦用の音を出す笛を吹きながら、七海は何度も弦を弾いて、左手でカナクリを微妙に調整していた。
「顧問の先生、怖そうな人じゃなくて良かったね」
「そうだな。イワオなんて、たいそうな名前つけてるから、どんな人かと思ったけど。ガンちゃんって感じだったな。ガンちゃん先生」
「あはは、ガンちゃん先生か。そんな感じだね」
七海が乾いた笑い声をあげて、李心に返事をする。二人の様子を眺めていた碧が「さて?」と独り言のようにいった。その声に李心と七海が顔をあげて碧をみつめる。
「あたしは何から始めたらよろしいでしょう?」と、碧は率直な疑問を二人に投げかけた。李心は七海の方に視線を送ると「どうしよ?」と短く質問した。七海は困ったように眉尻をさげてため息をつく。
「ミドリ、まずは唄を覚えるところから始めるといいよ」
七海がそういうと、碧は授業中には見たことがないぐらい、指先まできれいに伸びた手をびしっと挙げた。
「はい、はいっ!」
「はい、ミドリさん!」
李心が人差し指で指名する。
「あたし、よいすらー、ていうやつ教えてほしいんやけど!」
「よいすら節か……」
七海が軽く握った右手で口元を支えるようにして考えこんだ。その様子を見た碧の表情がわずかに曇る。
「やっぱり難しい?」
「いや、唄自体は初心者むけだけど、キーが高いからな」
「最初はやっぱり『行きゅんにゃ加那』がいいかな」
「うん、わたしもそう思う」
李心の提案に七海も同意したように大きくうなずく。一方の碧は謎の言葉に首をかしげた。
「いきゅん、にゃかな?」
「うん、奄美を代表するシマ唄だよ。シマッチュならたいていの人は唄えるんじゃないかな?」
そういうと七海は鞄からノートを取りだして一枚ちぎると、丁寧な文字で歌詞を書き綴っていく。碧は七海から歌詞を受け取ると、早速書かれた文字に目を通した。しかし、十秒もたたずにギブアップして、七海にすがるような視線をむけた。
「何を書いてんのか、全くわからへんのやけど……」
「シマ唄は奄美の島口、つまり昔の奄美の言葉で唄うんだ。だから歌詞も当然島口だし、発音の仕方なんかも普通語とはちょっと違ってくるんだよ。まぁ、おいおい覚えていくと思うけど」
「そんなもん? 全然覚えられる自信あれへんけど?」
「平気平気。実際に唄うのが一番早く覚えられるから、早速やってみよう。わたしの後に続けて真似して唄ってみて」
そういって七海は碧とむかい合わせに座りなおした。背筋をぴんと伸ばして、軽く咳払いをする。一度息を吐いて、ゆっくりと吸うと、三線の伴奏なしで唄いはじめた。
〽行きゅんにゃ加那 吾きゃ事忘れてぃ 行きゅんにゃ加那
出発ちや出発ちゃが 行き苦しゃ スラ行き苦しゃ
注解:あなたは私を忘れて行ってしまうのですか?
旅だったもののどうにも心が苦しいのです
「……うったちーやうったちゃーがーいーきーぐーるしゃ、すーらいーきぐーるしゃ……」
「うん?」
碧が唄いおわる前に、李心がの顔に軽い驚きの表情が浮かび、それを視界にとめた碧は「あれ? やっぱりなんかおかしい?」と、不安そうに李心と七海の間で視線を往復させたが、李心はそれを否定した。
「いや、フツーに唄うまいなと思って。ミドリ、そういえば文化祭でバンドかなんかやってたっていってたよな?」
「う、うん……まぁ、ちょこっとだけね」
碧は言葉を濁すと「ナナちゃん、もう一回やろう」といって七海との練習を再開した。
李心はしばらくその様子をじっと観察していた。ときどき碧の視線が李心にむいたが、李心がまっすぐに碧を見つめ返していると、碧は気まずそうにぷいと視線をそらした。
碧がひと節を一人で唄えるようになったところで、「ちょっと休憩しよう」と七海は背伸びをして椅子の背もたれに体重を預けて休憩を宣言した。
「ミドリ! ちょっと三味線を構えてみせてよ」
李心が突然大声をあげたので、碧はビクッとして李心の方に顔をむけた。李心の顔には怪しげな笑みが浮かんでいる。
「え、別にいいけど、多分、弾かれへんで?」
「いいから。ナナ、ちょっと三味線貸してもらっていい?」
七海は了解したようにうなずくと、テーブルのうえに置いてあった自分の三線を碧の前に差し出した。「ありがとう」といって、碧は七海から大事そうに楽器を受け取る。艶々とした棹は丁寧に磨かれた工芸品のように、碧の手の中で美しい木目を浮かびあがらせていた。七海が碧の正面にかがむように座ると、三線の構え方を細かく指示する。
「左手で棹の部分を持って、太鼓は右の太もものうえに。お腹に三線がくっつかないように、にぎり拳くらいの間をあけてね。この蛇皮が響いて音がなるから。それで、この竹撥は右手の中指と人差し指の間に挟む」
七海は割り箸ぐらいの長さのある細くてしなやかな薄い竹製の撥を碧の右手の指の間に挟むと、人差し指と親指をぐいっと曲げる。
「撥の先の方を人差し指と親指で輪っかにして挟む」
「これでいい?」
三線を構えて座る碧を見て、七海が「おおー」と感嘆の声をあげた。なかなか様になっている。碧の頬がうっすらと桃色珊瑚のように染まる。一方、李心は納得がいったといったふうに、したり顔でいった。
「ミドリ、やっぱりギターか何か弾いたことあるだろ?」
「なんでわかんの⁉」
碧が目をまん丸にして驚いた。どうやら図星のようで、口をあんぐりと開けたまま李心を見上げていた。すると李心は自分の三線を持ってきて、碧の横に並んで座ると、同じように三線を構えてみせた。
「奄美の三味線はこうやって、親指と人差し指の間の部分に棹を乗せて弾くんだけど」李心は棹を持つ左手を軽く開いて見せる。「ミドリの場合はこう」
左手の位置と角度が変わったように見えたが、碧には違いがよくわからなかった。眉根を寄せて李心の構えを観察する。
「ギターとかの弦楽器弾く人って、親指と人差し指で棹を挟むように構えるんだよ。ネックが太いから、そうしないと指が届かないってわけ。それが身についてるってことは、中学の文化祭のとき、もしかしてギター弾いてたかなって思ったんだ」
李心は構えた三線で出鱈目にギターをかき鳴らす仕草をする。碧は少し考え込むと、観念したように「笑わないでよ」と念押しをして自分の鞄からスマートフォンを取り出し、画面に指を滑らせて何度か操作をすると、その画面を二人にむけた。
「どれどれ……」
画面いっぱいに青白い光を映し出しているディスプレイをのぞき込むと、李心は「ブッ!」と盛大に噴き出した。
「え? 何?」
近寄る七海に李心が、「これ」といって碧のスマートフォンの画面をむける。それは碧が赤いギターをさげて、メンバー全員と苦虫を噛み潰したようなしかめっ面で、中指と薬指だけを折った両手を胸の前で交差しているポーズとった集合写真だった。
「これ……何?」
「中学の文化祭で友達とマキシマム ザ ホルモンのコピーやったときの写真」
「ゴリゴリやないかい!」
李心は関西弁でツッコミを入れるとお腹を抱えて笑い転げた。
「やっぱり笑ってるやん!」
碧は不機嫌そうに李心からスマートフォンを取りあげると、頬を膨らませて二人に文句をいった。李心は目元の涙をぬぐいながら碧をフォローするようにいう。
「ごめんごめん。でも、ミドリが楽器も唄も問題なさそうってことが分かって良かったよ」
「ゴリゴリだけど」
七海の言葉にふたたび李心は自分のふとももをたたきながら大笑いした。部室に響く笑い声の中、「やっぱり辞めてやる……」と、碧は子供のように拗ねたような表情を浮かべていた。
ひとしきり大笑いをした後、李心が呼吸を整えていった。
「冗談はさておき、シマ唄やるならミドリも三味線を買わなきゃいけないな」
「その三味線って高いの?」
「練習用なら二万円くらいから買えるけど、多分すぐにもっといいものが欲しくなると思うよ。なんなら今から早速見に行ってみないか?」
李心の提案に、碧はさっきまでのふてくされた態度が嘘のように目を輝かせた。
「行く! 行きたい! 行きます!」
「よし、それじゃ早速行こう!」
李心たちは部室の片付けもそこそこに、三線をケースにしまうとそれを背中に背負った。碧も通学鞄をもって李心たちについて校舎を後にする。グラウンドは相変わらず運動部員たちの熱気に覆われていて、四月の穏やかな風がグラウンドに立ち込めていた運動部員たちの熱を拭うように吹き抜け、エントランスを歩く李心たちのスカートの裾をなびかせた。