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ハレかな! 〜いもーれ★奄美民謡研究部〜  作者: 麓清
第一話 神の引き逢わせに
5/20

夕暮れのシマ唄

  9


 特別教室棟一階、まっすぐに伸びた廊下の左右の壁には無機質な白い扉がきれいに整列していた。その扉に各クラブが特徴的なポスターや飾り付けを張り付けて、いくぶん華やいだ様子をみせている。その中に二人は「奄美民謡研究部」の部室を見つけ、職員室から盗み出すようにして借りてきた鍵を差し込みひねる。軽い手ごたえがあり、鍵が外れたのが分かった。

 部室の扉を開けると埃っぽいにおいが二人に襲いかかる。李心が舞いあがる埃を振り払うように、顔の前で手のひらを左右に振り、慌ててグラウンドに面した窓を開けた。外からはランニング中の運動部のお決まりのかけ声が飛び込んでくる。

 おそらく去年の秋に三年生が引退後、だれもこの部室に立ち入ることがなかったのだろう。部室の中央に置かれたテーブルのうえにもうっすらと埃が積もって、部屋中のあらゆるものの色が鈍くくすんでいる。

「わたし掃除道具借りてくるよ」といって七海は部室を出ていく。程なくして、ほうきと雑巾の入ったバケツをもって戻ってきて、李心にむかって雑巾を差し出した。

 小さく息をついて制服のブレザーを脱ぎ、パイプ椅子の背もたれにかけると、李心は七海から雑巾を受け取り目につく場所の拭き掃除をはじめた。一方、七海はほうきで部室を隅々まできれいに掃いていく。あっというまに大きな綿埃がいくつも出来あがり、舞い上がる埃が窓から差し込む光を反射して、その場所に小さな宇宙を形作った。

 春とはいえ、空調のない室内には不快な熱気がこもり、李心は雑巾がけをしながら、制服のブラウスの袖口で何度も汗をぬぐった。

 なんとか掃除がひと段落するころには、部室の窓が柔らかな黄金色に染め上げられていた。


「とりあえず、終わったな」


 李心が雑巾を放り出してパイプ椅子に腰かけた。


「もう、リコ。最後までちゃんと片付けしないと」


 あきれた声をあげて七海はテーブルのうえに放られた雑巾を取りあげると、バケツで丁寧に洗って固く絞り、「水を捨ててくるよ」といってそのバケツを持って部室を出て行った。


「あと二人……か」


 何もない空間を見つめて李心はつぶやく。今日の説明会を見て入部してくれる新入生は何人いるだろう。そう思うと、途端にあと二人という言葉が重く肩にのしかかり気分が滅入った。李心の独り言を聞いていたのかはわからないが、部室に戻ってきた七海が李心に話しかけた。


「やっぱりミドリに何とか入部してもらいえないかな」 

「それでもあと一人。何とか今月中に探さないと」


 李心が腕をくんで唸っているとコンコンと部室の扉をノックする音が聞こえた。ぱあっと李心の表情が明るくなる。李心は立ちあがると、猫のようにしなやかな身のこなしでドアノブに飛びついた。


「はーい! いもぉー」部室の扉を開ける。「れ⁉」


 と、李心の動きがピタリと止まった。

 扉の外には伝統芸能部の部長、英梨奈が腕組みをして立っていた。機嫌の良い表情ではなさそうだった。ドアノブに手をかけたままの李心と腕組みしたまの英梨奈の間で、重く静かな時間だけがぐるぐると渦を巻いて沈んでいった。


「里先輩!?」


 七海がぎょっとして驚きの声をあげる。英梨奈は特に遠慮する様子もなく「お邪魔するわよ」とだけいって奄民の部室へと一歩足を踏み入れ、ぐるりと部室を見渡した。沈黙を破るように恐るおそると李心が英梨奈にたずねる。


「あのぉ、何かご用ですか……?」

「てっきり、リコは伝芸に入ってくれるものだとと思っていたけれど。どうして奄民なの?」


英梨奈は不服そうな声色で質問を投げかけた。李心は返事を返すことなく、唇を結んでただじっと黙ってうつむいていた。

 七海は戸惑いながら二人の間で視線を泳がせた。李心と英梨奈が昔からの知り合いだということ以外、七海は詳しく聞かされていなかったし、あえて聞こうとはしなかった。しかし、いつもと違う李心の様子を見て、きっとこの二人の間にこれまでに七海が知らない事情が横たわっているのだろうということだけは容易に想像がついた。

 李心に対して何か声をかけなければ、と七海が思ったその瞬間、李心はものすごい勢いで腰を直角に折って英梨奈に頭をさげ、その姿勢のままはっきり力強くいった。


「ゴメン、エリ姉。エリ姉の唄は本当にすごいと思うし、あたしはエリ姉の唄も好き。だけど……あたしはやっぱり、奄民でばあちゃんの唄を唄う!」

「伝芸ではその唄は唄えないということ?」


 それをいわれると、李心にはっきり否定はできる要素はないと気づく。そもそも李心は数分間のクラブ見学にしか行っていない。李心は自分が伝芸を選ばなかった本当の理由を、英梨奈に伝えるつもりはなかったし、例え伝えたところで誰のためにもならないとわかっていた。ただ李心も英梨奈もほんの少しだけ心を痛めて、またお互いの距離を測るだけだとわかっていた。

 口を真一文字に結んで沈黙する李心に対して、先に口を開いたのは英梨奈のほうだった。


「もしかして、あのことをまだ気にしているの?」


 あのこと、と英梨奈はいった。それだけで英梨奈が李心に何をいおうとしたのか、李心には十分すぎるほど伝わっていた。三年前、最後に英梨奈と交わした言葉が何であったのか、李心は思い出していた。英梨奈と再会するまではほとんど記憶の奥底にしまい込んでいた、苦い思い出を、おそらく英梨奈も同じように三年間抱えていたのだろう。

 李心は顔をあげるとまっすぐ英梨奈を見据えた。英梨奈の表情にはさっきまでの不満は消えて、代わりにどこか気に病むような悲しげな視線を李心に向けていた。


「あのことは伝芸部やエリ姉とは関係ないし、エリ姉がいるから、伝芸部に入らないというわけじゃない。あたしは、自分の好きな唄を唄いたい、ただそれだけじゃだめ、かな」

「ばかみたいね」


 英梨奈の口から出た言葉に、はっとして李心は目を見開いた。


「奄美のシマ唄なんてみんなそれぞれ違って当然でしょ。本来、誰か一人に合わせる必要なんてないし、ましてや誰かに気を遣って唄うなんておかしいと思わない? だから、私はちゃんと個人の唄を尊重しているつもりよ。リコが大切にしているカサン節だって。伝芸部で唄い継いでくれたら、それがいいとも思っているわ。それでも、リコは私たちとは一緒にやるつもりはないの?」

「ごめん、エリ姉。そうだとしてもあたしは、ナナたちと奄民でシマ唄を唄う。必ず奄民を復活させて、あたしたちが大切にしたいと思う唄を唄いたい。ただ、エリ姉がそう思ってくれていたことが、あたしは嬉しかった。ありがとう」


 李心は穏やかに、しかし今までになく力強い声でまっすぐに英梨奈を見つめて答えた。英梨奈がこの部室に訪れてからはじめてその表情を緩めたのが見てとれた。これまでの緊張した面持ちとは一転、切れ長の目に浮かぶ優しい眼差しだった。


「せっかく奄民復活させるのだから、また奄民が潰れたりしないように、しっかりやるのよ。約束できる?」


 英梨奈は口元にうっすらと笑みを浮かべたまま、しかし、真剣な目つきをまっすぐ李心にむけていた。李心はしっかりとその視線を受け止めるように深くうなずいた。


「わかった、約束する」


 英梨奈は顔をほころばせると、今度は七海へ視線を送る。


「ナナミちゃんだったかしら? リコのこと、よろしく頼むわね。この子、頑固なくせに結構打たれ弱いところもあるから」

「大丈夫です。リコの事、ちゃんとわかっているつもりですから。リコはやるといったら必ずやる子です。わたしが保証します」


 七海はリコを一瞥して英梨奈にむき直る。その言葉に安心したようにうなずくと、英梨奈は踵を返し奄民の部室を後にした。はっとした李心が慌てて追いかけると、廊下を歩く英梨奈の背中に向かって大声でいった。


「エリ姉! 今日、あたしたちのことを助けてくれたのって……」


 李心が最後までいいきらないうちに、英梨奈は廊下の中ほどで振り返って両手を口に当てて叫んだ。


きばりんしょりよ(頑張りなさい)ッ!」


 彼女の唄うような美しい声が特別教室棟の廊下に響き渡り、流れ星の尾のように一瞬の余韻を残して消えていった。残された二人は立ち去った英梨奈の後ろ姿を見送ると、お互いに肩をすくめてみせた。


「里先輩、思いっきりハードルあげていったね」

「うん」

「李心、里先輩がいっていたあのことって、昨日いっていた『里先輩と同じ唄は唄えない』ってことと関係あるの?」

「うん、まあね。だけど、あたしがいったことも本当のことだよ。エリ姉や伝芸には関係のないことで、あたしは、ナナと一緒に好きな唄を唄いたいだけ。ナナ、あたしまだ頼りないかもしれないけど、奄民の復活、一緒にやってくれるよね」


 眉尻をさげる李心を七海は左手を手刀の形にしてこつんとたたく。顔をしかめた李心に七海は微笑んだ。


「そんなの、当たり前だろ。わたしも李心と唄うために奄民を復活させるんだから。だけど、奄民が復活したら、ちゃんとあのことっていうのを、わたしたちにも教えてよ」

「ああ」

 李心は屈託が晴れたように歯を見せて笑った。ちょうど、下校を知らせるチャイムが鳴り響き、校内ににわかにざわめきが戻り始める。時計を一瞥した李心が「今日は収穫なしだな」と自嘲するようにいって、二人は部室を後にした。


  10


 碧は孝雄とともに買い物を済ませ、車で自宅に戻ってきていた。満載の後部座席から引っ張り出した荷物を家の中に運び込むと、碧は縁側に腰をかけ大きく息をついた。

 碧たちが買い物をした龍郷(たつごう)町にある『ビッグツー』は奄美大島でも最大級の売り場面積をほこる大型店舗で、食料品はもとより日用雑貨からDIY商品まで幅広く取りそろえており、観光客はもちろん地元民にとっても便利なスーパーマーケットだった。

 縁側に座りながら視線を少しうえにむけると、集落の白い入母屋造りのトタン屋根は西日を受けてうっすらとオレンジ色に染められていた。


「海の方に行けば夕日が見れるかな?」


 ふと思いついて立ちあがると、家の前で勝美と話し込んでいる孝雄にむかって「ちょっと出てくる」といい残し、碧は海が見える場所を目指してのんびりと歩き始めた。

 海岸に出ると、夕日は集落が面する湾の西側、地元で梵論瀬崎(ぼろせざき)とよばれる岬に差しかかり、一段と赤く燃えるような光を放っていた。赤錆びた穏やかな水面にアルファベットの「i」の文字をかたどるように夕日が反射して、光の道が浮かびあがっている。碧は驚嘆の声をあげて夕日を遮るように顔のまえに手をかざし、しばしその風景に見とれていた。そのまま、夕日が海に沈むところを見ようと、緩やかにカーブしている海岸沿いの道路を東にむかってさらに進んでいく。

 やがて碧の耳に、繰り返す波の音に混じってかすかに別の音が聞こえてきた。話し声よりももっと高い音で祈るような不思議な声。まるで引き寄せられるかのように、碧の足はその声がするほうへとむけられる。

 道路と浜辺の間、蘇鉄がはえた自分の身長の倍ほどもある巨大岩のそばに、一人の女性がガードレールに手をついて海を眺めるように立っていた。碧の聞いた声は彼女から発せられていた。

 夕日に照らされ赤く燃える海が逆光になり、碧の立っている場所からは女性の顔ははっきりとは見えなかった。潮風に長い髪をなびかせながら、神秘的な光をまとった女性は波の音に呼応するように、不思議な言葉で唄を紡いでいた。それはまるで海の彼方に語りかけるようだった。

 早足に歩いてすこし息のあがった碧が、なんと声をかけたらいいのか迷っていると、その女性は唄うことをやめて碧に微笑みかけた。その笑顔につられて碧は「こんにちは」と小さな声で挨拶をして女性に近づいた。


「うがみんしょうらん」

「うが……? え?」

「このシマの子?」

「いえ、最近大阪から引っ越してきたばかりで……お姉さんはこの集落の人ですか?」


 値踏みするような視線を碧にむけると、一呼吸おいて女性は返事をした。


「ううん、ここには夕日を見に来た、かな……」


 そういって女性はふたたび岬の方に視線を送った。さっきよりも沈んだ夕日は、梵論瀬崎(ぼろせざき)にその面積の半分を隠していた。


「今、うたっていたのはお姉さんですよね? あれは、奄美民謡ですか?」

「シマ唄っていうの、知ってる?」

「まだちゃんと聞いたことなくて。でも、友達が奄美民謡を唄っているから一緒にやらないかって誘ってくれていて」


 その女性は口角をすこしあげ、ふぅんと息をついた。その表情にどこか得意げな様子が感じられた。


「ね、あなた引っ越してくる前、一度奄美に来たことがあるんじゃない?」

「まだ小さかった時に一度来たことはあったらしいけど、あたしは全然覚えてないんです。でも、なんでわかるんですか?」

「じゃあ、お帰りなさいだね」

「え?」


 彼女との会話に、碧の顔には戸惑いが浮かぶ。そもそもこの女性と会話として成立しているのかさえ怪しい。

 しかし、彼女からの「シマ唄、聞いてみる?」という問いかけに、考えるよりも早く碧は大きくうなずいて返事をしていた。

 その女性はもう一度海の方にむくと、音もなく息を吸い込む。その細い体に空気の塊がいっきに詰め込まれ、胸のあたりがわずかに膨らんだ。

 次の瞬間、彼女は奄美の海のように透明な、しかし力強く芯のある唄声を夕暮れの海岸に響かせた。


 〽(ふに)(すとぅ)(どぅむ)ヨイスラ (ふに)(すとぅ)(どぅむ)にヨイスラ

  白鷺(しりゅさぎ)ぬいしゅり スラヨイスラヨイ

  

  白鷺(しりゅさぎ)やあらぬヨイスラ 白鷺(しりゅさぎ)やあらぬヨイスラ

  姉妹(うなり)(がみ)がなし スラヨイスラヨイ


 その声はまるで、唄という概念を持ったすべてを飲み込む巨塊であるかのように、自然の営みであるはずの波の音すらかき消して、梵論瀬崎(ぼろせざき)に沈む夕日の最後の光を見送るように、岬のむこうへと消えていった。二分にも満たない短い唄に碧は言葉を失い、ただそこに立って、この謎の女性を見つめていた。


「夕日、沈んじゃったね」


 女性はそういうとガードレールから離れて、歩道の脇に停めていたスクーターにまたがった。


「そろそろ帰るね。あなたも暗くなる前に帰りなさいね」

「あの、お姉さん、名前聞いていいですか⁈」


 前のめり気味に碧が女性に一歩踏み出す。


「……メグミ」


 出会った時のあの神秘的な笑みを浮かべて、メグミは碧にむかって自分の名前だけを告げた。


「メグミさん……また、会えますか?」

「もし、あなたがシマ唄をはじめたらきっとまた出会えるわ。あなたの名前は?」

「ミドリです! 立山ミドリ!」

「ミドリちゃん、また会いましょうね」


 そういってメグミは手を振ると、彼女の乗ってきたスクーターのエンジンを始動させた。碧もメグミにむかって手を振って、走り去る後姿が見えなくなるまでしばらくその場で見送った。頭上に広がっていた燃える炎の残り火の色を、深い宵闇の蒼紫が塗りかえていくその中に、ひときわ明るい星が浮かんで輝いていた。



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