二人は奄民
7
翌日、午後の授業は眠気との戦いだった。李心は何度もうつらうつらとしながら、何とか五限目の授業を乗り切った。
五限目の終わりのチャイム聞くと、李心は大きく背伸びをして立ちあがった。隣の席から碧が様子をうかがうように上目遣いで彼女を見あげる。この後の六限目は体育館に移動してクラブ説明会の予定だった。
「あれ、リコちゃんもう移動する?」
「ううん、あたしとナナはちょっとトイレにいってくるからさ。もし先生に聞かれたらそういっておいてくれない?」
「わかった、でも早くしたほうがいいんちゃう?」
「大丈夫大丈夫。じゃ、よろしくね」
李心たちを見送りながら、大丈夫、というのは何が大丈夫なのだろうかと、わずかばかりの疑問を抱きながら、碧はぞろぞろと移動を開始したクラスメイトたちの流れにのって体育館へとむかった。
体育館は入学式の時と同じ椅子の並びになっていて、どの生徒も入学式で座った場所と同じ椅子に腰を掛けていた。このクラブ説明会は新入生がクラブ活動に積極的に参加できるようにと、毎年生徒会が主導しておこなっている行事だった。授業時間を利用しているため生徒たちはどこか得をした気がするのだが、実際は別の日に授業が振り替えられている。部活に入っていない、いわゆる帰宅部の連中が多少いつもより早く帰ることができる程度の恩恵はあるかもしれない。とはいえ、部活に入っている者たちにとっては新入生を一気に獲得できるチャンスでもある。部員たちは皆、春休みごろから、いろいろと苦心してこのステージに備えてきていた。
「それでは、これからクラブ説明会を始めたいと思います」
壇上では眼鏡をかけた生徒会役員の女子生徒が司会を務めていた。
碧は後ろを振り返ってみる。先生たちは体育館の一番後ろに席を陣取り、自分が顧問を務めるクラブの紹介を気にしているようだった。クラスの後方にはまだ空席があって、本来ならそこにいるはずの李心はまだ着席していなかった。前方の空いている席は七海だ。トレードマークのポニーテールが見当たらない。トイレにしてはずいぶん長くないか、と碧は心配になってきたが、そんな碧の心配をよそにクラブ紹介は二人の空席が埋まることを待つことなくスタートした。
司会の女子生徒は簡単に吹奏楽部の紹介をおこなうと、ひらりとスカートを翻して舞台袖へと姿を消した。同時にすでに舞台上にスタンバイしていた吹奏楽部員が楽器を構える。部長が正面に立ち、吹奏楽部の説明を手短にすると、今度は後ろをむいて両手を肩の高さに掲げる。それをみて全員が楽器を口にくわえる。部長の指揮で演奏がスタートした。
演奏曲はSEKAI NO OWARIの「RPG」だった。明るくポップなメロディーをみんなで体を左右に揺らしながら、吹奏楽部員たちは楽しそうに演奏していた。演奏がサビ部分に差し掛かると、数人の部員が楽器を置いて手拍子をあおった。新入生たちの席からまばらに起こった気恥ずかしそうな手拍子が、体育館の天井に吸い込まれていった。
その後、文化系のクラブがいくつかクラブ紹介をすませる。文芸部、茶道部、写真部、演劇部と続き、次は生物部のはずだった。
「それでは次のクラブは……ちょ、ちょっとあなた達!?」
舞台袖で影アナをしていた司会者がマイクをオンにしたまま、うろたえた声を出した。そこで何かトラブルが起こったことは間違いなかった。にわかに碧の胸を、小さな針がチクリと刺すような胸騒ぎにも似た違和感が走る。
「ごめん、ちょっとだけでいいから!」
スピーカーから流れたその声は碧にも聞き覚えがあった。オンになったままのマイクが、無差別に周囲の音を拾う。ガサガサと何かがマイクにこすれる音がしたかと思うと、舞台袖から李心と七海がステージに登場した。
ざわつく新入生たちを無視して、李心は握りしめたマイクを顔の前に構え呼吸を整えた。七海は李心の斜め後ろで顔を伏せている。李心に無理やり連れてこられたのは明らかだった。
「あたしたちは奄美民謡研究部です! 去年三年生が引退して部員はまだあたしたち二人しかいませんが、あたしたちは奄美のシマ唄を『唄あしび』の文化を通じて楽しく学んでいきます! 初心者でも、経験者でも、もちろん島人じゃなくても!」
そこまで一息でいって、一度息継ぎをする。さらにボリュームを一段あげて声を張った。
「問題なし! 心配なし! だから、あたしたちと一緒に三年間、楽しいクラブ活動しませんか!?」
李心がそういったところで、事態を把握したクラス担任の山田教諭が鬼の形相で椅子を蹴倒しながら立ちあがり、「こらぁーッ! 南、奥! 勝手なことをするな!」と怒号をあげて、体育館の後方から野獣の如く、ゴムの靴底を鳴らして走り出していた。その様子を視界に捉えた李心は「やべ!」と天敵に見つかった小動物のように慌ててステージ袖へと引っ込んだ。体育館の中のあちこちで「今の何?」「何かのパフォーマンス?」と新入生たちが口々に声をあげた。
そのとき、騒々しい空気で満ちる体育館のステージの中央に女子生徒が登壇すると、彼女はにこりともしない無表情をまとってマイクに話しかけた。彼女の声は、まるで冷気の塊のようにこの体育館の温度を急激に下げていく。その証拠に、彼女が声を発した瞬間、すっと波が引くようにざわめきがおさまったのだ。
「みなさん、どうぞ落ち着いてください。私は生徒会長の榊亜希子です。実は手違いがありまして、こちらでクラブの紹介をひとつ飛ばしてしまったようです。大変失礼いたしました。先ほどの紹介は奄美民謡研究部でした。部員が少ないようですので、興味ある方は是非部室を訪ねてみてください、では改めて次は生物部の紹介です。どうぞ」
亜希子がはけると同時に、ステージ上では眼鏡をかけた色白の男子生徒が、奄美大島の独自の生態系(主にカエル)について熱く語りはじめていた。しかし、光の速さで思考が駆けめぐっている碧の耳に、その声は一言も届いていなかった。
少なくとも、李心たちはこの紹介に許可などとっていなかったはずで、ゲリラ的にクラブ紹介を行ったのは明らかだった。ではなぜ生徒会が二人のフォローをしたのか、碧の頭の中ではそんな疑問とともに、さっきの生徒会長の氷のような温度の声が何度も繰り返し再生されていた。
8
李心と七海がクラブ説明会のステージを乗っ取ったという話は、放課後にはクラスではちょっとしたネタになっていた。それどころか他のクラスの生徒にも、二組にはちょっとヤバい奴がいる、程度の噂話は持ち上がっていた。
当然のようにクラブ説明会の後、李心と七海は担任の山田教諭に職員室に呼び出されていた。
掃除当番だった七海の代役を買って出た碧が、なぜか他のクラスメイトから、李心と七海について質問攻めを受ける羽目になっていたが、碧もそれほど彼女たちのことを知っているわけではなかった。
掃除も終わろうかという頃になって、ようやく李心と七海が教室に戻ってきた。気まずそうに頬を掻きながら近寄ってきた李心に、碧は心配するように声をかけた。
「リコちゃんとナナちゃん、あの後大丈夫やった?」
「ああ、山田先生に思いっきりシバかれたよ……」
李心は空虚な表情で乾いた笑い声を漏らした。碧は感心半分、あきれ半分といった顔で、手にしたほうきを体の前で支えるような態勢で、教室の一番後ろの掲示板にもたれかかった。
「高校生活、初っ端からずいぶん思い切った行動にでたもんやね」
「でも、あの後の生徒会長のフォローが良かったな。ステージ袖でも勝手な事したって先生に怒られているところを、生徒会長が『自分たちが奄美民謡研究部の紹介を飛ばしてしまいました』っていってくれたから先生もそれ以上は何もいえなかったし」
「ああ、あれで助かったよね」
李心の言葉を受けて七海も胸の奥から安堵のため息を漏らした。舞台袖でどのようなやり取りがおこなわれていたのかは当事者である二人以外は誰も知らないが、李心がいうようにあの生徒会長の機転で二人が処分を免れたのは間違いなかった。
「本当にリコはいつも突拍子もない事を、いきなりやりだすからな」
「だって、考えていても前に進まないでしょ? だったら行動せんと!」
李心が息を巻く。頼もしいのか無謀なのか。しかし、少なくとも李心はそれを信条としているようだった。得意げに笑う李心に、七海も小さく息をついて諦めにもにた微笑を浮かべた。
「それで、ミドリは説明会を聞いて入りたいクラブは見つかった?」
「軽音部とか吹奏楽部はいいなあとは思ったけど、運動部はあんまり自信ないし、そもそもリコちゃんたちのせいでちゃんと見てられへんかったし」
碧がふくれたのを見て、李心と七海が声をそろえて笑った。
李心は碧からほうきをかすめ取ると、それを逆さにして手のひらに立てた。天井にむいたほうきの穂先を見つめ、器用にバランスをとりながらいった。
「ねぇ、碧も奄民に入ろうよ! 人数少なくて困ってるんだよ」
バランスが崩れて倒れるほうきを「よっ」と掛け声をかけて掴んで碧にむき直る。職員室に呼び出しをくらった後とは思えないほどに呑気な笑みを湛えている。李心の勧誘に、碧は腕を組んで考え込むように小さく唸った。
「うーん。でも、民謡っていわれてもイマイチよくわからへんねんなぁ。そもそも、奄民って今リコちゃんとナナちゃんの二人だけなんやろ? そんなクラブに入部して大丈夫なん?」
「あたしたちがイチからちゃんと教えるし、初心者でも全然心配ないよ?」
「いや、リコちゃんと同じクラブに入っていて大丈夫かどうか……あたしまで変人扱いされたらかなわへんし」
おい、といって李心は碧の頭にほうきの柄を振って剣道の「面」の動作で一撃をお見舞いした。当然、本気ではない。三人のにぎやかな笑い声は、午後の風に舞うたんぽぽの綿毛のように、ただあてもなく開け放たれた窓を飛び立って、ぼんやりと霞がかった春空に広がっていった。
「どう、ミドリこのあと時間があるなら奄民の部室に来てみない?」
「ごめん、せっかく誘ってくれたのに悪いねんけど、今日はお父さんと買い物にいかなあかんねん。引っ越しの後、まだいろいろと必要なものが揃ってへんくて、今日一緒に行く約束してるから」
「そうか、じゃあまた今度見に来てよ」
「うん、わかった。また明日ね」
碧は机から鞄を拾い上げると、李心たちに手を振って教室を出て行った。李心からほうきを奪い取って、掃除用具入れになおしに行った七海にも大きく手を振ってバイバイと挨拶する。七海も小さく手を振ってこたえ碧を見送った。
「とりあえず、あたしたちも奄民の部室に行ってみようか」
李心は七海に呼びかけると教室を後にして、鍵を借りるために教室棟二階の職員室へとむかった。ついさっきまでお説教を食らっていた場所だけに、二人の足取りは心なしか重たかった。
放課後の廊下というのは一日の授業が終わった解放感からか、どこか楽しげな空気が流れている。今度の休みの予定を相談する女子グループの賑やかな笑い声が、廊下のむこう側から独特の残響を残して聞こえてくる。
職員室へとむかうその道中、李心が思い出したように手をたたいた。二人の目の前には「生徒会室」と書かれたプラスチックプレートがかかった扉がある。李心は親指を立ててその扉を指し示した。
「ちょっと寄っていこう」
七海に目配せをすると李心は生徒会室のドアをノックする。「どうぞ」と中から声が聞こえて李心はゆっくりと扉を開けた。
「失礼します」
声をかけて李心が中に入ると、会議テーブルに座った女子生徒が一人、ノートパソコンにむかっていた。李心はこの女性に見覚えがあった。感情を遮断したかのような冷たい表情は、まぎれもなくあのとき二人を助けた生徒会長の榊亜希子だった。
「あ、あの。奄美民謡研究部の南です。今日は迷惑をかけてすみませんでした」
そういって李心は深々と頭をさげた。李心に続いて部屋に入っていた七海も慌てて李心に倣う。亜希子はパソコンのキーボードをたたく指を止めて顔をあげた。あのときと同じ、一切の感情が表にでない眼差しが、まっすぐ李心を捉えている。彼女は春なのに凍り付きそうなほど温度のない声で質問した。
「ああ、あなたですか。生徒会に何か用事ですか?」
「いえ、今日のことをお詫びしたかったので。でもどうして、あのとき新入生や山田先生にまで奄民の紹介を飛ばしたといって助けてくれたんですか?」
「もっとも効果的に騒ぎをおさめるためです。特にあなた方を助けたのではありません」
「でも、それだとあたしたちのせいなのに、生徒会のミスということになるんじゃ……」
亜希子の眉根がわずかに動いたが、それでも声色を変えずに彼女はいった。
「ある方からうまくおさめるようにお願いされましたので、それを実行したまでです」
「その『ある方』って誰ですか? その人にもお礼をいわないと」
「お伝えはできません。ただ、私からその人にはあなたの謝意を伝えておきます」
李心と彼女との間には越えられない溝のようなものが横たわり、これ以上この生徒会長からは情報らしい情報は引き出せそうになかった。とはいえ、李心は最低限伝えたかったお礼を伝え、それなりに納得をしていたため、この場所にこれっぽっちの未練も残ってはいなかった。むしろ、すぐにでもこの場を離れたいほど、生徒会室の空気は冷えきっていた。李心は今一度、深々と一礼する。
「わかりました。じゃあ、失礼します」
「ちょっと待ってください」
ところが、亜希子の方が立ちあがり踵を返そうとしていた李心を呼び止めた。李心は再び亜希子のほうに体をむけた。彼女は無駄のない動きで生徒会室の壁面にずらりと並んだトレイのキャビネットの前に立つと一枚の用紙を抜き取り、李心たちにむきなおる。その瞳はまるで黒い水を湛えた底なしの沼のように深い色をしていた。その瞳を見つめて李心は、彼女の感情はその水底に沈んでいるに違いないと確信した。
「奄民は今部員が二人だといっていましたね」
「はい」
「では、今月中にあと二人集めてください」
「あと二人ですか?」
李心の代わりに七海が質問を返すと、亜希子はわずかにうなずいた。
「我が校で部活動として承認されるためには正式な部員が四名必要です。奄民は昨年度まで正式な認証団体として活動していましたから、一か月間の猶予期間があります。四月中に四人そろえば顧問の承認をもらって申請書と四人分の入部届を提出してください」
そういいながらA4サイズの用紙を李心たちの前に差し出した。その用紙の見出しには『部活動継続申請書』と大きく書いてある。
一ミリリットルの笑みもこぼさない、張り付けたような無表情で亜希子は李心たちに用紙を手渡すと、静かに会議テーブルにつき自分の仕事にとりかかった。
「わかりました。いろいろとありがとうございました。失礼します」
なんとなく苦手なタイプの人だと思った李心はさっさと生徒会室を出ようと扉に手をかけた。そのとき、生徒会長は二人を見ることもなく、ただの独り言のようにつぶやいた。
「奄民が真剣に部活動に取り組むつもりなのはわかりました。頑張ってください」
李心は呆気にとられて亜希子を見つめていたが、それ以上は何の言葉もなく、ただ彼女が黙々と書類のデータをパソコンに打ち込む音だけが生徒会室に響いた。李心はもう一度、口の中だけで「失礼します」といって扉を開けて出ていった。
李心たちと入れ替わるようなタイミングで、扉が開くと、亜希子の耳に聞きなれた声が聞こえた。それはまるで、歌声のような美しい女性の声だった。
「うまくやってくれてありがとう。手間を取らせて悪かったわね」
亜希子はパソコンの画面から視線を外すことなくこたえる。
「別に。どちらにしても、ああするのが一番合理的だったからね。ついでよ。それよりも、奄民を潰したはずのあなたが、今度は奄民を助けてあげるなんて、いったいどういう風の吹きまわし?」
相変わらず愛想のない言葉ではあったが、亜希子の声にはわずかばかりの温度がこもっていた。
「まさか、逆よ」
「逆? 奄民を助けたわけではないということ?」
「そうじゃなくて、奄民を潰したかったんじゃないわ。本当は、奄民を潰さない、そう約束したはずだったんだけどね」
「そうなの。でも、それももう過去の話ね。これからのことはあの子たちに任せるほかないわ」
そういうと亜希子はノートパソコンをぱたんと閉じてテーブルの上を片付け、隣の椅子に置いてあった自分の鞄を手にして立ち上がった。
「この後、体育館の片づけが終わったら今日はあがるけど、久しぶりに一緒に帰る?」
振り向いた亜希子が声をかけた時には、そこにはすでに誰もいなかった。それまでのやり取りは幻だったかのように、開け放たれたドアの先、廊下の窓の向こうに、白くにじむ空に伸びる新緑がただ風に揺れているだけだった。亜希子は小さくため息をつくと、生徒会室に鍵をかけて、他の役員たちが片付け作業中の体育館へとむかった。本来ならばここに戻ってくる予定ではなかったのに、今日に限ってはここに来ざるを得なかったわけだが、今思えばそれもまた「そういうこと」だったのかな、と誰にも気づかれないほどに小さくその口元を吊り上げた。