新入生は関西人
1
春の生暖かい風が真新しい制服の袖を駆けあがり、街路樹をさわさわと躍らせた。穏やかな陽気が目の前にある校舎の壁を清潔な光で照らしている。新緑に萌える山を背負うように建つ高校の正門には大きく『南海大島高校入学式』と書かれた看板が立てられ、その看板と並んで新入生と思しき生徒らが親や友達たちと一緒に春の若草のように溌らつとした笑顔で写真撮影会をしていた。胸ポケットに校章が刺繍されたシンプルな紺色のブレザーにグレイのチェックのぱりっとしたプリーツスカート。襟元には深いえんじ色のリボンが、彼女たちのポーズに合わせてふわふわと揺れている。
中学校を卒業した後、南李心が笠利町にある実家をでて奄美市名瀬の親戚の家に下宿を始めたのはこの南海大島高校に通学するためだった。高校入学を期に短く切りそろえて、明るめにカラーをした髪が柔らかな太陽の光を透き通している。
高校入学を喜ぶ彼女らの脇を通り抜け、教室の割り振りが張り出されている掲示板にむかおうとしたそのとき、周囲のざわめきの中から李心を呼ぶ声が聞こえたような気がして、彼女は後ろを振り返った。李心の目線の先には、長い黒髪を後頭部でポニーテールにした女子生徒が駆け寄ってくる姿が見えた。ほっそりとしたあごのラインにかかるほど長く伸びた前髪を、左右に分けて流している。南国美人という言葉がぴったりな目鼻立ちのはっきりとしたその顔は、もう何年と一緒に過ごしてきた幼馴染みの七海だった。
「おはよう、リコ。また同じ学校になったね」
「いっておくけど、この学校を先に受験するっていったのはあたしだからね」
語気を強める李心に、何をムキになっているんだ、と七海は眉をひそめる。
二人は掲示板のある昇降口横へとむかう。掲示板まえはすでに生徒たちで溢れ返っていて、人混みをかき分けるようにして、ようやくクラス分けの名簿のまえにたどりついた。一年生は一学級三十五人のクラスが三つ張り出されている。李心は左から順に名簿を確認していき、「南李心」の文字を一年二組に見つけた。同じクラスに「奥七海」の名前も見つけて無意識に安堵の色を浮かべた。
二人が掲示板の人混みを抜け出そうとしたとき、ちょうどその輪の中に飛び込んできた一人の女子生徒とぶつかり、危うく尻もちをつきそうになった李心を、七海がすんでのところで支えた。ぶつかった相手の女子生徒は肩のうえでふわりと空気を包み込むような髪を揺らして「ああ、悪い! ごめんやで!」とすまなそうな顔で右手のひらを顔のまえでお釈迦様のようにまっすぐにかざすと、人混みの中に消えていった。
一瞬の通り雨にでも遭遇したように呆気に取られていた李心に、七海が「大丈夫?」と声をかけて立たせると、李心は肩をすくめた。
「『ごめんやで』って、どこのシマの言葉だろうな?」
李心の質問に七海は曖昧な笑顔を返しただけだった。
二人は校舎内に張り出された案内に従い一年二組のある三階の教室を目指し階段をのぼる。踊り場にはうるさいぐらい様々なクラブの新入部員募集のポスターが貼り出され、初登校してきた彼女たちを歓迎していた。
教室にたどり着いた李心は、ドアに掲示された座席表を見てわずかに口元を緩めた。李心の席はクラスの一番後ろ、一方の七海は窓際の中ほどで李心とは少し距離があった。
教室の後ろで別れた後、窓際で落ち着きない様子で座っている七海と目が合うと、李心はにっと歯を見せて手を振る。恥じらいと困惑の混じった表情で手を振り返す七海を捉えた李心の視界の端に、一人の女子生徒の姿が映り込んだ。彼女は深い茶色の髪を肩のうえで弾ませながら、李心の左隣の空席に着席した。李心はその横顔をちらりと一瞥する。まだ幼さが残る顔立ちの大きな瞳が興味深そうに教室の中を見渡し、李心と目が合った。その瞬間、二人は同時に「あっ」と声をあげた。
2
「さっきのごめんやでの人!」
李心が隣に座ったその女子生徒にびしっと人差し指をむけた。指をむけられたほうは、迷惑そうに顔をしかめると、ひらひらと手を振って李心の言葉にやんわりと反論をした。
「いや、普通に謝ったやん?」
「別に怒ってるわけじゃなくて、ちょっと変わったいい方だったから気になってただけ。あたしは、赤木名中出身の南李心。よろしくね」
慌てた様子で胸の前で手を振る李心の言葉に、不安そうな表情を浮かべていたその女子生徒も、ほっと息をついた。
「あたしは、立山碧。さっきはホンマごめん。わざとと違うかってんけど、何か勢い余った感じでぶつかっちゃって」
「それは全然気にしてないんだけど『ごめんやで』っていい方あまり聞かないし、立山さんはどこのシマ出身?」
李心は磨き抜かれた天然石のような瞳を碧にむける。よく見ると碧は大きな目に線を引いたようにはっきりとした二重まぶたと長い睫毛が印象的で、ブレザーの制服が妙に似合っていた。
「えーと、あたし奄美に引っ越してきたばかりで」
「え? 内地からきたってわけ? どこ? どこから来たの?」
語尾があがる特徴的なイントネーションで李心がまくしたてるようにたずねる。
「一応、大阪から」
「はげー! 大阪から島に引っ越してきたってわけ?」
李心の声にざわついていた教室が一瞬静まり、二人の方へクラスメイトたちの視線が集中する。碧がその空気を察して「ちょ、声大きいって!」と慌てたように小声で抗議した。李心は苦笑混じりにぺろっと舌を出すと、声のボリュームを落として言葉を継いだ。その瞳は好奇心に大きく見開かれている。
「それで、大阪からって本当に?」
「うん、お父さんの仕事の都合で引っ越すことになって、一緒に奄美に来ることになったんやけど」
「おおー、大阪弁」
「いや、普通やから。それより、奄美の言葉? 方言ってあんまり強くないんやね。みんな標準語っぽいしゃべり方するんや?」
「あー。シマの年寄りは何いってるのか意味わからない言葉話す人もいるけど、たいていは普通語かな」
「へー、そうなんや? なあ、リコちゃん。あたしってもしかして、この教室の中で浮いてたりする?」
「浮いてるっていうか、なんか異質な感じがしたかな、よくわからないけど。でも、なんか良いね、大阪弁って」
李心が歯を見せて笑う。その笑顔を見た碧はすこし恥ずかしそうに視線をそらせた。
その後、教室に入ってきた担任教諭の指示に従ってクラスメイト達は入学式のおこなわれる体育館へぞろぞろと移動を開始した。いくつもの足音が廊下を踏み鳴らす音が校舎に響き渡り、彼女たちの期待感は否が応でも高まっていった。
3
入学式が滞りなく執りおこなわれると、新入生はふたたび各々の教室へと戻ってきた。
李心は自分の席につき、組んだ腕を天にむかって伸ばすと「ウーン」と大きく背伸びをする。止めていた呼吸は深いため息となって肺のなかから勢いよく飛び出していった。
中学校の卒業式のときのことは案外、鮮明に覚えているのに、つい数十分前におこなわれた入学式の内容はまったく記憶に残っていなかった。祝辞を述べた市長の顔はおろか、校長先生の名前すら思い出せない。かろうじて、担任教諭の名前が『山田』であることは覚えていた。
入学式の後、ホームルームを利用して高校生活に関するガイダンスがおこなわれた。中学校とのカリキュラムの違いや、学校生活に関する注意事項、各行事やクラブ活動などに関する説明を受けて、この日の予定はすべて終了した。
ざわざわとした空気が教室に戻って来て、皆思いおもいに高校生初日を満喫しているようだった。李心も突如現れた異質な関西人の碧に興味津々で話し込んでいると、二人の間に人影が立った。李心は目線もむけずに、その人影に呼びかる。
「ナナ、やっぱり気になって来たね」
「わたしが気になってるのはリコが失礼をしてないかだよ」
「大きなお世話だよ。立山さん、紹介するよ。彼女はあたしの幼なじみで同じ赤木名中学校出身の奥七海」
李心が右手を七海に差しむけると碧の視線がそれを追いかけるように、七海の顔を捉えた。七海が小首をかしげるように目礼をしてみせると、碧も人懐っこい柔和な目を七海にむけた。
「あたしは立山碧です。よろしく、奥さん」
「あの、その奥さんっていい方、ちょっと苦手だから……」
ナナミは恥ずかしそうに眉をさげて頬を掻いた。なるほど、というように納得した様子で碧がうなずくと、ふわりと頬を弛緩させる。
「じゃあ、ナナちゃんって呼んでもいい? あたしのことはミドリでいいし」
「うん。よろしくね、ミドリ」
「そういえば、あたしはまだしたの名前で呼んでいいっていってないけどな」
李心が不満そうな顔をしてみせた。別に本気でそう思ったわけではなかったが、何となくこの大阪から来た新入生にイニシアチブをとられることは、島人としてのささやかな矜持に傷がつく気がした。
「でも、リコちゃんっていいやすくてあたし好きやねんけど?」
「じゃあ、あたしもミドリって呼ぶことにする」
李心は白々しくぷいっとそっぽをむいたが、そんなことは気にする様子もなく碧は嬉しそうに「よろしくね、奄美での友達第一号のリコちゃん!」と、飛びつくようにして彼女の肩を抱いた。
三人が教室を後にして昇降口に向かう途中、話題は李心の髪型についてだった。何しろ、つい数週間前、卒業式の時まで李心の頭には二つの黒いおさげ髪がぶら下がっていたのだ。
七海は李心に呆れたような視線を投げかける。
「それにしても、高校生になったとたんに髪の毛を染めて、李心には節操というものがないのか?」
「別にいいだろ、そのくらい。髪の色も髪型も新しい自分への第一歩だよ」
迷惑そうに七海に振り返った李心に、思い出したように碧がたずねた。
「髪といえば、さっき教室でリコちゃんが話しかけてきたときに、あたしにハゲっていってへんかった?」
眉をハの字に下げて困惑の表情を浮かべながら、碧は耳のうしろの髪を両手で梳きあげる。ボリューム感のある髪の毛の束が廊下の窓から差し込む光に艶やかに反射していた。
「ああ、驚いたときとか感動した時とかに、『あげー!』とか『はげー!』ていうわけ。びっくりしたときに勝手に出てしまうって感じかな、大阪ではいわない?」
「大阪で人にむかって『ハゲ』っていったら確実にシバかれるわ」
「芝枯れる?」
碧の言葉に李心と七海が同時に首をかしげた。二人のぴったりと息の合った動きを見て碧はプッと吹きだした。そのあと怪訝な顔をしたところまで二人は息ぴったりだった。
三人は靴を履き替えて昇降口を出る。新入部員獲得のために忙しなく動き回る在校生たちをかわすように、その間をすり抜けて校門をくぐった。その一五〇メートルほど先、大通りにぶつかる交差点のそば、通りに面した小洒落た菓子店の前で、碧はバスに乗るために李心と七海に別れを告げた。
「さて、この後だけど、ナナは時間ある? 久しぶりにあしびばに行ってみない? 部活のことも相談したいし」
「あしびばか。入試の時に行って以来だね。うん、いいよ。付き合う」
走り去るバスを見送ると、二人は穏やかな午後の日差しのなか、名瀬の市街地の中心へとのんびりと歩き始めた。