上村百合子
22
雅之が受付でアポイントを告げ、五人は小さな会議室に通された。その会議室の天井に吊り下げられたプロジェクターが無機質な光を壁面に投影している。
七海たちがが緊張した面持ちで待っていると、ドアがノックされ一人の中年女性と、やや年配の男性社員と思しき人が入ってきて、その年配男性は雅之に歩み寄ると、よく通る低い声で「雅之君、久しぶり」といって右手を差し出し握手を求めた。雅之はその手を両手で握ると「義之おじ、ご無沙汰しています。突然こんなお願いをしてすみませんでした」と腰の低い挨拶を返した。義之は気さくな声で雅之の隣に居並ぶ七海たちに視線を送りながらいった。
「かまわんよ。それで、こちらがその泊さんのお孫さんとそのお友達ですか」
七海は心臓がきゅっと萎縮したような感覚に、一瞬言葉を飲み込みかけた。雅之に協力を求めて彼を呼び立てたのは七海だった。自分が説明をしなければと心を決め、まるで舞台の上で唄うときのように一度呼吸を整えると、はっきりと大人びた口調でいった。
「今日は時間をとっていただいてありがとうございます。南海大島高校奄美民謡研究部の奥七海です。実は指宿さんが編集された『写真で見る奄美の近代史』という本を見て、その中に映っている写真について知りたいことがあって、マサさんを通してご連絡をしました。私たちは泊政二郎の相方をしていた上村百合子について調べています」
そういって七海は図書館から借りてきた写真誌をテーブルの上に開く。付箋を貼っていたので、目的のページは何の迷いもなく開かれた。泊政二郎と上村百合子と思われる二人が、どこかの集落でシマ唄を唄っている写真を義之の方へむけて、すっと差し出した。
「それで、この写真に関して何か知っていることがあれば、どんな些細なことでもいいので教えてもらえないかと思って来ました」
「私は確かにその本の編者として出版に携わった。ただ、それはあくまで集められた情報を精査し、本に仕上げたに過ぎず、私はそこにある情報以上のものはわからない。しかし今回、偶然にもここにいる、池田春子に多少心当たりがあって、映像資料を用意してくれた。ただし、これは彼女と君たちとの取引になる。もう雅之君から聞いているかもしれないが、君たちの要望をひとつ聞き入れる代わりに、彼女の要望も聞いてもらいたい」
池田春子と呼ばれた中年の女性が丁寧なお辞儀をして、七海たち四人もそれに倣って頭を下げる。顔をあげた四人の中で口を開いたのは清風だった。
「その要望というのは、泊政二郎の孫である私が唄うことだとお聞きしました。もちろん、喜んでお受けしますが、一つだけお願いがあります」
義之はちらりと春子に目をむけ、彼女が目で了承の合図を送ったのを見て「どうぞ」と清風に続きをうながした。
「私のほかに、ここにいる三人全員で順に唄を唄いたいのです。私たちは今、部活動のなかで『唄あしび』を研究している、といえば大げさですけれど、とにかく唄あしびを通じてシマ唄を勉強しています。ですから、唄あしびの形式に則ってこの四人の唄を順に唄いたいのですが、よろしいでしょうか?」
やや間があって、この会議室に入ってきてから初めて春子が言葉を発した。
「それは、とても素晴らしい提案だと思います。唄を唄っていただきたいのは私の父にです。今、隣の部屋で待っておりますので、連れてきます。父もきっと喜ぶと思います」
そういわれて、ほっとしたように清風たち四人は頬を緩めた。春子と義之はいったんその場を辞して、すぐに扉口に姿を現した。今度は春子は老翁が座る車いすを押していた。テーブルをはさんで四人の正面まで来ると、春子はその老人の耳元で何やら声を掛け四人にむき直った。
「父の平田光蔵です。幾里の出身で、唄者をしておりました。生前の泊政二郎さんとも親しかったそうです」
亡くなった祖父の友人に出会ったことに感謝をするように、清風は深々と、そして長い礼をした。その様子を光蔵はただぼんやりとした表情で眺めていた。
「早速ですが、父にシマ唄を聞かせていただけますか」
「わかりました」
清風の言葉を合図に、碧が楽器ケースから三線を取り出して清風に渡す。短く数回、調弦をすると「では、まず朝花節から唄います」と、曲名だけを紹介して、なんの予備動作もなしに、清風は右手に持った撥で軽やかに弦を弾き、ぴんと張り詰めた澄んだ音色を響かせた。左手が意志を持った生き物のように滑らかな動きで、棹の勘所を正確に押さえていく。
清風は政二郎の友人であった光蔵のために、朝花節の最初の囃子言葉を、いつも奄民の練習で唄う『ハレカナ』ではなく、政二郎が唄っていた『ヨーハレ』で唄い始めた。
〽ヨーハレ― 稀々(まれまれ)汝きゃ拝でぃ
今拝むぃば 何時頃拝むかぃ
――本当に久しぶりにあなたと会いました
今度お会いして、次はいつお会いできるだろうか
お囃子は碧がつけた。それを清風はちらりと見やると、満足げに口元を吊り上げる。それに答えるように碧もわずかにあごを沈めた。清風が唄い終わると、今度は李心が唄を継いだ。李心はいつも通りの節回しに、車の中で清風から教えてもらった、泊政二郎のよく唄っていた歌詞をつけた。
〽ハレカナーィ 参らん加那 待たんよりも
二十三夜待ちぬ 御月様待ちど勝り
――やってこない愛しい人を待っているよりも
下弦の月が昇るのを待っているほうがよっぽどいいだろう
李心の後は七海と碧がそれぞれ、いつも通りに唄をまわして朝花節を唄い終えた。
光蔵は静かに目を閉じて唄の余韻に浸るように、ただじっと静かに座っていた。七海はその様子にまるで靄がかかった朝方の海のように、先の見えない不安感を覚えた。自分たちの唄は光蔵の中の泊政二郎の影にかすりもしていないのではと思えた。
そんな空気を清風も感じたのか、「次はヨイスラ節を唄います」と立て続けに唄おうとしたとき、ふいに光蔵がもごもごと口の中で何かをいった。
それを見て取った清風は唄うのをやめ、光蔵の言葉に耳を傾けた。春子がその言葉をきいて、七海たちに伝えてくれた。
「もう一曲唄っていただく前に、先に皆さんに映像を見てもらいたいそうです」
にわかに四人の顔に喜びの色が広がり、互いに視線を交わし合ってそれぞれが興奮した様子であることを感じ取った。
春子が「お願いします」というと、義之がテーブルの上のパソコンを操作して、プロジェクターに映像を映しだした。
それは白黒のノイズがかった映像で、画質自体はかなり悪かったが
、冒頭、画面に映る二人が「泊政二郎」と「上村百合子」と名乗り、その映像に映る唄者が本人であることが確認できた。
「リコちゃん、お祖父様が追っしゃていた幻の唄者、上村百合子です!」
大仰な言葉とともに興奮して清風は右手で李心の肩を揺さぶった。リコも「ああ」と画面に注目しながら小さく返事をする。
映像の中の二人は、シマ唄の形式に倣い朝花節を唄いはじめる。パソコンから聞こえる音声もひどい音質で、おまけに声を張ると音が割れて、唄を鑑賞するにはいい素材とはいえなかったが、それでも上村百合子が唄いはじめた時、その小さな会議室の中の時間がピタリと止まったように、そこにいた全員が身じろぎ一つせず、静かにその唄に聴き入った。
映像はところどころ編集されていて、朝花節の途中で映像が途切れて別の唄に変わり、次に泊政二郎と上村百合子は「花染め節」を掛け合いで唄いはじめた。
その唄を聴いた清風は、まるで珍しい生き物にでも遭遇したかのような顔で「お祖父様が人前で花染めを唄われているのを初めて見ました」と呟いた。
その唄もまた途中で切り替わり、次の曲の前弾を聴いていた李心が「らんかん橋かな?」と問いかける。しかし七海は、少し難しい表情をしたまま、その歌詞にじっと聴き入っていた。
〽しゅみちぃーながぁはーまにぃー ヤーレイ わらぶぇーぬぃなきぃしゅたさ……
ノイズがかかっていて聞き取りにくいが、唄いだしのその歌詞に七海は心当たりがあった。鞄からいつも持ち歩いている歌詞ノートを取り出してページをめくり、リコの前に開いて差し出した。
「リコ。これはたぶん塩道長浜だ。前に一度だけフデおばが唄っていたのはこの唄だったはず……」
七海は人差し指で顎先を触りながら考え込んでいると、光蔵がふいに声を出した。それをまた春子が七海たちに伝える。
「この唄は、塩道長浜だそうです。この唄はヒギャの人たちから『らんかん橋崩し』という呼ばれ方をしたのを嫌って、政二郎さんは巡業後に唄わなくなったそうです」
「確かにヒギャ節のものとは違いますし、らんかん橋と節回しも似ていますね。今ではヒギャ節のものが主流になりつつあるので、カサン節では唄われなくなったのかもしれませんね」
清風が感心したようにいう。そこで映像がぷっつりと切れてしまい、画面が真っ暗になったかと思うと、パソコンのデスクトップ画面が映し出された。
「今回、ご用意できた映像は今のもので全てです。何かの参考になればいいのですが」
春子がそういうと、七海が指を顎先にあてたまま、目線をあげて春子にいった。
「あの、今からわたしたちでヨイスラ節を一節ずつ唄います。それで、今回のわたしたちの、指宿さんの言葉を借りれば取引は終わりなのですが、最後に唄の後に、ひとつだけ光蔵さんに聞きたいことがあるのですが、かまいませんか?」
春子が光蔵の耳元で、七海の言葉を伝えると、静かに大きくうなずいた。それを見て七海は「ありがとうございます」とお礼をいい、清風に「ヨイスラ、いつもの感じでお願い」と指示をした。
清風はふたたび三線を構えてヨイスラ節の前弾をはじめる。清風が入部したその日から、この唄は毎日練習してきていて、碧も随分と上手に唄えるようになっている。はじめに清風が唄い、李心、碧と続いて、最後に七海が唄をつける。
〽面影ぬ立てぃばヨイスラ 面影ぬ立てぃばヨイスラ 泣きぎゃりやするな スラヨイスラヨイ
泣けば面影がヨイスラ 泣けば面影がヨイスラ 勝てぃまた立ちゅり スラヨイスラヨイ
――その人の面影を思い出して 泣いてはいけない
泣くとさらにその面影が強く思い出される
そ四人の唄声を聴いた光蔵の表情に、明らかな驚きの色が浮かんだ。永く閉じていた重い扉が、しずかにゆっくりと開くように、光蔵の瞳に輝きが宿る。
やがて、静かに唄を聴いていた光蔵の目から一筋の涙が頬を伝った。そして目を閉じるとそっと両手を合掌して呟くようにいった。
「政二郎ぬ魂や、今にむ、くんそばかちうもゆるや。ありがっさまりょうた」
「父は、あなた達の唄に政二郎さんの声を聞いたそうです。今でも、政二郎さんがそばにいるようだと、とても喜んでいます。ありがとうございました」
清風の唄はちゃんと光蔵に届いていたのだ。清風は両手で口元を覆い、顔を伏せた。生前にシマ唄巡業する祖父の姿を見て、その祖父がずっと聴きたいといっていた唄を聴き、そして彼の唄を愛する唄者に、その声が聞こえたといわれた。それが清風にとって、どれほど心強いことであるか、七海にも容易に想像がついた。
春子が深々とお辞儀をすると、清風は顔をあげてはちきれんばかりの笑顔を作って、李心の方を見た。李心も満足そうにうなずいている。
そんな中、七海はひとり居ずまいを正して光蔵たちにむき合った。はっきりと、確固たる自信をもった口調で七海は光蔵にも聞こえるように、声を張った。
「それで、最後にひとつだけ感想を聞かせてください、光蔵さん。彼女の、李心の唄を聞いて」そういって七海が李心を手で指し示す。「李心に唄を教えたのは、上村百合子だと思いますか?」
七海のその言葉は、小さな会議室に再びいいようのない張り詰めた空気を充満させた。
23
またいつでもおいで、といわれていたが、三日とおかず、また李心の実家にお邪魔することになろうとは、先週の合宿の時には思いもよらないことだった。
李心の実家の天然木の大きな座卓の前に正座をしていると、フデが李心とともにのんびりとした足取りでやってきて、指定席の籐の椅子に腰を掛けた。
「また唄ば習いにいもりょぉたかい?」とにこやかに言うフデに、七海が姿勢を正してむき直った。
「フデおば。実はわたしたちは上村百合子という唄者について調べてたんです。それで、辿り着いた答えなんですけど、フデおばが泊政二郎とともにシマ唄巡業をした相方、上村百合子なんですよね。どうして、フデおばがこれまでの唄者としての上村百合子を名乗ることなく、フデとして生きてきたのか、今日はそのお話を聴かせてもらえないかと思ってきました」
フデは黙ったまま答えなかった。その顔からはいつもの穏やかな笑みが消えて、何の感情もない仮面のような表情が張り付いていた。
「……ばあちゃん」
李心がフデの横に寄り添うように座り直し、優しい声で呼びかけると、フデはゆっくりと視線だけをそちらにむけた。
「ばあちゃんの好きないつもの昔話だよ」と李心がいうと、七海の目にはフデがかすかに笑ったように見えた。
やがて、開け放った掃き出し窓の外、折り重なるようにして光を跳ね返す海のむこう側を見るように、フデは遠くを見つめてぽつりぽつりと呟くように話しはじめた。
「ナナちゃん。シマ唄ちば、島人の魂、誇りちば。唄にはいつも人が集まったもんど。ところが、本土ではシマ唄にや人は集まらん。ただ、自分のために辛い時の慰みに唄うことしかできんかった。仕事をしながら、夜中に一人でこっそりと唄うこと、それが大阪でのばあちゃんのシマ唄だりょんかな、ばあちゃんは唄者ば辞めた。
唄者ちば唄で人に勇気や、希望や、明日への活力を与えんばならんもんど。島を離れて、今日を生きることに精いっぱいだったばあちゃんは、もう唄者ではおれんかったち」
話が終わるとフデは疲れたように息をついて、背もたれに体重を預けた。ギッと椅子が鳴る。
そばにいた李心がフデの言葉を否定するかのように、小さく首を振り、そのしわくちゃの手をぎゅっと握った。
「そんなことないよ、ばあちゃん。あたしもナナも、ミドリにサヤカだって、みんなばあちゃんの唄を習ったでしょ? その唄を聴いて、懐かしいと喜んでくれた人がいたんだ。戦後の何もない時に、上村百合子の唄を聞いて、生きる希望をもらった人はたくさんいたって。そのときの上村百合子の魂は、まだ島人の中にちゃんと残ってる。だから、あたしたちが上村百合子の唄をちゃんと歌い継ぐよ。いいでしょ?」
李心の言葉に、そこにいた奄民部員全員が大きくうなずいた。フデは嬉しさと同時に、まったくしょうがない孫たちだといったような、呆れた笑みを滲ませて、いつものように芯のある力強い声をお腹から響かせるようにいった。
「まだ覚えんばいかん唄がたくさんあるんど。みんな気張らんば、ばあちゃんが生きてるうちに覚えきらんど?」
「そんな、長生きしてもらわなきゃ困るよ!」
フデの冗談に大笑いしながら、李心は立ち上がってフデの肩に手を置いた。その姿を見上げてフデもおかしそうに乾いた声で小さく笑った。
春のうららかな風にのって、小鳥たちのさえずりがこの居間にも届いてきた。それはいつも通りの、長閑な昼下がりだった。
「あの、もう一つだけ。お祖父様は、亡くなる前に上村百合子の唄を聴きたいといっていました。一度でいいので、お祖父様の前で唄を唄ってもらえないでしょうか」
「サヤカさん。政二郎兄は、神様のお導きで、奥さんをもらった。それを曲げちゃいかん。だから……」
「お祖父様は、人前で花染め節をお唄いになりませんでした。けれど、ある方が唄ったこの曲がとても好きだといっていました。私はその唄をお祖父様に唄ってくださったのは、上村百合子だったのではないかと思っています。
お祖父様は亡くなるその時まで、お祖母様を愛しておられました。だから、きっと、お祖母様もお祖父様がなぜこの唄をずっと大切にしてきたのか、その気持ちをわかってくださるはずです。私が、お祖母様にきちんとお願いをしますから、どうか、お祖父様の最後のお願いを聞いてもらえないでしょうか」
仕方がない、と諦めた様子のため息をひとつついて、フデはいった。
「政二郎兄のご遺影にお線香だけあげんばや。ばあちゃんも政二郎兄には大阪に渡ってから、一度も顔見せしなかったから、最後に遺影を拝ませてもらって、それで終いにしゅんど」
「わかりました。ただ、私がお祖母様にきちんと説明をしますので、もしできるのであれば唄を唄っていただけますか?」
強い決意の表情を伺わせて、清風は手をついて頭を下げた。さすがに政二郎の孫にそこまでされて断りきれずに、フデも「わかったから、もう顔ばあげんしょりよ。世話んなった兄の奥さんにもきちんとご挨拶しまい」と清風にいうと、それで清風もようやく納得したように顔をあげた。フデはもう一度大きく息をついた。