祖父の唄
19
ゴールデンウィーク合間となった火曜日の放課後、部室に一番乗りしたのは七海だった。李心は日直、碧は掃除当番にあたっていて、先に部室に行っておいてといわれていた。七海が部室で向かう足取りは、先週までに比べて心なしか軽い。それまでの清風に対する遠慮のような線引きが合宿で取り払われたことで、七海の心理に気安さが生まれていた。
部室に一番乗りした七海のすぐあとに、清風がやってきた。おたがいに「お疲れ様」と声をかけると、いつもの定位置に座る。
今までなら、何を話せばいいのかと考えを巡らせていたが、今日はすんなりと言葉がでてきた。
「サヤカ、昨日いっていた上村百合子のことだけれど、サヤカのおばあさんが何か知っていたりはしないのか?」
「それが前に聞いたのですが、お祖母様は知らないそうです。お祖父様と結婚されたのはシマ唄巡業の後でしたし、お祖母様はシマ唄をお唄いになりませんから」
「そうなの? ちなみにおばあさんって何をしてた人?」
「あの、驚かないでもらえますか?」
すこしもったいぶったように清風は口ごもった。七海が黙ってうなずくと、清風は声のボリュームを落としてテーブルに上半身をのりだして囁くようにいう。
「お祖母様は、ユタなんです」
「ユタ!?」
七海は驚きに目を大きく見開いた。これまでに七海自身は話を聞いたことはあっても、実際にユタに出会ったことはなかった。
ユタというのは、沖縄や奄美大島に古くから根付いている呪術信仰的な民間霊媒師、いわゆるシャーマンだ。奄美大島では古くからこのユタを「ユタ神様」と呼び、吉凶の占いや祈祷、身体的な不調の平癒、時には死者の言葉を伝える口寄せなどを依頼するために、彼女たちを訪ねるのだ。
ユタの存在は決して公にされるものではなく、人伝にユタ神様を紹介してもらい、依頼者が直接ユタ神様に祈祷の依頼をするのだという。
「ユタということは、おじいさんの口寄せもできるってわけ?」
「できるかもしれません。ただ、たとえお祖父様の口寄せができても、上村百合子の居所は知りませんから、結局は私たちが調べるほかないので、やはり、皆さんにお手間を取らせてはいけないかと思い直しているところです」
「そんなことはないって。どうなるかはわからないけれど、上村百合子は奄民の活動にプラスになるかもしれないし、もしかしたら奄美民謡界にとっても貴重な存在かもしれない。調べる価値はあるよ」
「ありがとう、ナナちゃん」
清風が安堵したようにいった丁度そのとき、李心と碧が揃って入ってきた。李心は部室に来るなり、席にも座らずに「今日は練習中止して、早速図書館にいってみようよ!」と息巻いていた。もちろん、目的は上村百合子について調べるためだった。
結局、その日の練習をとりやめ、四人は図書館へとむかった。高校を出てバス通りを南へ曲がり、出発してから十分もかからずに奄美図書館に到着した。
建物の南側がガラス張りの逆円錐台型になった近代的な特徴のある建物であるにも関わらず、各フロアの間で庇のようにぐるりと渡された足場が、まるで古代ヨーロッパの石造りの塔を思い起こさせた
四人は階段で二階にのぼり、閲覧室の適当な場所に席をとると、小声で話す李心の声が聞こえるように顔を寄せあった。
「それじゃあ、あたしとサヤカは歴史系の書架、ナナとミドリは郷土関係の書架をあたってみよう」
「わかりました。ただ、私は以前にシマ唄系の蔵書はかなり調べたのですが見当たらなかったので、別の切り口で当たったほうがいいかもしれません、ナナちゃんたちにお願いしていいですか」
「オッケー、わたしとミドリでシマ唄以外の文献を探してみるよ。ミドリ、わかった?」
「まかしといて!」
「じゃあ、今四時だから、三十分後にもう一度集合で」
李心の声を合図に四人はそれぞれ、目的の本棚へとむかう。七海と碧は郷土関係コーナーで二手に別れて探すことにした。
背表紙を一冊ずつ目で追いながら、気になる本を手に取り、目次にざっと目を通すが、それらしい本にはなかなか出会えないままに、三十分があっというまに過ぎようとしていた。
反対側の書架を探していた碧が「ナナちゃん」と小さな声で呼んだ。七海が近寄ると、碧は一冊の写真集のようなものを手にしていた。
『写真で見る奄美近代史』と題されたその本は、昭和初期から戦後の軍政下、そして本土復帰後の奄美についての様々な写真と、それに関わる記事が掲載されていた
「これ、もしかしたら、サヤカちゃんのおじいさんかも」
碧が指差したその写真には、着物を来た男性と女性が、集まっている村人たちのまえでおそらくはシマ唄を唄っていると思われる写真であった。その男性は三線を演奏していた。
記事のキャプションには「住民の前で島唄を歌う唄者」とだけ記載されていて、唄者の氏名までは書かれてはいなかった。
七海はその写真誌を手に閲覧室に戻ると、李心と清風に声をかけた。机に本を開くと、四人でむかい合ってその写真を取り囲むように見下ろした。
写真をみた瞬間、清風が息をのんだ。かすかに目元が潤んでいる。
「この写真、お祖父様に間違いないです」
「ということは、写真に写っている女の人が上村百合子かもしれないな」
そういって写真を見つめる李心が押し黙ったので、七海が「リコ、どうした?」と呼びかけると、視線を写真に固定したまま、李心は難しい顔でいった。
「この人、なんかあたしに似てると思わない?」
三人が顔をあげて李心をじっと見て、ふたたび写真に視線を落とした。
政二郎の隣にたって唄を唄っていると思われる女性は、画像が鮮明ではなく判別しづらいものの、いわれてみれば目鼻立ちが李心に似てなくもない。碧が写真と李心の顔の間でもう一度視線を往復させる。
「リコちゃん、もしかしてタイムスリップしてきた?」
「そんなわけないだろ! けど、この写真だけじゃ手がかりに乏しいな。何か他に情報はないかな?」
「出版社とか編集者とかはわからないかな?」
七海がそういうと、本を背表紙の裏のページまでいっきにめくった。発行年は二〇〇四年、南海新報出版社という新聞社系の出版会社の名前と、指宿義之という担当編集者の氏名が載っていた。その名前を見て李心と七海が顔を合わせていった。
「指宿って、マサ兄と同じ名字だな。名前も似ている」
「もしかしたらマサさんの親戚なのかも。一度あたってみる?」
「そうだな。ここからならお店も遠くないし、いってみるか」
四人は荷物を抱えて立ち上がると、カウンターでその本の貸出手続きを済ませて図書館を後にして、足早に市内のアーケード通りへとむかった。
20
李心が古ぼけた看板がかかったパシフィック・ミュージックのガラス戸を開けて、中にいた女性店員に雅之を呼んでもらった。
「てんちょおー、リコちゃんが来てますよ!」
階段のしたから階上に大声で呼びかけると、わずかに間があって、パタパタとスリッパの音を鳴らしながら雅之がおりてきた。挨拶もそこそこに、李心はカウンターの上に例の写真誌を広げて、政二郎の映っているページを開いた。
「マサ兄、この人しってる?」
「ん、政二郎おじだね? 僕の三味線を作ってもらったし、名のある唄者だからよく知ってるよ。それが何か?」
李心は後ろに控えていた清風の腕をぐいと引っ張り寄せて、雅之の前に立たせると続けていった。
「実は、このサヤカのおじいさんがこの政二郎おじなんだけど、その隣に映っている唄者のことを知りたくて、マサ兄なら何か知らないかと思ってきたんだけど、どう?」
「ちょ、ちょっと待って。えっと、彼女は政二郎おじのお孫さん?」
「はい、はじめまして。泊清風と申します」
丁寧なお辞儀をして清風が挨拶をすると、雅之も背筋をぴしっとのばして腰を折った。今まで李心にも七海にも見せたことがない慇懃さだった。
「こ、こんにちは。政二郎おじには本当にいろいろとお世話になって、ご恩もお返しできないままに亡くなられてしまって、本当に、あの、なんというか……」
「マサ兄。とりあえず今、サヤカのことはいいから。それでね、この隣に映っている女の唄者のことを知らない?」
「えっと、もしかしてこれは巡業中の写真かな? だとしたら上村百合子だろうとは思うけれど、彼女は幻の唄者といわれていて、音源もなければ、奄美の本土復帰後に本土に渡ったという情報以外は何もないんだよ。それこそ、島の著名な唄者連中があちこち探しても見つからなかったらしい」
「その上村百合子について、今あたしたちも探しているんだ。サヤカのおじいさんがなくなる前に、上村百合子の唄をもう一度聴きたかったといっていたらしくて、サヤカがどんな唄だったのかをどうしても聴いてみたいんだって」
「うーん、だけど僕も政二郎おじから、上村百合子については詳しく聞いていないしなあ。誰か知っている人がいるといいけれど」
腕組みして考え込む雅之に、七海が最後のページを開いてたずねる。
「それで、マサさんに聞きたいんですけど、この『指宿義之』っていう人を知らないですか? この本の編集者らしいんですけど、もしかしたら何か知っていることがないかと思って」
「義之おじなら、僕の親戚だよ。出版社に働いていたから多分そうだと思う」
「本当ですか!」
声を弾ませて七海がカウンターに身を乗り出した。その勢いに雅之が半歩さがる。
「返事をもらえる確約はできないけれど、聞くだけ聞いてみるよ。それで何を聞いたらいい?」
「ありがとうございます、マサさん。それじゃあ、この泊政二郎と一緒に唄を唄っていた女性唄者のことで、当時のことを知っている人がいないかどうか、もしくは何か手がかりになる資料がないかを知りたいんです」
普段、七海があまり見せることがないような懇願した目を雅之にむけた。その視線に余儀なく了承させられた雅之は、ため息をもらしながらいった。
「わかった。何かわかればリコちゃんに連絡するよ。まあ、あまり期待はしないでよ。ところで、ミドリちゃんだったかな? どう、あれから練習頑張ってる?」
「はい。マサさんのお陰でヨイスラを唄って、サヤカちゃんも入部してくれたし、あの三線がサヤカちゃんのおじいさんのものやって知って、さらにびっくりしました!」
「そう。それにしても、こういうことは廻り廻ってくるものだね」
雅之がいうと、碧もニッと笑って「この調子で、多分、上村百合子のこともわかるんちゃうかな」と能天気にいった。
21
雅之から連絡があったのは翌日の昼間だった。四人で集まって食堂で昼ごはんをとっていた時に、李心のスマートフォンに雅之からの着信が入った。李心が「マサ兄だ」というと、全員の視線が彼女の手元に集まった。
「もしもし……」
李心が通話状態にすると、スマートフォンの受話部から雅之の声が漏れ聞こえてきた。かすかに興奮したように熱がこもった声をしている。
『例の上村百合子の件なんだけれど、おじがあたってくれて、南海新報社の方がそれらしい映像を持っているらしいんだ。それで、急なんだけれど、今日の夕方、学校が終わってからお店まで来れる? 僕も一緒に南海新報に行くから』
李心は「行く!」と即決した。周りにいた三人ともそのつもりでうなずいている。
『それじゃあ、学校が終わったら一旦僕のお店に来てもらって、そこから一緒に車で行こう。あと、悪いんだけれど、三味線を一本持ってきてもらいたいんだけど、大丈夫?』
「それは大丈夫だけど、演奏するの?」
『詳しくはお店で話すよ。とにかく、放課後。なるべく早くお店に来てよ』
「わかった、ありがとうマサ兄!」
李心は興奮を抑えきれない様子で電話を切ると、三人に放課後の段取りについて打ち合わせをはじめた。雅之から頼まれた三線は、普段から持ち歩いている碧が持っていくことになった。
その日の授業が終わると、碧の三線を取りに一度部室に寄って、その足で四人は学校を出てパシフィック・ミュージックへとむかった。
店内で待っていた雅之は、開口一番、「三味線、持ってきたね。とりあえず追って話をするから、駐車場まで行こう」といって、四人を連れてアーケード横の駐車場へとむかった。店名が大きくプリントされたライトバンに乗り込む。雅之がエンジンをかけると、彼女たちの座るビニールレザーのシートに小刻みな振動が伝わってきた。そのまま、車は大通りを北にむけて出発した。
まっすぐに前を見てハンドルを操作しながら、助手席に座る李心に雅之が話しかけた。
「実は、今回映像を見せてくれることになった人は、政二郎おじと交流のあった唄者でね、戦後にアメリカ軍が取材していたフィルムをどこからか入手して、それが彼が勤めてた当時の新聞社に保管されていたそうなんだ。義之おじの伝手で今回フィルムを見せてもらえることになったんだけれど、そこで、一つお願いがあってね」
「お願い?」
「シマ唄を唄ってほしいんだ。できれば、政二郎おじのお孫さんのサヤカさんに」
指名を受けた清風が「私ですか?」と驚きの声をあげる。雅之はちらりとバックミラーで清風の反応を伺うと続けた。
「その唄者さん、政二郎おじが亡くなって大変気を落とされていたそうで、今回政二郎おじの映像を見せる段取りをする代わりに、お孫さんの唄を是非聞かせてほしいといっていたんだ」
「でも、私はお祖父様の唄を唄いこなせるわけではありませんし、その唄者さんがご満足される唄を唄えるかどうか……」
「そんなことは百も承知で、その上でお願いしているんだ。誰かのために唄うことだって、立派なシマ唄の役目なんだ。人の心に染みる唄は唄を上手にコピーすることじゃない。聴く人の心に届くように想いを込めた唄が、人の心に響くんだ。きっとその唄者さんも喜んでくださるはずだよ」
雅之はそういったものの、まだ決心できずに悩んでいる様子の清風に、隣に座っていた碧が「サヤカちゃん」と呼びかける。清風が振りむくと、碧はいつもより少しだけ真面目な顔をしていった。
「あたし、下手くそやけどお囃子するで。前にもいったけど、あたしサヤカちゃんと一緒に唄いたいって思ってる。やから、一緒に唄おう。サヤカちゃんの唄やったら絶対届くはずやから」
「一緒に、唄ってくれるんですか?」
「当然やん? あたしたち奄民の仲間やし、なんならナナちゃんとリコちゃんも唄うし」
「そうだよ、サヤカ。合宿でいっただろ、わたしたち、奄民四人で仲良くやろうって。まだ遠慮しているのか?」
そういって七海は清風の肩にぽんと手をかける。その言葉に迷いが吹っ切れたように、清風の瞳に力がみなぎった。
「いえ、やりましょう。お祖父様の唄にはならなくても、今の奄民の、私たちの唄を聞いてもらいましょう」
「よし。それじゃあ、むこうについたら早速お願いすると思うから、今の間に唄う曲と歌詞を決めておいてね」
安心したように雅之がいった。車が港通りの信号を左に曲がると、目指す南海新報社の社屋が見えてきた。
駐車場に車を停めると、四人は車を降りて目の前の社屋を見上げる。うす茶色いタイル張りの古めかしい建物がどこか厳つさを感じさせて、七海の胸の内にもいいようのない緊張感が生まれていた。