海とビーチパラソル
16
合宿二日目の日曜日も、目の覚めるような青空が広がっていた。
さとうきび畑が広がる景色を抜け、四人はバス通りを離れ防風林になっている松林の間の細い砂利道を歩いていく。
逸る気持ちが抑えきれない様子の碧が、振りむきざまに「みんな早く!」と叫んで、一足先に緩やかな坂を駆け下りていった。
「あたし、海にいきたい!」と朝食の席で何の前触れもなく碧がいった。
その言葉にきょとんとする李心や七海とは対照的に、清風が顔の前で両手の指を合わせていった。
「いいですね、海! 私もこのあたりの海にはまだ行ったことがなくて、一度行ってみたいと思っていたんです。せっかくですし、ちょっと早いですけれど、みんなで浜下れというのはどうでしょうか?」
浜下れというのは旧暦の四月に、集落の人たちが近くの海岸にいき、お弁当などを持ち寄って海辺で過ごすという行事で、もともとは、この浜下れの日にはかまどに火を入れたり、仕事をしてはいけないといわれていて、今でも五月の初旬ごろになると、奄美各地の集落では豊作祈願をしたり、舟漕ぎ競争をしたり、唄あしびをしながら海辺で過ごすのだ。
「ちょっと早い浜下れ」をすることに決めた四人に、桃子がおにぎりと簡単なおかずを重箱に詰めて持たせてくれた。
午前中の日差しが強くなりはじめた頃に、四人は李心の家を出発し、そこから歩いて十分ほどの土盛海岸へとむかった。
周りを松に囲まれた小さな駐車場を抜けると、強い太陽の光に一瞬、視界が真っ白に染まった。目を細めると、そこには様々な青色を塗り重ねたような海が、穏やかな波音を響かせて広がっていた。
波打ち際からは砂浜が緩やかな上りになっていて、防潮堤の手前からグンバイヒルガオやハマゴウが淡い紫色の花を咲かせていた。駐車場から浜辺に降りるところは人が踏みしめて、砂地の小径を作っている。
「うわあ、綺麗!」
大きな帽子のつばがつくる翳の奥で、こぼれそうなほどに大きく目を見開いた清風が感嘆の声をあげた。
土盛海岸は奄美で最も美しい海とも評される海岸で、三日月形のビーチのむこうは透明度の高いブルーグラデーションに、岩礁化した珊瑚が黒くまだら模様を描いている。
地元の絶景スポットに自慢げに胸を張る李心の元に、一度波打ち際まで走っていった碧が、砂を蹴散らしながら駆け戻ってきた。
「リコちゃん、もう泳げるん!?」
「まあ、大丈夫だとは思うけど、まだ寒くない?」
そういう李心に「全然、暑いくらいやし」といって再び波打ち際へと駆けていく碧の後を「ミドリちゃん、待ってください!」と清風もついていく。美しい土盛の海に溶けるような淡いブルーのワンピースが浜風にはためいた。
七海と李心は砂浜を這うように広がるグンバイヒルガオと砂浜の境目にレジャーシートを広げると、ザッとビーチパラソルを砂地に突きたてて傘をひろげた。
浜辺を渡る心地よい風に長い髪をなびかせて、七海はパラソルの作る日陰に腰を下ろし、波と戯れる碧と清風を眩しそうに眺める。李心が手についた砂を払いながら、七海の横に座った。
「ナナ、どうだった?」
「何が?」
「昨日の夜だよ。サヤカと二人で話できたんだろ? 思っていたことは話できたのか?」
「ああ、唄を唄わないといっていた理由は昨日サヤカが話してくれた通りだよ。ただ、聞こうと思っていたメグミさんのことについてはまだ。その前にもうひとつ謎が増えてしまったからね」
「幻の唄者か」
七海は水平線を見つめてわずかにあごを沈めるようにうなずく。
昨晩、清風が「甘えついでに」と七海に話したのは、幻の唄者「上村百合子」についてだった。
清風と二人でお風呂に入りながら、七海は何故そんなことをいい出したのかとたずねてみた。すると、清風は「すこし長くなりますが」と前置きをして話しはじめた。
その上村百合子という唄者について、清風が知っていることはいくつかあった。
まず清風の祖父、泊政二郎と、戦後、アメリカ軍政下の奄美大島でシマ唄巡業をして回ったということ。次に、奄美が本土復帰した直後、本土にわたり行方が分からなくなったということ。そして、音源は残っておらず、政二郎は存命中に「上村百合子の唄は、カサン節の母の唄だ」といっていた、ということだった。
清風が祖父に「カサン節の母の唄」とは何か、とたずねたところ、政二郎はこう答えたという。
「上村百合子ぬ唄や、ワン母親ぬ面影が立ちゅん。じーき懐かしゃはら唄ぁ、しんしょおたち」
祖父のようなシマ唄の名手をもってして、母を思い起こさせるといわしめた唄。それが清風は気になっているのだという。政二郎が亡くなった後も、図書館などでシマ唄の文献を調べてみたものの、上村百合子についての記述には出会えなかったらしい。
「私、上村百合子という唄者がどんな唄で、戦後の奄美の人たちに生きる活力を与えたのか、それが知りたいんです。もしかしたら、そこには私たちが目指す唄あしびのヒントがあるような気がするんです」
「ヒントが?」
「はい、前に誰かがいっていたのですが、私のお祖父様の唄というのは、舞台向きの唄なんだそうです。なぜかというと、昔の唄あしびでは、とても良い歌詞を思いついても、唄者はその歌詞を他人にとられないように、はっきりと発音しなかったり、歌詞の要所要所に長音を交えて唄うんだそうです。『言葉を練る』というそうです」
「へえ」と感心したように七海が漏らす。「けど、それだとせっかくのいい唄が、他の人には広まらないということになるね」というと、さらに清風は続けた。
「はい、ですからお祖父様も若い頃はシマの唄者の家の裏や縁側の下に隠れて、その唄を盗んだのだといっていました。そうやって、いい唄は自分で盗んできてものにするんだそうです。あるとき、集落で一番だといわれる唄者の家の床下に忍び込んだところ、そこに大きなハブがいて、大騒ぎをしてしまい、忍び込んだことがバレてしまった、とおかしそうに話していました」
そういって清風が肩を揺らした。
「そうやって、なるべく多くの人に伝わらないにように『言葉を練って』いたシマ唄を、お祖父様はより多くの方が聞きやすいように、節回しは変えずに、はっきりと発音をするようにし、各地に出向いて多くの人に、自分のシマ唄を届けたのだそうです。お祖父様は奄美のほとんどのシマに行ったことがあると、誇らしげにいってました。
奄美が本土復帰した後、お祖父様は足繁く本土へと渡ったそうです。奄美には録音設備の充実したスタジオがなかったので、わざわざ船で大阪や神戸にいって、シマ唄の録音をされたそうです。島中の唄者仲間たちが、お祖父様を頼って録音しに行ったそうで、頻繁に本土に行くことになったことから、ついにはお祖父様は海運会社まで作られたんです。それが、今のマルハク海運なんです」
「マルハクって、フェリーあかつきと、うみのみちを持ってる会社!?」
七海が清風に詰め寄ると、清風は少し恥ずかしげに顔を赤くしてうなずいた。大阪、鹿児島、奄美、そして沖縄までをつなぐ長距離フェリーは島の物資輸送に欠かせないライフラインだ。清風はその海運会社の創始者の孫だったのだ。別の意味で驚かされた七海が、口を開けて固まっていると、それに構わず清風は続けた。
「お祖父様はシマ唄を『奄美だけの文化にして廃らせてはいけない。戦争が終わり、奄美が本土に復帰した今、奄美の歴史や文化を知らしめて、多くの人をシマに呼ぶために、シマ唄はなくてはならない』といって、精力的に本土の人にかけあってシマ唄の公演にも出向いたんだそうです。フデさんがお祖父様を『スーパースター』とおっしゃったのは、そういうことだと思います。奄美を思い、奄美のためにシマ唄という活力源を使って奄美に尽くしたお祖父様を、皆が慕ってくださったんだと思います。
そんなお祖父様が晩年、ずっとおっしゃっていたのが、上村百合子の唄をもう一度聞きたいと。お祖父様は自分が見て回った、昔懐かしい奄美の風景を、もう一度思い返したかったのかもしれません」
そこまいうと、清風は「すこしのぼせちゃったみたいです」と赤い顔をして先に浴室を出ていった。
17
波打ち際で遊んでいた碧たちが大きく手を振って、李心と七海を呼んだ。二人は立ち上がって砂浜をあるきだす。大きく三日月形の湾になった土盛海岸には、彼女たち四人以外には人影もなく、プライベートビーチのようだった。
まだ海水温が高くなく、泳ぐには冷たそうだなと、七海はサンダルの足先を海に浸して考えた。ガラス細工のように透明な波は、沖にいくにしたがって少しずつ青色を濃くし、水平線近くでは濃紺のインクのように深い蒼となって、空との境界線を緩やかな丸みをつけながら描き出していた。その上に、まだ生まれたての入道雲が空の彼方へと手を伸ばしている。
「ミドリ、あんまりはしゃぎすぎてると、転んで濡れるぞ」
七海の言葉に、「平気、へーき!」とふざけていた碧は、大きな波にバランスを崩して豪快に水しぶきをあげながら尻もちをついた。
「ほら、いわんこっちゃない。大丈夫か?」
あきれ顔で李心が碧に手を差し出すと、その手をとった碧が口元を一瞬歪めてみせて、そのまま李心をザブンと海へと引っ張り落とした。「おぶっ!」と、妙な声をあげて、頭を海面にだして息継ぎをすると、李心は「このやろー!」と大笑いしている碧に飛びかかった。
ずぶ濡れになる二人から避難をするように、後ずさる七海の背後から「ナナちゃん」と清風の呼ぶ声がした。
「何……」と七海の振り返りざまを、清風が「えい」と両肩を軽く突き飛ばす。まるでドミノ倒しをするように、七海は直立したまま、派手な水音をあげて背中から海の中へと沈んだ。
一瞬にして、七海の視界がゆらゆらと揺れる透明な空間に変わり、いくつもの気泡が目の前を揺らめきながら立ち上っていくのが見えた。
そのとき、急に時間が止まったような感覚が七海を包み込んだ。
なんだ、清風だって李心みたいなバカをやるんじゃないか。
結局、何にでも線を引いて、はっきりさせようしていたのは、わたしの方だ。本当はもっと、曖昧につながっていたって良かったんだ。李心みたいにてげてげでいることが、ちょうどいい距離感なんだ。
そう思うとなぜか急に可笑しくなった。
ザバンと音をたてて七海が海面に顔を出した。長い前髪が顔中に張り付いて、ホラー映画のポスターのような様相だった。お気に入りのTシャツもピッタリと体に張り付いて、細身の体型をまるで彫像のようにくっきりと浮かび上がらせていた。
「あの、ごめんなさい。ナナちゃん。冗談のつもりだったんだけど、思いの外強く押しちゃったみたいで」
うろたえる清風にむけて「起こして」といって七海が手を差し出した。七海を引っ張り起こそうとして掴んだ手を、今度は七海がぐいっと引っ張って清風を海中に引き倒すと、ケラケラと楽しげな笑い声をあげた。
「あはは、お返し。これでみんな平等にびしょ濡れだね」
昔みた童話おやゆび姫の挿し絵のように、まるで花の真ん中に座っているみたいに、丸く広がったワンピースを波に揺らめかせながら、「やっぱり四人同じがいいですね」と、清風も嬉しそうに笑った。
18
博貴が四人を車で送ってくれるというので、少し早めの夕飯を済ませると、四人は荷物をまとめて帰る準備をはじめた。博貴のステーションワゴンは四人の鞄と三線を積んでも、まだ余裕があった。
玄関まで見送りに出てきてくれたフデに四人揃ってお礼をすると、フデは「また、いつでもいもりんしょりよ」と柔らかなしわがれ声でいった。別れ際に七海がフデに「フデおばに聞きたいことがあるんだけど」と切り出した。不思議そうに小首をかしげるフデに、すこし間を取って、はっきりと七海はいった。
「フデおばは、『上村百合子』って知りませんか? わたしたち、上村百合子について興味があって調べようと思うんですけど」
「すみょらんやー。ばあちゃんも聴いたことのない唄者じゃて、わからんちば」
「そう」といって七海は目を伏せた。すぐにいつものように大人びた笑顔を見せた。
「全然、気にしないでください。聞いてみただけだから。それより、いろいろとシマ唄教えてくれてありがとうございました」
「まだまだ、もっと覚えんばいかんことやいっぱいありゅんど。ばあちゃんが生きとる内に、また習いにいもりよ」
声を揃えて四人はフデにお礼をいい、車に乗り込むと、ステーションワゴンは力強いエンジン音を響かせて、坂道を下って行った。走り去る車の後ろ姿にフデと桃子はずっと手を振って見送っていた。
車内で七海がぼんやりと山のむこうが赤から深い紫へと塗り変わっていく様子を眺めていると、博貴がおもむろに口を開いた。
「みんな、またいつでも遊びにおいで。何もないところだけれどね」
「案外そうでもなかったよ。この見慣れた景色も、父さんたちの宴会も、みんなといるとまた違って見えた」
助手席の李心が、窓の外に視線をむけたまま呟いた言葉に七海ははっとした。
小さなころから当たり前にある海も、李心と当たり前のように唄ってきたシマ唄も、誰かにとっては当たり前ではなく、かけがえのないものであったり、悩みの種になったりするのだ。
七海のそばにいる三人も、今は当たり前のように一緒に過ごしているが、彼女たちが奄美大島で当たり前に過ごせる時間は長くはない。三年後には、多くの高校生たちは島を離れて、本土か沖縄に進学や就職をするためだ。
「それなら、実家を出て高校に通っている意味もあるってもんじゃや。みんながリコのことを成長させてくれたっちゅうわけじゃ。良かったや」
「そうかもね」
そこで二人の会話は終わる。ラジオからは奄美大島ゆかりのアーティストの曲がランダムに流れていた。隣がやけに静かだと思って、碧と清風を見ると、二人は頭を寄せ合って眠り込んでいた。
七海がこの合宿で考えていたことは、半分は思った通りになり、もう半分は思いもよらない方向にむいた。けれど、それはある意味では、奄民の今後の活動に影響があることかもしれない。そのきっかけを清風はくれたのだ。
「リコ、上村百合子のことだけど」
「うん、あたしも興味あるよ。どうにかして調べてみよう。何か手がかりがあるといいんだけどね」
「サヤカのおばあさんに聞いてみたらどうだろうか。何かわかるかもしれない」
「そうだな。明日改めて学校でサヤカにも聞いてみよう、今は……そっとしておいたほうがいいだろうし」
東の空はすっかり夜の色に変わっていた。登りはじめた月が鏡のように穏やかな龍郷湾に、白く光の道を作っていた。
彼女たちの最初の合宿が終わろうとしていたが、それはまた別の好奇心の扉の入り口でもあった。