幻の唄者
14
午後九時を回る手前で、桃子の「あんたたち、さっさとお風呂入っちゃいなさい」という鋭い声で、半ば強制的に唄あしびはお開きになった。居間を辞する四人についていくように「でぃ! ワンもいくまい!」と立ち上がった貴裕に、李心が鮮やかな廻し蹴りを放って畳の上に沈ませた。
いったん李心の部屋に戻った四人は「お風呂の順番を決めよう」という李心の提案で、即席のくじを作って引く。その結果一番を引いた碧が、鞄から着替えを取り出し、「じゃあ、お先にお風呂いただくね」といって李心の部屋をでると、二番を引いていた李心も、いそいそと自分の着替えの準備を用意しはじめた。
「リコ……何やってるの?」
不審な目をむけて呼びかけた七海に、妖しげな薄笑いを浮かべて「スキンシップ」といい残し、李心も部屋を出ていった。
李心が出ていって一分もしない内に廊下の奥から「のわああぁ!」という奇妙な悲鳴と、豪快な水音が響き渡った。
「リコちゃん、本当に行っちゃいましたね」
扉口から首だけを出して様子をうかがっていた清風が惚けたようにつぶやくと、部屋で学習机の椅子に座っていた七海は呆れて嘆息した。
李心の行動は唐突すぎて、いつも七海が置いてけぼりをくらってしまう。けれど、毎回そんな李心に助けられてきたことを思い出し、これもまたいつもの李心なりの考えなのだろうかと推考する。七海が清風と話をしたいと思っていたことを李心は知っていた。だからこそ、こうやって二人の時間を作ったのではないか。
七海は黙考し、ひとつの結論を導く。
おそらく「スキンシップ」は単純に李心の本音だろう。
彼女は昔から七海が泊まりに行くと、いつも七海の入浴中に乱入してきていた。小学生のときは確かに、桃子に「一緒に入っちゃいなさい」とついでのように李心と一緒に入浴していたが、それが中学生になっても相変わらず七海と一緒に入浴しようとするので、さすがに七海がやんわりと拒否すると、「女だってハダカの付き合いが大事だろ!」と無茶苦茶な持論を盾に結局それをやめることはなかった。
つまるところ、李心は他人と風呂に入りながら話をするのが好きなのだ。しかし、そのことが結果的に清風との二人の時間を作ってくれたことは、七海にとっては願ってもないことだった。
戻ってきて李心のベッドの端で背筋をぴんと伸ばして座った清風に、七海は回転する椅子ごと体をむけた。なぜ民謡を唄わないといったのか、二人きりの今ならば聞けそうな気がした。意を決してきっと顔をあげると「サヤカ」と呼びかける。清風は突然真剣な眼差しをむけられて、さっきよりもさらに惚けた顔を作った。
「わたしね、どうしてサヤカがあんなに唄がうまいのに『民謡は唄わない』といって伝芸の勧誘を断り続けていたのか、それがずっと気になってたんだ。今日だって、みんなで唄あしびをしている時は、すごく楽しそうにしているから、シマ唄が好きなんだっていうことはわかる。でも、李心が勧誘にいった時の話だと民謡と聞いて『寂しそうな顔をした』っていうし、民謡大賞で最優秀賞を獲ったことを『意味のないこと』だといったって……」
七海の話に、清風は微かに視線を伏せ、顔に翳を作ったが、反論をして来る様子はない。ただ、じっとして七海と目を合わせずに聞こえてくる声に耳を傾けていた。
「もし、いいたくないことなら、この話はもうしない。けど、わたしは……」一度ぐっと息を飲み込む「何も知らないままサヤカと友達面して表面上で付き合うことはしたくない。わたしは、リコみたいに誰とでもすぐ仲良くなったり、ミドリみたいにコミュニケーションが上手じゃない。わたしにとっての親友はいままでリコだけだった。だけど、今はミドリもサヤカも親友だと思ってる」
七海の口の中はからからに乾いていた。考えもまとまっていないままに、思いつく言葉を垂れ流す自分に辟易とさえしている。けれど、いつもリコがいっていた。「考えていたって前に進まないでしょ」と。今、七海を突き動かしていたのは思考ではなく、体の底から湧き上がる偽りない感情だった。
「だから、サヤカのことをちゃんと知って、きちんと受け止めてあげたい」
まっすぐに清風を見つめていると、それにこたえるように清風はゆっくりと視線をあげて七海と目を合わせた。微かに目の縁に赤みが滲んでいる。
「私のほうも、ナナちゃんもミドリちゃんも、もちろんリコちゃんも、とっても大切な友達だと思っています。みんなと一緒に唄あしびをやりたいといった私の気持ちに偽りはありません」
そこでいったん言葉をきる。それだけではダメ? とでもいいたげな寂しげな視線に七海の胸がチクリと傷んだ。これ以上問いただせば、きっと清風のことを傷つけてしまう。そんな気がして、どこか諦めにも似た感情が、暗雲のように七海を覆い尽くしていく。
無理にでも納得しようと思った時、清風はふたたび悲しげに目を伏せて、七海から視線をはずすとポツリとつぶやくようにいった。
「つまらない、ほんとうにつまらないことなんです」
「サヤカ、いいたくなければもういいんだ。変なことを聞いて悪かった……」
そのとき、ベッドに座っていたが清風が、一瞬にして七海の手の届く距離に詰め寄っていた。
えっと驚きの表情を浮かべた七海の手を、清風の両手が包み込み、胸の高さに握りしめた。
「もしかしたら、私はずっと誰かにいいたかったのかもしれません。けれど、そのことでその人に嫌われたらと怖くていえなかった。ナナちゃんは、私が嫌な子だと思って嫌いになったり……」
「そんなわけないだろ!」清風の声を遮って七海が声を張り上げる。「あまり見くびらないでよ。サヤカのこと、本当に親友だと思ってるんだ」
まるで叱りつけるような声の鋭さに、一瞬たじろいだ清風だったが、七海の手を握りしめたまま、穏やかな口調で過去の出来事を話しはじめた。
「中学校でも私のことを『親友』だといってくれていた子がいたんです。その子もシマ唄を習っていて、よく学校帰りに浜辺で唄って遊んだりもしました。その子もとても唄が上手で、私はその子の唄も大好きでした。ある日、姉さんが民謡大賞に出場することを知って、私もその子と一緒に出場することにしたんです」
「それが去年の?」
「いえ、初めて出場したのは二年生のときで、二年続けてその子と一緒に出場しました。二年生の時にも彼女は奨励賞を取るほど、とても上手な唄者だったんです。そして、去年の民謡大賞のときでした」清風は息をついて、微かに目を潤ませた「私は最優秀賞をいただいたんですが、その子は優秀賞でした。お互いに頑張って獲った賞だったのでとても嬉しくて、表彰式の後にその子とお祝いをしようということになったんです。ただ、表彰式が終わり、いろいろと取材を受けている内に、その子は先に控室に戻ってしまいました。私の取材が終わって慌てて控室に戻ろうとした時、控室前の廊下に彼女とその友人の声が響いてきました」
しばらく清風は黙ったまま俯いていた。壁掛け時計がカチコチと時を刻んでいる。その間は数十秒もなかったかもしれないが、七海には相当長い時間に感じられた。
やがて清風は夏の羽虫のように小さい消え入りそうな声でいった。
「その友人は『あなたのほうがサヤカよりも上手かったのに、どうしてサヤカが最優秀賞なの?』と、不満をあらわにしていました。そして、それをきいた彼女がはっきりといったんです。『コネがあるからでしょ? サヤカの姉さんも民謡大賞とってるじゃない』と。私はもうどうしていいのかわからず、控室には戻らずにそのままロビーの隅でただじっと座って、全員がいなくなるのをただ待っていました。たぶん……」すっと顔をあげた清風と目があった。清風はまぶたにこぼれそうなほどの涙をためて微笑んでいた。「泣いていたと思います」
そのあと、巌がロビーに一人でいる清風を見つけ、控室から清風の荷物を持ってきて、車に乗せてくれたという。結局、その友人とのお祝い会もやらずじまいで、巌に送ってもらう車中で「もう民謡は唄いたくない」といったのだと、清風は話してくれた。
七海は胸が塞ぎこまれたように、何度も浅い呼吸を繰り返した。面とむかってではないとはいえ、親友だと思っていた友人に、そのような言葉を投げつけられた清風の気持ちを思うと、胸が押しつぶされそうになる。もし、自分が清風と同じ状況で李心にそういわれていたら……きっと耐えられない。
「その子には、緊張が緩んで、体調を崩して倒れてしまったと嘘をついてしまいました。そして、民謡は受験勉強をするからやめるといって、その子とも二度と唄いませんでした。結局、民謡大賞は私の友人を一人奪っただけ。だから、私にとっては意味のないものなの」
「そう、だったんだ。そのことはガンちゃ……イワオ先生とか、お姉さんのメグミさんにもいわなかったの?」
「兄は頭のいい人ですから、私がいわなくても何かに気づいたかもしれませんが、姉さんには何も話していません。せっかく大賞を獲ったんです。わたしの個人的な感情で、姉さんに変な気を遣わせたくなかったんです。変な噂が立つことが嫌で、姉さんと一緒の舞台に出ることもやめました。もっとも、姉さんとはその頃から微妙な距離感ができてしまっていたので、気にかけるようなこともなかったのですが」
ぽつりぽつりと清風の口から言葉がこぼれ出る。七海は清風が握りしめていた自分の手を、そっとほどくと、軽く握って両膝の上に揃えて姿勢を正した。
「サヤカ、わたしサヤカに謝らなくちゃ」
驚いた顔で「どうして?」と聞き返す清風に七海はいった。
「わたし、リコからサヤカが民謡をやらないと聞いて、イワオ先生に話を聞きにいったり、サヤカのことを嗅ぎ回るようなことをしてしまってた。そのうえ、先生の話を聞いて『サヤカが大賞を獲ったメグミさんに嫉妬して、自分の評価がされないなら民謡を唄いたくないんじゃないか』なんて、勝手な想像までしてた。本当はサヤカがこんなに苦しい思いしていたなんて、全然知らなかったくせに」
「な、ナナちゃん、やめてください。そんな。私の方こそリコちゃんの話をよく聞きもしないで思い込みでいろんな人を振り回してしまいましたから、おあいこです」
清風は慌てたように両手を突き出して手のひらを振ると、唇を噛んで俯く七海のそばに寄って、もう一度手を握ってきた。指先まで丁寧に手入れされた清風の指は温かくて、触ればくにゃりと潰れそうなほど滑らかだった。七海を覗き込むように見あげたその目にはもう哀しい色は消えている。
その顔を見て、七海はまた胸が大きく、どくんと脈打つのが感じられた。途端に顔中に体温が集中したように頬が火照る。
七海が言葉を探していると、部屋のドアが勢い良く開かれて、むき合っていた二人はびくんと体を強張らせた。
15
顔中をつやつやに輝かせて満足げな李心と、なぜか一番風呂に入ったのにくたくたに疲れた様子の碧が、入浴を済ませて部屋に戻ってきた。
碧は七海と清風の姿をみて一瞬、びっくりして目を大きく見開いたが、すぐに意味ありげにニヤニヤとした笑いを浮かべて、二人のそばへにじり寄ってきた。
「あたしがリコちゃんの相手させられてる間に、二人、何かあったやろ!」
七海は慌てて手を解いて七海は「別に」ととぼけてみせたが、清風はその大きな瞳を潤ませながら目を細めると「はい、ありました」とくしゃっと顔を綻ばせた。
結局、清風は戻ってきた李心と碧にも、ついさっき七海に話したことと同じ内容の話を繰り返した。ただ、今度は七海のときに見せたような哀傷の表情はなく、まるで他人の昔話を語るような、淡々とした口ぶりだった。
しかし、その話を聞いた李心と碧は、七海と同じく心を痛めたように心悲しい顔をしていた。
「サヤカ」
話し終わって最初に声を掛けたのは李心だった。
「ナナってさ、真面目なくせに不器用で、心の壁が異様に高くて、なかなか人に心開いたりしないんだけど、だからこそ自分の心を許した人には、ちゃんとむき合ってくれるし、ものすごく頼りになるんだ」
そういって顔を緩ませると「まあ、あたしは頼りっぱなしで怒られちゃうけどね」と、おどけてみせる。可笑しそうに笑った清風を見て、李心は安心したように言葉を継いだ。
「だからサヤカも、もっと無防備に飛び込んできても平気だからね。あたしたちに、甘えたり、頼ったり、なんならサヤカがナナのことを遣ってやっても全然構わないってわけ。ほら、ナナって結構、頭いいし」
「リコが勝手に決めるな。でも、サヤカ。わたしもリコとおなじだよ。わたしもサヤカに遠慮したり、気を遣うことはしないよ。だから……」
七海は今朝、バスの中から見たあの海岸の光景を思い返しながら、ああ、そうか。あれこれと考えて結局は、この言葉がいいたかったんだな、と思い遣る。
当たり前だと思っていたものは、見方を少し変えただけで、かけがえのない大切なものになる。
シマ唄という共通点を持っていながら、それぞれ思いも、取り組んできた過去も、始めた動機さえ違う。楽しく唄いたい。その目的は同じでも、決してすべてが同じに見えるわけではない。けれど、それならばみんながそれぞれの価値観を出しあって、みんなでいろんなものの見方をしながら、進むべき道を模索していけばいい。
それはつまり、こういうことだろう。
「わたしたち四人。これからも、ずっとみんな一緒に、仲良くしていこう」
七海の言葉に、瞳を潤ませて飛びついてきたのは、碧のほうだった。
「おい!」と首筋に抱きつく碧を邪険にしようとしたが、ふと思いとどまると、七海は清風に左手の人差し指をくいくいと曲げて「サヤカも来い」と合図を送った。
清風はそのジェスチャーに気づくと、相好を崩して、じゃれつく碧の上から覆いかぶさるように、七海に抱きついた。
七海に腕をまわして抱きつきながら、清風が上目遣いで七海を見上げると、遠慮気味にいった。
「ナナちゃん、甘えついでにひとつお願いがあるんですけど」
「お願い? いいよ、いってみてよ」
「それじゃあ、いいますね」七海の体から離れて立ち上がる。「実は……私、幻の唄者を探したいんです」
「幻の唄者?」
眉をひそめた七海に、上品な笑みを返すと、まだ碧が縋り付いてる七海にむけて清風は右手を差し伸べた。
「詳しいことは、お風呂に入りながら、ゆっくりとお話します」
振り向いた碧がなぜか不満げに「ええー」と声をあげた。