ばあちゃんの朝花
7
四人を乗せて発車したバスは名瀬の市街地を抜けると、奄美空港方面と表示された標識に従って右折した。青く芽吹いた若々しい森の木々が、窓の外を飛ぶように流れていく。
清風と碧が並んで座り、そのひとつ前の席を李心と七海が座っている。バスの中は人もまばらで、四人の賑やかな話し声がバスの後部で花咲いていた。
話題は碧が奄美に来てから、いろいろと驚いたことを関西人らしい軽妙な口調で語り、李心がそれに真剣なツッコミを入れるというパターンで、清風は絶えずころころと楽しげな笑いをこぼしていた。七海も座席に半身に座り、三人に微笑ましい視線を送りながら、そのやり取りを眺めていた。
ただ、七海は実際のところ、まだ清風という人物像をはっきりととらえきれていなかった。
楚々としてお嬢様らしい雰囲気をまとっているのに、激しめの洋楽のロックを聴いたり、世間に無頓着そうなのに、流行りものに目がなかったりもするし、真面目な性格をしているのに、碧の口にする冗談にもよく笑っているイメージがある。外見や性格と実態が一致しないのだ。シマ唄にしてもそうだ。ものすごくシマ唄が上手いのに、奄美民謡に対して拗ねたような態度をとる。そのくせ、部活動で唄あしびをしているときは、心から楽しそうな表情をする。
七海たちとクラスが違うということもあって、普段、部活以外の時間で交流を持っていないということも、清風という人物像をつかみきれない要員の一つなのかもしれないが、部活動でも七海はいつも清風との話の取っ掛かりがうまく掴めないでいた。
李心がいうように、七海はもともと誰とでも仲良くなれるような社交的なタイプではなかったし、清風が李心とは全く違うタイプであることも、彼女にとってはどうもやりにくかった。李心のようにはっきりとわかるバカをやってくれれば、それなりにツッコミも入れられるのだけれど、イメージと実態の乖離のせいで、正直なところ清風との距離感は掴みづらかった。
そんな七海と比べて、清風とすんなり仲良くなった碧は、やはり関西人らしくコミュニケーション能力に長けているのだろうかと、そんなことを考えながら碧と李心の会話を聞き流していた。
バスは新緑に覆われた国道五十八号線を北上し、龍郷町役場を過ぎていくつかトンネルをくぐった後、空港方面の県道へ右折する。ゆるやかな坂道を登り『77.7』と表示された地元エフエム局の大きな広告看板を過ぎたところで、右側の視界が一気にひらけた。道路脇に植えられたアダンの木が踊るように枝葉を広げる、そのむこうには太陽の光を吸収して鮮やかなマリンブルーに輝く広大な海原が広がっていた。
「見て見て! 海! 海やで!」
碧は窓ガラスに顔を押し付けるようにして、一枚の巨大な写真のような青い景色に目を奪われていた。海岸に近いところは、エメラルドグリーンをしている海面は、沖のほうで線を引いたようにきれいに色分けされていて、深いコバルトブルーに変わるあたりで、砕けた白い波が水平線と平行するように広がっている。淡い雲が広がる空は朝日に滲んで眩しいグラデーションを描いていた。
突然大声をあげた碧に、「ちょっと落ち着けって。海なんていつも見てるだろう」とたしなめる七海に、碧は興奮の熱を帯びた目を向ける。
「ここ、めっちゃ綺麗やん! すごい景色。こんな色の海、大阪におったら絶対に見られへんって。大阪の海って、どす黒い緑色で全然海っぽくないんやから」
「あげー、海が黒いの? 本当に?」
好奇心に満ちた大きな瞳をむけて清風が驚きの声をあげる。座面についた手に体重をかけて、体を傾けると碧のゆるやかな髪の毛に触れるくらいの距離まで顔を近づけた。
「うん、あそこで魚釣っても食べる気せぇへんよ。あたし、初めて奄美の海を見たとき、これがほんまもんの海なんや! って思った。写真とか、それこそテレビの中にだけあると思ってた景色が、奄美にはたくさんあるんやもん。すごい羨ましいって思った」
「それでも、あたしは大阪や東京のほうがずっと羨ましいと思うけどな」
碧の演説を途中でさえぎって李心が座席の背もたれに肘をつくようにして振りむいた。その眼差しはいつもの冗談めいたものではなく真剣そのものだった。
「数日間の旅行に来るだけなら、ミドリがいうことは正しいかもしれないよ。でも、あたしたちはここで暮らさなきゃいけない。奄美には都会では当たり前のものが何もないんだ。鉄道はもちろん、コンビニですら名瀬の街か国道沿いにしかない。病院に行くのだって、離れたシマの人たちは車でも何十分もかかる。あたしたちよりももっとずっと大変だよ。ミドリが奄美の海や自然に感動したように、あたしたちはきっと都会に感動すると思うんだ。だって、あたしたちの地元なんて遊ぶ場所、ほとんどないんだよ。USJとか、日本一高いビルとか、そんなの想像もつかないよ」
「確かに、李心の実家のまわりって畑と海以外、本当に何もないところだし、わたしの住んでる赤木名に来るだけでも山一つ超えるしね」
七海が苦笑いしながら李心の言葉を補った。それでもどこかどこか腑に落ちない様子で「うーん」と碧は唸っていると、清風が落ち着いた声でこの話を結論付けるようにいった。
「奄美では海も、山もここにあるものがすべてです。もちろん不便はありますけれど、決して不自由ではありません。子供も大人も、年寄りでさえ、今ここにある奄美を受け入れて暮らしている。きっと、それは私たちにとって普通なことなんです。ミドリちゃんの大阪にいろんなものがあることが普通なように」
「お互いないものねだりしてるだけなんかもね。でも、やっぱりあたしは奄美が好きやな。なんでって聞かれたらよくわからへんけど、ここにいることが自分にとっては特別なことやなくて、普通なことのような気がするねん」
碧がふいに口にした言葉に、奄美出身者三人は「ミドリは島の生活にむいてるよ」とクスクスと笑った。
8
空港まで車で迎えに来ていた李心の母が、手を振ってバスから降りてくる李心たちを出迎えた。バスを降りた李心は、約一か月ぶりの対面に小恥ずかしそうに口を開いた。
「おかあさん、ただいま」
「モモコおばさん、こんにちは」
李心に続いて降りてきた七海を見やると、李心の母の桃子は大げさに驚いたような表情を浮かべて、七海の肩にじゃれつくように手をかけた。桃子は李心とほとんど身長が変わらない上に、見た目がずいぶんと若く、李心と並ぶと年の離れた姉妹のようにも見える。友達のような気安さで桃子がいった。
「あげ、ナナちゃん久しぶり。ちょっと見ない間にまた大人っぽくなったねぇ。高校でもリコが迷惑かけてるんじゃない?」
「おかあさんは余計なこといわなくてもいいから! あと、こっちは民謡部で一緒にやってるミドリとサヤカ」
李心が降りてきた二人を桃子に紹介すると、碧と清風は頭を下げて口々に桃子にむかって挨拶をする。心から歓迎するように顔をほころばせて、桃子も二人に挨拶をかわす。李心がこれ以上余計なことをいわないようにと、暗に目線で桃子にくぎを刺すと、桃子はおどけたように肩をすくめて言葉を呑みこんだ。
立ち話もなんだからと、李心たち四人は桃子の運転してきたステーションワゴンに乗り込み、空港の駐車場を出発した。
「はげー! ほんと!? 大阪っちばUSJとか日本一高いビルとかあるんでしょ? そんな大都会、想像もつかないわ」
桃子は李心から碧が大阪から移り住んだことを聞かさると、目をまるくして仰天した。すかさず「おかあさん、そのくだり今日二回目」と李心がツッコミを入れる。娘の指摘にまるで狐にでも化かされたような反応を見せる桃子に、後部座席の三人が愉快そうに声を揃えて笑った。
空港をすぎると、窓の外は広大なサトウキビ畑になっていた。まだ若い青葉の間を春色の風が吹き抜けていく様子が車窓からも見てとれた。後部座席の窓を開けて、顔中に風を浴びながら碧がうっとりとした表情でいった。
「この辺はサトウキビ畑ばっかりなんやね。なんか南の島って感じで、これはこれで素敵やね」
「奄美大島って南部は山だらけで地形も険しいけど、北部はきれいな砂浜も多いし、平地でサトウキビ畑も多いから、ゆったりしたイメージがあるよね」
そういった七海の言葉を引き継ぐように、助手席から後ろを振り返った李心が非難めいた語勢でまくしたてる。
「よくシマ唄もカサン節はゆったりした曲調で、ヒギャ節は起伏にとんでアップテンポで、なんていうけど、あんなものは三味線弾くやつのセンスの問題だからな!」
「うわ、すごい敵対心」
碧があからさまなしかめっ面をすると、清風が碧に語りかけるようにいう。
「でもね、ミドリちゃんって今はまだ真っ白なノートみたいなものだから、カサン節もヒギャ節も関係なくたくさんのシマ唄でノートをいっぱいにしてほしいの。シマ唄はたくさん覚えればそれだけいろんな人と唄を唄えるようになりますから」
清風の言葉に、今度は碧は目を爛々と輝かせ「あたし、頑張ってシマ唄いっぱい覚えるね!」と息をまいた。
つい先日まで、民謡は唄わないと公言していた清風が、今度は碧に対してたくさんのシマ唄を覚えてほしいという。その心情の変化は間違いなく、奄民での活動を通して、清風がシマ唄を楽しんでいることの裏付けだと七海は感じた。少なくとも、それは清風にとっても奄民にとっても良いことだと思えた。
七海は李心を一瞥すると、したり顔をしていった。
「リコ、サヤカにいいところ持っていかれたんじゃないか?」
そんな七海の言葉に、大げさに反応することなく「まあ、そうだな」といった李心の表情が一瞬曇ったことに七海は気づいた。しかし、その直後に李心はいつものように調子のいい冗談をいっていたので、七海はきっと思い過ごしだったのだろうと、すぐにそのことも忘れてしまった。
李心の家は坂道をすこし登った見晴らしのいい高台に建っていた。いくつにも枝分かれした巨大な蘇鉄が庭に濃い影を落とし、庭木の間からは、藍染めの大島紬のように滑らかな海が太陽の光を跳ね返して白く輝いているのが見えた。李心は玄関の引き戸を開けると「ただいまー」と反射的に誰ともなしに声をかけ、放り出すように靴を脱いで家にあがった。
「ナナ、とりあえずみんなと居間で待ってて。ばあちゃん呼んでくる」
七海は心得たようにうなずくと「お邪魔します」と丁寧に声をかけて靴を脱ぎ、敷台に膝をついて自分の靴と、李心が脱ぎ散らかした靴を丁寧に揃えた。そのまま立ち上がって、廊下の左手にある襖に手をかけて、碧と清風を呼んだ。
「ミドリ、サヤカ。こっちだよ」
「なんだか、幼馴染って感じでいいですね」
「ホンマやね。なんかちょっと妬けるわ」
二人がにやけているのを見て、七海は困惑した様子で「先にいってるよ」と襖を開けて居間の中に入ってしまった。碧と清風も行儀よく玄関をあがって、七海に続いて居間へと入っていった。
9
三人が居間の中央に鎮座する天然木の座卓を囲むようにして待っていると、程なくして、李心がふくよかな体形のお婆さんの手を引いて入ってきた。ゆっくりとした足取りで、居間の下座に据えられた大きな籐の椅子に、そっとお婆さんを座らせた。
「フデばあちゃん、学校で一緒に民謡やっている友達。今日はばあちゃんの唄を習いに来たよ」
李心が紹介をすると、三人は姿勢を正して「よろしくお願いします!」と挨拶をした。フデは眼鏡の奥に深い笑いじわを刻みながら「はいはい、いもおれよー」と、はっきりと通る声でいった。七海は立ち上がると、フデのそばに行き膝をついてそのしわがれた手をとった。
「フデおば、お久しぶりです。ナナミです」
「ナナちゃんかい? はげー、キョラムンになりょおたやー」
フデは久しぶりの七海との再会に上機嫌で話をしていた。そのフデが口にしている聞きなれない言葉に、碧はきょとんとして清風にたずねた。
「ねぇ、サヤカちゃん。おばあちゃん、何ていったん?」
「ナナちゃんに美人になったね、って」
清風が碧の耳元で囁くようにいった。納得するように碧がうなずいていると、李心が振り向いて二人ををフデに紹介する。
「ばあちゃん、一緒にシマ唄やってる立山ミドリさんと、泊サヤカさん。ミドリは春から大阪から島に移り住んできて、つい最近あたしたちとシマ唄を始めたんだよ」
「はげー、そうかい。それなら内地言葉でしゃべらんばな」
フデはそういうと考え事をするようにそっと目を閉じた。突然押し黙ったフデにその場にいた四人は皆不思議そうに目をぱちくりとさせる。李心がフデに問いかけようと声をかけると同時に、フデがゆっくりと声をあげる。
「大阪っちばよ……」
USJ? と碧がいおうとしたが、フデのいった言葉は碧の想像していたものとは違っていた。
「戦後にみんな集団就職で大阪の方に渡てぃよ。日本が戦争に負けて、行政分離で奄美はずっとアメリカ軍の統治があってや、そん頃ぬ島には仕事も食べるもんもなくて、みんな貧しくてよ。本土に自由に渡れるようになるまで八年もかかったちば。ようやく奄美が本土に復帰すれば、仕事を求めてみんな鹿児島や大阪、東京に船で渡っていったんど」
「それじゃあ、フデさんも大阪にいてらしたんですか?」
清風が興味深そうにたずねると「ははは」と小気味いい笑いをあげながらフデがこたえた。
「そう、六十五歳まで大阪で仕事ばしょったと。だから、ばあちゃんはミドリさんよりも大阪に長くおったんど」
そのあともしばらく、懐かしそうに昔話に花を咲かせていたフデに、碧と清風は聞き入っていたが、小さな頃から何度も同じ話を聞かされていた李心は、しびれを切らしたように本題を切り出した。
「ごめん、ばあちゃん。話の腰を折って悪いんだけど、あたしたち今日は朝花節を習おうと思ってきたんだよ」
「朝花かい?」
意外、といったようにフデが繰り返す。それもそのはずで、奄美民謡の朝花節という唄は、奄美のシマ唄において、最初に唄う挨拶唄といわれているもので、シマ唄を習う者であれば最初に覚えるべき唄とされているからだ。当然、フデから唄を習った李心も七海も朝花節はすでに習っている。それをもう一度習いたいという言葉にどこか釈然としない様子のフデに、李心が説明を加える。
「ミドリはシマ唄を始めたばかりだし、あたしたちも部活で『唄あしび』をやりたいと思ってるんだ。だから、ばあちゃんが知ってる歌詞を、できるだけくさん教えて欲しいんだ」
「そうかい。唄あしびしゅんば、歌詞ばたくさん覚えんばや」
李心の説明に納得したようにうなずきながら、フデは視線を碧へとむける。目が合うと、ミドリは途端に緊張した面持ちになったが、フデは柔らかな声で眼鏡の奥の表情を緩めた。
「ミドリさん、きばりましょうね」
その優しそうな笑顔に碧は舞い上がるような表情になり「よろしくお願いします!」と深々と頭をさげた。
「それじゃあ、早速やろう。ナナとミドリで三味線やって」
「ちょ、ちょっとまって。あたし三線の伴奏、全然わからへんねんけど」
「焦らなくて大丈夫だって。ミドリは音感がいいから、何回も練習するうちにできるようになるよ。最初は音が合わなくてもいいから、唄をなぞるように弾いてみて。後はナナの演奏を参考にすれば大丈夫だから。ね、ばあちゃん」
「そう、シマ唄は唄がしっかりしとりば、三味線はそっと添えるだけで大丈夫」
大きくうなずくフデに意を決したように「わかった。やってみる」といって、碧は傍らに置いた三線のケースから艶やかな棹を持ち上げて三線を構えた。同じように三線を取りだした七海と調弦を合わせるために、二人は弦をはじいて音を確認し合った。
「あげ、いい音じゃや」
ため息をつくように静かにフデがそういったが、その声は誰の耳にも届いてはいないようだった。二つの三線の音が、開け放たれた窓から、小さな集落の畑を渡る風に乗って広がっていった。
時折、家の裏手の雑木林のほうから、クッカルルル……とアカショウビンの美しい鳴き声が響いてきた。