偶然の確立
1
昨日までの陽気はすっかり後退し、肌寒さを覚えるような朝だった。しかし、教室の中はそんな陰鬱とした天気とはまるで無関心な生徒たちの、楽しげな声が弾んでいた。クラブ見学期間が始まったことで、新入生たちの関心はいまや授業よりも、どの部活に入ったのかにむけられていた。
七海が登校したときには、まだ李心も碧も教室には来ていなかった。自席に座ると、七海は通学鞄のファスナーを開ける。鞄の中身を机に移そうとして、昨日から入りっぱなしになっていた新聞を見つけた。それを手に取ると、一面に大きく掲載されている奄美民謡大賞受賞の記事に目を通した。
――『泊愛美さん(南海大島高校三年)大賞に』
第三十五回奄美民謡大賞は十日、奄美市名瀬の奄美文化センターでおこなわれ、
最高賞の奄美民謡大賞を、青年の部の泊愛美さん(十八)=南海大島高校三年生=
が射止めた。――
記事は愛美が唄った『芦花部一番節』について言及し、そのあと、簡単なインタビューを掲載していた。
『ここ一年間ほど、辛いこともありましたが、唄はいつも私を助けてくれました。私も多くの人の支えによって唄を唄えたように、唄うことで誰かの支えとなることができたら嬉しい』
彼女のそんな言葉によって記事は締めくくられていた。
そういえば、と七海は無意識のうちに、曲げた右手の人差し指の第二関節で自分の下唇にそっと触れた。七海が考え込むときの癖だった。
昨日は清風の勧誘で頭が一杯だったが、考えてもみれば、碧が愛美と出会ったのは三日前。もし、愛美が順当に進学していたと仮定すれば、浪人生か奄美大島内にある専門学校にでも通っていない限り、本土か沖縄の大学に通学していたと考えるのが普通だ。
『磨励自彊、共存共栄』という理念のもと、奄美大島の高校生を世界で活躍できる人材として育成するべく創設された南海大島高校は、島内では大学を目指す者たちの進学校という認識が一般的で、卒業生のほとんどが大学に進学する。そして、愛美はここの卒業生だった。
つまり、普通に考えれば愛美はあの日、奄美にいるはずがなかった。それなのに、彼女と碧は出会い、そして碧は奄民に入部し、彼女の妹である清風も李心と碧の努力の甲斐があって、奄民に入部するといった。
神の引き逢わせ。李心はそういっていたが……
「でき過ぎだ」と七海は独り言ちる。
七海は窓際の席から、登校してくる生徒たちの流れをぼうっと眺めた。全校生徒は四百名弱。高校としての規模は小さいが、それでも七海たちが幼少期を過ごした北部の小さな集落の学校に比べれば、雲泥の差の賑わいだ。
その中から四人は偶然に出会い、唄という存在を通じて共に過ごすことになった。その引き金が愛美だとするならば……
どうも何かしらの力があるように思えてならない。偶然なのか、必然なのか。
当面の課題と思えた『奄民の復活』という重要事案は、清風が入部届さえ提出してくれれば、それで解決する。正式に部として継続が認められさえすれば、退部者がいない限り奄民の存続は少なくとも、七海たちの引退までは見通せる。部としての心配事はなくはないが、七海は「清風」と「愛美」という二人の存在がどうも気になって離れなくなっていた。
しばらくしてから、李心と碧が楽し気に会話をしながら教室に入ってきた。李心は椅子を鳴らして着席すると、先に登校していた七海に眠そうな目をむけて手を振った。七海は席を立ちポニーテールを揺らせながら、李心たちの元へと歩み寄る。
「リコ、ミドリ、おはよう。それにしても昨日は驚いたね」
「本当、まさかガンちゃん先生がサヤカのお兄さんだったとはな」
李心は思いにふけるように両手で頬杖をついて、不満げに頬をぷっと膨らませると、教室前方の黒板の上のあたりを眺めながらいった。
「だいたい、ガンちゃんも兄貴なら顧問としてサヤカを奄民に連れてきてくれたらよかったのに。そうしたらあんな面倒な手順を踏む必要はなかったし」
「せやけど、そうしたら昨日みんなでやった唄あしびはなかったわけやし、結果オーライってことでええんちゃう?」
碧の言葉に「まあな」と短いため息をひとつついたところで、今度は逆に李心が碧に茶化すような視線を投げかけた。
「ところで、ミドリは昨日の清風とのドライブデートはどうだったんだ?」
「ああ、サヤカちゃんに一方的に大阪について質問されてた。主にUSJに行ったことがあるかっていう話と、あとは日本一高い『ハルカス』っていうビルの話やったよ」
「サヤカ、見かけによらず案外ミーハーなのかな?」
李心は口元を引きつらせて小さく乾いた笑いをこぼした。そのとき、七海が「そうか! ガンちゃん先生がいたんだった」と妙案を思いついたとばかりに目を輝かせた。突然のことに李心と碧が怪訝な顔をむけたので、七海は肩をすぼめて「ごめん、こっちの話」と、とぼけてみせた。もちろん、こっちの話とは清風と愛美に関することだった。
2
昼休みの時間を利用して、三人は職員室の巌の元を訪れた。午前中の休み時間に、七海が「サヤカのこと、ガンちゃん先生に聞いてみない?」と李心たちに持ち掛けると、李心も「あたしも聞きたいことがあるし」と、それに同意したのだ。
李心は職員室の入り口から巌に視線を送りながら、彼と目が合うと手招きをして巌を呼んだ。巌が席を立って彼女たちの元にやってきた。
「やあ、南さんたち。どうしたんだい?」
「ガンちゃん先生、なんでサヤカが妹だって黙っていたの? あたしたちが部員足りないの知ってたでしょ?」
李心が非難めいた眼差しをむけたが、巌は飄々とした口ぶりでそれをかわす。
「でも、あと一人必ず見つけます、といったのは君たちじゃなかった?」
「それは、そうだけど」
「そもそも、僕はサヤに無理強いさせてでも奄民に入部させられるような、強大な権限は持っていないからね。妹だという事実以外には君たちにとってなんのメリットもないことだよ」
「それじゃあ、どうしてサヤカは民謡を唄わないっていっていたの?」
「さあ、僕はなぜサヤが民謡を唄わないといっていたのか、その理由までは聞かなかったから。君たちが本人から聞いてみたらどうだい?」
「いや、本人に聞きづらいからガンちゃんに聞いたのに……」
ふくれ面の李心に巌はわずかに頬を緩めただけで、優しく諭すようにいった。
「少なくともサヤカはしっかりとした意思をもっている子だから、君たちと部活をやると決めた以上、簡単に投げだしたりはしないよ」
巌のその言葉に妙な安心感を覚えたものの、七海が巌の元を訪れたのには他に目的があった。話を終わらせて席に戻ろうとしていた巌を「あと一つ!」と、声をあげて七海が引き留めた。振り向いた巌に、七海は真剣な眼差しでいった。
「去年、民謡大賞をとった泊メグミさんって、ガンちゃん先生の妹ですよね」
「メグ? ああ、そうだけど、どうしたの急に?」
「メグミさんって、今大学生なんですか?」
「ああ、鹿児島の大学に通っているよ。確か人文学科をとっていたと記憶しているけれど、それがどうしたの?」
七海は右手をそっと顎に添える。いよいよ、彼女が碧と出会ったという偶然にふつふつと疑問が沸き起こる。
「えっと、三日ほど前にメグミさんが鹿児島からこっちへ帰ってきていたということはありますか? 例えば、実家に何かを取りに戻っていた、とか」
特に深く考え込むこともなく、巌は「いや」と返事をする。
「メグは三月に家を出てからは、おそらく一度も戻っていないと思うよ。もし僕が仕事の間に家に立ち寄っていて、そのまま僕と会わずに出て行った、というならば話は変わるけれど、少なくとも、戻ってくる、という情報を彼女からは受け取っていないし、家族のだれからも戻ってきていた、とは聞かなかったね」
そうですか、といってふたたび考え込む仕草をした七海に「もう、いいかな?」と巌が問いかけると、七海はさっと顔をあげて巌と目を合わせた。
「あの、変なことをきくようですけれど。サヤカとメグミさんって、仲悪いんですか?」
「メグとサヤが? どうだろう。派手に大声をあげて喧嘩をしている、というところは見たことがないかな。ただ……」
「ただ?」
七海は足を半歩前に踏み出し巌との距離をつめる。一方の巌は何かを思い出すように、腕を組んで少し考えるようなそぶりを見せた。
「メグが去年、大賞をとった日を境に、サヤが『もう民謡は唄わない』といったと思うな。でも、それは『受験だから』といっていたと思う。実際、メグは大賞を受賞したあとに、島内のいろんなイベントでシマ唄を唄っていたけれど、サヤは一度もイベントには出なかったし、メグのお囃子すらもしなかったんだよ」
いい終わると巌がパンと手を叩いて「さあ、もうすぐチャイムが鳴るから君たちも教室に戻りなさい」と呑気な、しかし不思議とそれを拒否のできないような力のある声で、三人に職員室から出るように促した。
結局巌からは有力な情報をたいして得られなかったが、七海は去年の民謡大賞の日に清風が民謡を辞めたいと思う何かがあったのかもしれないと、朧気に考えていた。
3
「昨日の唄を聞く限りは、サヤカはものすごく唄うまかったよな。声もきれいだったし、それにカサン節の朝花の曲げも鳥肌が立つくらい感動的だった」
職員室から教室にむかう途中、廊下を三人で並んで歩いていると、李心が昨日の唄あしびのことを思い返すようにいった。その李心の感想には七海も全面的に同意できた。とにかく、あの不思議な感覚、まるで異空間にでもいたかのような、濃密な音と声の密度を思い出すだけでも、背筋にぞわりと寒気を覚えるほどだった。
「ねえ、昨日も聞こうと思っててんけどカサン節って何?」
碧の質問に李心がものぐさそうな表情を浮かべたので、代わりに七海がこたえた。
「簡単にいうと、シマ唄の種類みたいなものかな。奄美のシマ唄は大きく分けて『カサン節』と『ヒギャ節』という二つの種類にわかれるんだよ。厳密にいえば集落ごとや唄者ごとでも変わるけど、とにかくこの二つの流れがあって、カサン節は奄美北部の笠利地方中心に唄われてきた唄で、ヒギャ節は名瀬より南側の主に瀬戸内と呼ばれる地域で唄われてきた唄なんだよ。一般的にカサン節はゆったりとした曲調で、三味線もあっさりとしていて、ヒギャ節は逆にかなり起伏がはっきりした哀調のある唄い方をして、三味線も派手な弾き方をすることが多い、という違いがあるかな」
「ふーん。それで、サヤカちゃんもカサン節を唄うってこと?」
「少なくとも、昨日の唄をきく限りはそうだろうね」
「じゃ、朝花ってのは?」
「それは唄の名前。シマ唄を唄うときにはまず一番初めに朝花節を唄うんだ。これも集落ごとに違った唄い方をするんだよ」
すると、李心が思い出したようにパチンと手をならした。
「じゃあ、それが原因なのかな? 民謡を唄わない理由。伝芸ってヒギャ節中心だっただろ?」
「でも、それやったらヒギャ節は唄いませんって断るはずやし、そもそも、それやったらガンちゃんの民謡大賞の後っていうのも関係ないし。」
碧の言葉に七海も相槌をうつようにうなずくと、少し声を抑えた調子でまるで内緒話をするようにいった。
「これはただの想像でしかないけれど、ガンちゃんのいうことから察すれば、メグミさんが去年大賞を受賞したことが、納得できない。自分の唄のほうが大賞にふさわしかった、と思っていた。それで、自分の評価がされないならば、民謡は唄いたくない。という筋書きはどうだろう?」
「それは、絶対に違うと思う」
碧がはっきりと、険しい口調で七海の推論を否定した。眉毛がキッと吊り上がって、それまでの能天気なイメージとはまるで違っていて、碧でもこうして強く否定をすることがあるんだと、七海はドキリとした。
「昨日、一緒に帰っていろいろと、話をしたからわかるけど、サヤカちゃんは人に嫉妬したり、羨んだり、疎んだり、そんなことをする子と違うよ。すっごいいい子やねんから。もっと、なんていうか、シマ唄が大好きやのに、唄うことがはばかられるちゃんとした理由があったんやと思う」
碧の言葉に七海は、自分の推察が少し浅はかだったかと、きまりが悪そうに頬を掻いた。ただ、そういわれると、去年の民謡大賞の後に唄を辞めるといったその理由が気になってきてしまう。
すると李心はそんな七海の心の内を笑い飛ばすように、あっけらかんと七海にいってみせた。
「結局のところ、気になるならばやっぱりサヤカに聞いてみるしかないか。まあ、部活動に参加さえしてくれれば、とりあえずは奄民としては結果オーライだし、いずれそのことも話してくれるだろ」
それはいつもの彼女とおなじ、晴れた春の午後に差す太陽の光ような、暖かで屈託のない笑顔だった。李心の言葉に七海が小さく鼻で笑いながら、碧の耳元で囁いた。
「ああいうのを、奄美では『てげてげ』っていうんだ。覚えておくといいよ」
足を止めた七海と碧を無視して、両手を後ろに組んで廊下を先に歩いていく李心の背中を眺めながら「ああ、なるほど」と納得したように碧は、大きくうなずいた。