神の引き逢わせに
10
碧は昨日七海に教えてもらった通りに三線を構える。太鼓は太もものうえ、お腹にはくっつけない。撥をはさんで親指と人差し指で輪にしてつまむ。左手はギターを弾くのとは違う持ち方で。
ひとつひとつを確認してうなずく。
「じゃあ、いくよ、泊さん」
「はい、お願いします」
深呼吸をひとつして碧は静かに撥を振りおろした。
シマ唄をはじめたいと思ったきっかけはこの唄だった。だからこれを一番最初に弾きたいと強く思った。この唄を唄えれば、またあの人と出会えるような気がしていたから。
碧が撥で弾いた弦の振動は、弦を支える駒を通して胴に張った皮に伝わり、その皮の振動が胴体で増幅されて驚くほど澄んだ甲高く張りつめた音を響かせた。碧の左手はまだたどたどしくはあったが、しっかりと弦を押さえて正しくメロディをなぞり、右手の撥が弦を弾くたびに、シャボン玉みたいに透明な音がまるで湧水のように次から次へと生まれて、部室の空気が三線の音色に満たされていった。
「これは、よいすら節?」
李心と七海が驚きに顔を見合わせて、そして同時に碧のほうに振りむく。しかし碧は演奏に夢中になっていて、そんな二人の様子は一切目に入っていなかった。
碧が演奏する前弾が終わると、清風は音もなくすっと短く息を吸った。
〽舟ぬ外艫ヨイスラ 舟ぬ外艫にヨイスラ
白鷺ぬいしゅり スラヨイスラヨイ
白鷺やあらぬヨイスラ 白鷺やあらぬヨイスラ
姉妹神がなし スラヨイスラヨイ
注解:船の艫に白鷺がとまっている。
あれは白鷺ではなく、女性の神様の魂だ。
さっき唄った『行きゅんにゃ加那』とはまったく違う、まるで祈るような神高い唄声に、李心も七海も、そして英梨奈でさえも心を奪われていた。清風が唄いおわるころに、ふと我に返った李心があわてて次の節を繋ぎ、そのまま七海、英梨奈と唄が続いた。四人が唄いおわると、最後に碧も清風が唄ったものと同じ歌詞をつけ、短く後弾をいれて演奏を終えた。
わずかな余韻のあと、清風がにっこりと微笑んで「ミドリさん、ありがとうございました」とお礼をいうと、碧は少し照れたようにはにかんで耳の後ろを搔いた。
李心が感心したように「それにしてもどうやって一晩でよいすら節が弾けるようになったんだ?」とたずねると、碧は自分の三線を愛おしそうに見つめて膝の上にまっすぐに立てた。
「実は昨日、三線を借りてきたついでに、マサさんにお願いしてシマ唄の楽譜とCDも借りてんけど、その譜面がギターのタブ譜みたいやったから、案外すんなりとできてんよ。まあ、まだリコちゃんたちみたいに細かい演奏技術はないねんけど」
碧の持つ三線のカナクリにあしらわれた翡翠が、窓から差し込む夕刻の光を透かして緑色に輝いた。それを目にとめた清風はハッとして思い出したように碧にいった。
「あの、その三味線を見せていただいてもいいでしょうか?」
「これ? うん、いいよ」
碧が差し出した三線を受け取ると、清風はその裏側を観察するようにじっと見つめて、そっと自分の太もものうえにおいて三線を構えた。
「弾いてみても構いませんか?」
「うん。あたしもまだこの子がちゃんと音出しているところ聞いてないから、誰かに弾いてもらいたいと思ってたところやねん!」
碧が打ち解けたような気安さで笑うと、清風も了解したようにうなずいて、弦に挟み込んでいた撥を抜き取り右手に持ち直した。
清風は低い弦と高い弦を続けて弾いて調弦を確認すると、そのまま流れるように滑らかな前弾をはじめた。李心と七海にはこの前弾に聞き覚えがあった。むしろ、聞き馴染みがあるといったほうがいいのかもしれない。
それは奄美のシマ唄では一番はじめにに唄う慣わしになっていて、挨拶唄とも呼ばれる『朝花節』の前奏で、その上、奄美北部地方の李心と七海が唄っている『カサン節』と呼ばれる形式の節回しだった。
李心は驚嘆の目で三線を演奏する清風を見つめて口の中で小さく呟いた。
「この朝花……泊さんはカサン節の唄者なのか?」
清風の唄声はこの部室を一瞬のうちに異空間へと放り込んだ。壁も床も、天井までもが消えたような錯覚とともに、彼女の口から紡ぎだされる唄が李心たちの感覚を支配するかのように、体のまわりで幾重にも螺旋を描きながら濃度を高めていく。その声はどこまでも晴れ渡る夏の奄美の空のように透明で、その一方で高音域の伸びやかな裏声は、ぴんとはった絹糸のように柔らかな光沢を思わせながらも、ついと切れてしまいそうな儚さを感じさせもした。
〽ハレカナーィ 拝まん人む 拝でぃ知りゅり
神の引き逢わしに 拝まん人む 拝でぃ知りゅり
注解:知らない人とも神様の引き合わせによって
出会うことができました
唄は一節で終わり、短い後弾きをいれて清風は演奏をとめた。ひと時の静寂がもどり、窓の外から聞こえる運動部のざわめきがこの部室を異世界から現実へと引き戻した。李心の目尻から一筋の涙が頬を伝って静かに滑り落ちていった。なぜ涙が出たのか李心にもわからなかったが、少なくとも清風の唄に心が惹きつけられたのは間違いなかった。
「す、すごい! すごい、泊さん!」
碧がその静寂を破って清風に拍手をおくる。清風は嬉しさと恥じらいの入り混じった顔をして、丁寧に両手を添えて碧の三線を差し出した。
「ありがとう、いい三味線ですね」
「うん、めっちゃ気に入ってるねん!」
碧は清風から三線を受け取ると、さも自分が褒められたように顔を輝かせながら、太ももの定位置にそっと置いた。それを見た清風の口元がわずかに緩んだ。
「えーと、部長さん、ですよね?」
清風は春風のように穏やかな表情を李心にむけた。放心状態からようやく立ち直った李心が慌てて返事をする。
「あ、はい! 南です。南リコ」
「リコさん、今日は誘ってくれてありがとう。それから、ここに来る途中で見苦しいところを見せてしまって、ごめんなさい。私の知っている民謡の世界と、リコさんの唄うシマ唄ってなんだが全然違うんですね」
「違うっていうのは、唄あしびのこと?」
「はい。リコさんが一緒に唄あしびをしたいと私にいってくれたこと、とても感謝しています。もしリコさんたちが良ければこれからも唄あしび、一緒にさせてもらえますか?」
「え、それじゃあ、泊さん……」
李心の頬が一気に赤く染まり目が大きく見開かれて輝く。清風は目を弓のように曲げて、とろけだしそうな笑顔を李心たち三人にむけた。
「はい、私でよければ奄民に入部させてください」
「ほ、本当に!?」
「やったやんリコちゃん!」
手を取り合って喜びあう李心と碧の横で、英梨奈がすっと立ちあがった。それを視界の端にとらえた李心は、碧と手をほどいて英梨奈のほうにむき直った。
「エリ姉、あの……」
「すっかり長居しちゃったわね。早く戻らないと伝芸部のみんなに怒られるわ」
英梨奈は冗談なのか本気なのかもわからない言葉を口にする。その顔からは表情が読み取りにくかったけれど、今日ここへ李心を呼びに来た時のような、不機嫌な表情ではなかった。英梨奈はすっと李心から清風へ諭すような視線をむけていった。
「泊さん。私はやっぱりあなたの唄が好きよ。あなたの唄うシマ唄が。あなたがなぜ民謡を唄いたくないといったのか、民謡は私たちが受け継げばいいと、そういったのか。その理由はもう聞くこともないと思うわ。でもね、何も舞台や人前で唄うことだけが民謡じゃないのよ。リコたちは奄民という場所で、それを実現しようとしているし、私たち伝芸部だって舞台でいい成績をとるために練習をしているわけじゃないわ。そのことだけは、あなたにも知っていてほしいの。あなたの唄は、奄美の未来のために必要となるときがいつかきっと来るわ。だから……」ぐっと息をのむように間を置く「そのときのために民謡を、シマ唄を、もっと好きになって」
清風は返事をすることはなかったけれど、まっすぐに英梨奈を見据えていた。それだけで納得したように、微かに目元を緩めると英梨奈は踵を返して「それじゃあ、私行くわね」といい残して扉のドアノブに手を掛けた。
「そうだ。奄美民謡研究部、復活させてくれてありがとう」
体は扉の外をむいたままわずかに振り返ると、肩越しにそういって英梨奈は扉をぱたんと閉めた。
英梨奈がなぜ「ありがとう」という言葉を残したのか、部室に残った四人にはこのときはまだ理解することはできなかった。
11
部室の壁にかかっている何の変哲もない銀色の丸い時計が静かに秒針をきざんでいる音が聞こえる。時計はもうすぐ五時半を指し示そうというところだった。英梨奈が出ていったあと、李心と七海は一気に緊張を解いて、脱力したように大きく長い息を吐き出した。
「それじゃあ、今日はここまでにして、続きはまた明日ということにしよう」
李心の台詞を合図に四人は部室の片付けを始めた。碧は清風に「いい三味線ですね」と褒められたのが嬉しくて、丁寧に棹を拭いてピカピカに仕上げてからそっとケースに収めた。
四人は部室を後にすると、鍵を戻し校門の方へと連れ立って歩きはじめた。溶けるような夕日の赤がグラウンドでトンボがけをしている野球部員たちの長い影を作っていた。
校門へと続くエントランスを歩きながら、碧は横に並ぶ清風に質問した。
「泊さんって、シマ唄めっちゃうまいねんな。あたし感動したわ。シマ唄はずっとやってたん?」
「ありがとう、ミドリさん。私のことはサヤカでいいですよ。そうですね、私のお祖父様が唄者だったものですから、よく姉と二人でお祖父様に唄を習っていたんです。お祖父様は一昨年亡くなったのですけど」
「へー、そうなんや。おじいちゃんもめっちゃ上手かったんやろうなぁ」感心したようにいうと、小さくあっといって手を叩いた「そういや、サヤカちゃんのお姉さんってメグミさんっていうんやんね?」
碧は無邪気な笑みを浮かべていった。しかし、清風はその名前を出された瞬間に表情を固くして、微かに目を伏せた。それを見た碧の顔が困惑する。
「あれ、なんかまずかった?」
「いえ、そうではないのですけれど、去年の民謡大賞のあとによく姉さんの話題が出るんです。それでいつも姉の唄と比べられてしまうので、ちょっと……」
「もしかして、サヤカが民謡を唄わないといったのは、そのせいなのか?」
李心が珍しく真面目な顔をして清風にたずねる。しかし、清風は困ったような笑みを浮かべてゆっくりと首を振った。彼女の黒髪が夕日を反射して滑らかに動く。
「いえ、それはもっと個人的なことです。姉さんの唄は確かにすごいと私も思います。姉妹で唄っていたこともありましたから、比べられるのは仕方ないかもしれません。けれど、私は姉さんにはなれません。いくら比べられたとしても、それは意味のないことのように思います」
「ねえ、サヤカちゃん。あたし、シマ唄はじめたばかりの素人やねんけどさ」
碧は一歩前に進み出て回れ右をして清風の進路を塞ぐようにして立った。清風は驚きを浮かべてその場に立ち止まる。李心と七海も歩みをとめて碧のほうへ注目していた。
「メグミさんの唄を初めてきいて、それに感動してあんな唄を唄えたら素敵やろうなって思って、奄民に入ってん。けど、今日サヤカちゃんの唄を聴いたときに思ったんは、あたしサヤカちゃんと一緒に唄を唄いたいってそう思った。何ていうか、サヤカちゃんの唄はあたしの体の一番奥から、外に向かって爆発するみたいな、そんな感動やった。一緒に唄を唄えて本当に楽しかった。サヤカちゃんの唄を、いつまでも、いつまでも、ずーっと聴いていたかった! やから、」碧は心から嬉しそうに笑った「奄民に入ってくれてありがとう」
碧の言葉に清風は両手で口元を覆った。その目元にうっすらと赤い色が浮かんで瞳が潤んでいる。
「サヤカ。ミドリって不思議なやつだと思わないか? 大阪から引っ越してきて、いきなりシマ唄を始めたんだ。そのきっかけがメグミさんだったらしいんだけど、そのメグミさんがサヤカのお姉さんで、そのサヤカとあたしたちが出会って、奄民でミドリたちと一緒に唄を唄ったんだ。でき過ぎなくらいに、あたしたちは引き逢わされたと思わないか?」
「そうですね。まさに『神の引き逢わせに、拝まん人も、拝で知りゅり』ですね、リコさん」
「うん、そう。神様の力で出会った四人なら、きっとこれから先もやっていけるような気がするよ。だから、改めてよろしくね、サヤカ!」
李心はそういって右手を差し出した。その手を清風がとったとき、碧が嬉しそうに「あたしも!」といって二人の握手の上に手を重ねた。碧は七海に目線で促すと、彼女はくすっと笑ってその一番上に手を重ねた。
12
「あの、私はここで」
校門をでたところで清風が立ち止まる。李心たち三人は振り返ると、きょとんとした視線を彼女にむけた。
「ここって。校門?」
不思議そうに首を傾げた李心に、清風は初々しい恥じらいを浮かべてうなずく。
「兄が迎えに来てくれますので」
「へぇ、お迎えなんや? ちなみに、サヤカちゃんはどこから通ってるの?」
「私は秋名から通ってます。ミドリちゃんはどちらですか?」
「えーと、確か『あった』っていってたかな。海が近いところ」
「奄美の集落はたいてい浜が近いけどな」
七海が苦笑いでツッコミをいれると、清風が妙案を思いついたように碧にいった。
「有良集落なら通り道ですから、良ければ一緒に乗っていきませんか?」
「ホンマに?! いいの?」
「はい、もう間もなく兄が迎えに来る予定ですから」
「それじゃあ、みんなで待っていようか!」
張り切る李心に七海があきれ顔で「お兄さんが見たいんだな」といった。
四人がおしゃべりをしながら校門まえで待っていると、程なくしてメタリックピンクのマーチが短いクラクションを鳴らしながら、彼女たちのまえで停車した。
「お待たせ」
助手席の窓が開いて、運転席の男性が清風に声をかけると、李心と七海は、車と清風の間に割り込むようにして窓から車内を覗き込んだ。そこに座っていた男性の姿に二人は仰天して、声をそろえた。
「もしかして、清風のお兄さんって、ガンちゃん先生!?」
二人の叫び声が衝撃波のように放課後の校庭をつき抜けていった。運転席に座っていた奄民の顧問、巌と、二人の隣に立っていた清風は、不思議そう首をかしげて、のけぞった二人の反応を見つめていた。