いもーれ、奄美へ!
※奄美大島を舞台にしています。地名などは実在のものを使用していますが、話はあくまでフィクションです。もし実在のものと同一の名称があっても、その団体・個人と本作には一切の関係はございません。
※島の方言を会話に取り入れると、話が読めなくなると考え極力会話は普通語を使うようにしています。また著者は奄美出身者ではありません。島口に間違いやおかしなところがありましたら指摘ください。
窓から見える広大な海は、巨大なミラーボールのようにいくつもの光を跳ね返しながら、でたらめにきらめいていた。切れ切れに浮かぶできたての綿菓子のような淡い雲が翼のしたを猛スピードで流れては消えていった。
「当機は約十五分後に奄美空港へと着陸いたします」
殻をむいたゆで卵のように艶やかな声で、機内乗務員が乗客にシートベルトの着用を促す放送をする。ふわりと座席が浮いたような感覚が何度か続いたかと思うと、飛行機は大きく旋回を開始し機内が大きく傾いた。やがて、それまで距離感のわからない海面が見えるだけだった窓の外に、青々とした深い山肌と白い波に縁どられた海岸線が見えてきた。その海岸線から少し内陸に目をむけると、土色と若草色の入り混じる畑が、モザイクタイルのような四角い模様を描き、その周囲に点々と小さな家が建っているのが見えた。
飛行機は徐々に高度をさげていく。いつの間にか海面の青は深いコバルトブルーから鮮やかなエメラルドグリーンに変わり、浅い海底のサンゴ礁すら見えるほどに研ぎ澄まされた透明の光を映していた。手を伸ばせばその海面に手が届くのではないかと思えた瞬間、ベルトに体が押さえつけられるような衝撃とともに、ガガガガッ! と音を立てながら飛行機は滑走路へと無事着陸した。
飛行機が駐機場に到着し、シートベルト着用サインが消えると、乗客たちは気忙しく通路に並び、我先にと南国の空気を求めて出口へと急いだ。
「ミドリも忘れ物が無いように確認しなさい」
父である立山孝雄に呼びかけられて、碧は窓の外に飛び出していた意識を手繰り寄せた。
奄美大島は鹿児島県本土の南西に約三八〇キロメートルの洋上に浮かぶ、日本国内では三番目に大きな離島で、島内には約七万人が生活している。琉球文化圏内であり、沖縄と混同されがちであるが、行政区は鹿児島県である。
孝雄と碧はこの奄美大島に大阪から移住してきたのだ。
立ち上がった碧の身長はごく平均的な高校一年生の女子くらい。肩まで伸びた髪は緩やかなウェーブを描き、首のあたりでふわりと空気を包み込んだように軽く弾んでいる。まだ幼さを残した顔だちに、愛嬌のある大きな瞳がその存在を主張していた。
飛行機を出るときに扉口で機内乗務員が「よい旅を」と訓練された完璧な笑顔で見送ってくれ、碧はそれに目礼でこたえた。
空港の外に出た途端、一気に湿度を帯びた生温い空気が碧たちを包み込んだ。この日の空はペンキを塗ったような鮮やかなライトブルー。燦々と降り注ぐ太陽の光は想像よりも柔らかく、薄い春物のカーディガンを羽織った碧の肌に気持ちよかった。碧が立っているすぐ正面、駐車場とバス乗り場の分離帯になっている芝生の植え込みで、その存在を主張している「いもーれ、奄美へ!」と書かれた巨大看板に目を奪われていると「立山さん! こっちこっち!」と、自分の名前を呼ぶ大きな声がした。
声のする方へ視線を向けると、細身のおばさんが歩道の真ん中に立って大げさに手を振っていた。孝雄は手を挙げると、スーツケースを引っ張る足を速めながらそのおばさんのもとへと駆け寄っていく。碧も父に合わせて足早に歩道のうえを大股で歩いていった。
「カツミさん、ご無沙汰してます。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ、ようこそ来てくれましたね。長旅で疲れたでしょう」
「いや、早いもんですよ。乗り継ぎもなしでひとっ飛びですからね」
孝雄はそういいながら「これ、つまらないものですが」と大阪から持ってきたお土産を勝美に手渡した。
「あら、悪いわね。気を遣わせて。それで、こちらがミドリちゃんね。ずいぶん大きくなったわね」
手土産を受け取りながら勝美は愛想よくにっこりと微笑んだ。碧はすこし気恥ずかしそうに首をすくめて「こんにちは」と挨拶を返す。碧は彼女の顔に見覚えがなかったが、勝美は懐かしそうに目を細めて碧の顔を見つめていた。孝雄は自分の頭を掻くと、安堵の息をつきながらいった。
「なんとか南海大島高校に入学が決まりまして、心配事がひとつ減りましたよ」
「いえいえ、大阪の学校にいれば不自由もなかったでしょうに、わざわざお父さんについてこんな田舎の島によう来てくれました。おばちゃんはね、お父さんの昔の仕事仲間の中勝美っていいます。ミドリちゃん、これからよろしくね」
目じりに深いしわを刻みながら人情味のある笑顔を碧にむける。しわの数のわりに老けて見えない。
「カツミさんはね、お父さんと昔一緒に仕事していたこともあったんだけど、この奄美大島に惚れ込んで移り住んできたんだよ。あれからもう二十年以上たつのかな。今回、彼女がこっちに部屋を貸してくれたんだ」
孝雄は昔のエピソードを交えつつ勝美を碧に紹介する。勝美が今回の奄美大島での住居の大家ということのようだった。懐かしそうにに昔話に花を咲かせていた孝雄が不意に碧に目をむけた。
「実は昔、ミドリがまだ小さいときに、一度奄美には来たことがあるんだよ。ミドリは覚えていないだろうけど」
孝雄の声に碧は黙ったままこくんとうなずいた。
「その奄美の旅行中にミドリが熱を出してね、あのときは難儀したんだよ。でも奄美の人たちはみんな優しくてね……」
どこか遠い場所を見るような表情の孝雄にむかって、勝美が中年らしい賑やかな声で長話をぴしゃりと打ち切るようにいった。
「まあ、立ち話もなんですから、とりあえず積もる話は車の中で」
「何から何まですみません。しばらくはご厄介になることも多いかもしれませんが、よろしくお願いします」
うやうやしく頭をさげる孝雄に倣って碧もぺこりとお辞儀をした。
「いいのよ、そんなこと。奄美じゃみんな助け合いで生きてるんだから」
この日の天気のように陽気な勝美のその声を合図に、三人は駐車場へと歩き始めた。ふと歩道に目を転じればバスに荷物を積み込む旅行者や、レンタカーの待ち合わせをしているカップルたちが、奄美大島での楽しい時間を想像して喜悦のみなぎった顔をしていた。彼らは数日後にはこの島を後にして、それぞれの日常に戻っていくだろう。しかし、碧には帰りの便はなかった。
この奄美大島での碧の日常が始まろうとしていた。