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光のもとでⅠ 最終章 恋のあとさき  作者: 葉野りるは
本編
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06話(♡)

 身体は「大人」になろうと着実に変化を始める。すると、心もそれに習おうとするらしい。

「けれど、年齢的にはまだまだ子どもの時期でしょう? だからね、身体と心と、自分の扱われ方に葛藤を抱くのよ」

「葛藤ですか……?」

 そんな葛藤を抱いたことがあるだろうか……。

 私には思いつくものがこれといってない気がする。

 将来への不安ならたくさんある。けれど、それは不安であって葛藤ではない。

「身体も心も大人になろうとしてる。気持ちが自立しようとしているとき、抑制されるものに対して反抗する、葛藤する、それが思春期に迎える第二次反抗期」

 そうは言われても、蒼兄が両親に反抗しているところもあまり見たことがない。

 これはおかしいことなのだろうか……。

 先生に訊いてみると、感心された。

「翠葉ちゃんのご両親ってすてきな人たちね」

「え……?」

「ごく稀にいるのよ。反抗期って反抗期がない子。それはね、親が子供を抑えつけず肯定してあげられているからなの。もともと反抗、反発するのは、反対されるからであって、反対されなければ反発することはないのよ」

 言われていることは理にかなっているのかもしれないけれど、少し難しい。

「翠葉ちゃんは自分のご両親のことをどう思ってる?」

「……割となんでも自由にさせてくれます。どこか放任主義みたいなところがあって……。自分の決めたことは責任を持ってがんばりなさい、って言われます。相談にはのってくれるけど、最終的にな判断は自分がしなさいって……」

「放任主義、か。――そうね、そういう言葉もあるわね」

 先生はポツリと口にした。

「放任主義って言葉もあるけれど、翠葉ちゃんのご両親はそうじゃないと思うわ。いけないことをして両親に叱られることはある?」

「それはもちろん……。何が悪くてどうしてだめなのか、理解するまで許してもらえません。簡単にごめんなさいって謝ると、そのことに対しても叱られます」

「本当にすてきなご両親……。それは翠葉ちゃんの考えや意見を尊重してくれているのよ」

 尊重……?

「放任主義というと、いけいないことをした子供を叱れない、注意できない親、という意味にもなり得るけれど、尊重はあくまでも尊重。間違ったことをすれば指摘をするし、必要なら叱りもする。でも、叱るだけじゃだめ。叱るだけなら誰にでもできるの。問題なのは、どうして叱られているのかを子どもにきちんと説明できるか。理解させられるか。……言葉にするだけなら簡単。でも、自我を持った子どもに対し、それらを懇々と話して聞かせるのはとても骨の折れることよ。時間も根気も必要。そういうものもすべて含めて育児や教育というのだけど――『人』を育てるのってとても大変なことなのよ」

 先生の話はとても奥が深い。

 大人目線のことと、子ども目線の話。その両方を教えてくれていた。

 どちらの肩を持つこともなく、両者の真ん中に立っている人の言葉。


 確かに、放任主義という言葉よりは信頼して尊重してくれている、という言葉のほうがしっくりくる。

 蒼兄が部活をやめたとき、私は「どうして!?」と詰め寄ってしまったけれど、お母さんたちは蒼兄の話を聞き、普通にそれを受け入れた。

「学校で保護者会を開くときにはいつも言うの。人として間違った道を行こうとしているわけではないのなら、子どもの意見をなるべく尊重してあげてください、って。それを実行できる親はなかなかいないし、時に『甘やかす』ことと誤解をする親もいる」

 誰もがわが子はかわいい。だからこそ、口を出しすぎてしまう。それが行き過ぎた第二次反抗期につながるのだという。

「子どもが悪いわけじゃなくて、親の接し方ひとつで子どもの態度は変わるの。人って面白いでしょう?」

 先生が、「性教育は人を学ぶこと」と言った意味が少し理解できた。

「もし、翠葉ちゃんがご両親や先生に対して『それは違う』と思うことがあるのなら、反抗や反発をするのではなく、『自分はこう思う、こう考えているんだよ』ということを伝えてごらんなさい。あからさまに反発するのではなく、相手の理解を得られるような話し方をしてみなさい。そうしたら、相手は反抗期や反発とは捉えないから。自分を否定するのではなく、肯定してもらえるように話すことはとても大切なことよ」


 この学校で行われる教育のひとつひとつは必ず性教育につながるものだった。

 たとえば、ハムスターが死んだときや生まれたときに思ったことを書いた感想文を発表する場。それはプレゼンテーションという場になっている。

 こういうことに対し自分はこう思った、と発表する場。発言をする場。

 思ったことをきちんと言葉にして人に伝えられるようにするための教育。

 考えがまとまらない、言葉にできないときは「モヤモヤする」「涙が止まらない」それだけでもいいから文字にしたり口にさせるのだという。

 自分が感じている感情を把握させること、人に伝えられるようにすること。

 それらが進化したものがプレゼンテーションであり、反抗する前に自分の意見を提示して相手の理解を得られるように話すこと、につながるのだという。

 もちろん、教育の場でそうは説明されない。ただ、相手の共感を得られる話し方とはどういったものか。相手を納得させるためにはどう説明したらいいのか、という観点を設けてプレゼンテーションのハードルを上げるという。

 人の上に立つことが約束されている生徒が多い学校であることもあり、交渉術のひとつとして教育に盛り込まれているという。

 初等部から中等部まで、どんなことに対してもこれらのことを一貫して行うことで、九年の間に感情を言葉にする、人に話す、ということが習慣化され身につくのだとか……。

 それを聞いて納得したことがある。

 私はこの学校に入学してからとてもたくさんの人に文句を言われた。

 それは、ツカサの側にいることを良く思わない、という内容が主だったけれど、みんながみんな、自分の思うことや不満を私にぶつけてきた。

 中学のときとは全く違った。

 中学のときは自分の何が相手を不快にさせているのかを知ることはできなかったし、嫌われているであろうことはわかるけど、「何が」と言葉で提示されたことはない。面と向って何かを言われることはなく、物がなくなったり机や教科書に罵詈雑言が並ぶ程度で、肝心の理由がわからなかった。

 けど、この学校の人たちは何が気に食わないのかをきちんと口にしてくれる。グループで固まることもなく、ひとりでも文句を言いに来る。どちらかと言うと、複数人に呼び出されることよりも単独で来る人のほうが多かった。

 河野くんやツカサ、周りの友達が心配してくれているのはわかっていたけれど、私は目の前で文句を言われることがとても新鮮で、何を不快に思われているのかきちんと言葉にしてもらえることが嬉しくて、話してくれるのなら話せばわかってもらえるんじゃないか――そんな気持ちがあって、それらすべてに応じていた。

 結果、話してわかってくれる人はいたし、自分の言いたいことを言うだけではなく、私の話をきちんと聞いてくれる人がいた。そこから普通に話せるようになった人もいる。

 それは、こういう教育を受けてきているからなのね。

 発言の場は人の発言を聞く場でもある。そういうことをきっちりと学んできてるからなんだ。

 前に風間先輩が言っていた。

「親子揃って藤宮生っていうのは結構多いんだよね」と。

 それはきっと、両親の意向。

 自分が受けてきた教育に誇りを持っているからこそ、自分の子供にも同じ教育を――と思うのだろう。

 子供を持ったときにそう思えるような学園生活を送ってきた証拠なのだと思う。

 この学校にはそんな伝統もあるのね。

 私はまたひとつ、自分の通う学校について詳しくなった。

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