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光のもとでⅠ 最終章 恋のあとさき  作者: 葉野りるは
本編
55/117

55話

 エレベーターに乗り込み両開きの扉の中心をじっと見つめる。

 ドアが開いたら、今度こそ御崎さんがいるのではないか――。

 朗元さんから受け取ったカードと手ぬぐいを握る手に力が入る。

 けれど、扉の前には誰もいない。エレベーター前の回廊は、パレスに人がいるのかを疑うほどにしんとしていた。

 コンクリートむき出しの壁と一定の角度のカーブ。それらは、進めど進めど何ひとつとして変わることがない。しだいに、自分の歩く速度がそんなにも遅いのかと思い始め、無機質な足音に不安を煽られる。

 徐々に歩調は速まり心臓が同調し始めたけれど、逸る気持ちに足が伴うことはなかった。

 無理――このヒールじゃ走れない。

 一度歩みを止め、靴を脱いで走り出す。

 こんなふうに走るのは久しぶり。

 その場に留まる空気は自分が走ることで風のように感じ、足裏には硬く冷たい廊下の感触。廊下を蹴る振動が足から腹部へと伝い、肩や腕に痛みが散る。

 思っていたよりもずっと、身体中が軋むように痛んだ。

 スタッフを見かけたらその人に話せばいい。そこまで走れればそれでいい。

 そう思っていたのに一向に人と遭遇しない。ようやくスタッフを目にしたのはステーションの真下まで来てからだった。

 人はところどころにいるのに声をかけられる人がひとりもいない。みんな忙しく動いていて、声をかける隙がない。

 何より致命的だったのは、息が上がりすぎた自分が人に声をかけるタイミングを全くつかめなかったこと。

 唯一目が合った人はエレベーターに乗っていた。扉が閉まる直前だったこともあり、再度ドアが開くことはなかった。きっと、ボタンを押すのには間に合わなかったのだろう。

 エレベーター脇に緑の非常階段誘導照明見つけ、踵を返し重いドアを開けた。

 呼吸が苦しくて踊り場で足を止める。膝に手をつき痛む足先を見ていると、額から汗が伝い落ちた。

 急がなくちゃ――。

 手すりに掴まり気力だけで残りの階段を見上げる。と、天井に防犯カメラと見て取れるものが設置してあった。

 声を発する必要はない。口を動かしさえすればいい。

 お願い、誰か見ていて。誰か気づいて――。

 カメラに向かって口を動かす。なるべく伝わりやすいようにはっきりと。

「会長、レストラン、喘息」

 それだけを口にして、すぐに残りの階段を上り始めた。

 一階で歩調を緩めたけれど、思いを振り切るようにドアから目を逸らし、二階へと続く階段を進む。

 一階フロアにいるスタッフは招待客の動向を注意深く見ているだろう。もしかしたら、すぐ自分に気づいて声をかけてくれる人がいたかもしれない。でも、間違いなくさっきよりは混んでいるはず。

 確実に警備員が立っているとわかる場所が一ヶ所あるけれど、この出口からそこまでは距離があるし、スタッフに気づいてもらうことも自分が捕まえることもできなかった場合、あの人ごみを今度はひとりで掻き分け二階まで行かなくてはならない。

 そんなリスクを負うよりは、このまま非常階段を行ったほうがいい。

 もつれる足が憎らしい。息も苦しく身体の色んな部分が思うように動かない。

 悔しくて涙が頬を伝うのを手の甲で乱雑に拭う。

 泣くのはあとで――。

 二階に着くと、全体重をかけて重いドアを引き開けた。

 明るいフロアに出るはずなのに目の前が暗い。……違う、暗いのではなく人――。

 黒いスーツを着た背の高い人が目の前に立っていた。

「お嬢様、こちらでお待ちください」

 誰……。

「そのお姿で走られては悪目立ちしてしまいます」

 言われて気づく。警護の人だと。

 でも、会場はすぐそこだと言うのに――すぐそこに先生たちがいるのにっ。

 そう言いたくても思いは声にならない。私の口は呼吸をすることでいっぱいいっぱいだった。

 でも、読んでくれる。この人なら読んでくれる。

 信じてカメラの前で口にしたことと同じことを繰り返した。

「承知しております。カメラへ向けたお嬢様のメッセージは伝わっております。今一度お願い申し上げます。どうか、非常階段へお戻りください」

 大きな手がドアを押さえてくれている。

 力を入れなくてよくなった途端、私は崩れるようにしてその場に座り込んだ。

 ここに座り込んでもどうにもならない。この人を困らせるだけ。

 そうは思うのに身体が動かない。

 ごめんなさい、と思いながらただただ涙を流していた。すると、辺りが急にざわつき始める。

 力を振り絞って顔を上げる。と、会場出口からこちらに向かって足早に歩いてくる人たちがいた。

 黒いスーツを着た人の後ろには秋斗さんと御崎さんがいた。

 私はそのままの状態で秋斗さんに手を伸ばす。けれど、座った状態で前傾姿勢になった身体を片腕で支えることはできず、その場に崩れた。

「翠葉ちゃんっ」

「お嬢様っ」

「あき……さ、ろ……ん……」

 たくさんのことを伝えたいわけではない。なのに、一言も、単語にすらならない。

「翠葉ちゃん、落ち着いて」

 落ち着けるわけがない。

 言葉にならないもどかしさから、手に持っていたカードと手ぬぐいを秋斗さんに押し付けた。朗元さんの所持品とわかるものを。

「翠葉ちゃん、わかってるから。大丈夫だから」

 焦って声を発しようとするたびにひどく咽る。

 警護の人も秋斗さんも大丈夫と言うけれど、何が大丈夫なのか、どう大丈夫なのか、それを知りたい。教えてほしい。

 涙が止まらない。胸が苦しい。

「少し落ち着きなさい」

 いつもとは違う、ピリッとした厳しい口調で言われた。

 秋斗さんはスーツの上着を脱いで私にかけると、

「翠葉ちゃん、場所を移動する。ちゃんと状況を説明するからおとなしく言うことを聞いてほしい」

 秋斗さんは私を横抱きに抱え上げ、今私が走って来た道を戻り始めた。

 ジャケットに残るぬくもりがひどくあたたかく感じる。

「翠葉ちゃんが地下回廊を走っているとき、モニタリングしてる警備員から連絡が入った。君がカメラに向かって話した情報はすべて伝わっている。ついさっき、紫さんと昇さん、栞ちゃんが別ルートでレストランへ向かったから大丈夫。安心して」

「大丈夫」の意味がわかってほっとした。ほっとしたら、それまで気づかなかった自分の異変を強く感じ始める。

 どうしてこんなに寒いの? 館内は空調がきいているはずなのに、どうして……?

 呼吸が乱れて胸が苦しいことには気づいてた。でも、こんなにも寒かっただろうか。こんなに手足は冷たかっただろうか。走っているときは汗をかくくらいに暑かったはずなのに。……どうしてこんなにも気持ち悪いのだろう。どうして――。

「秋斗様、こちらへっ。ストレッチャーが用意してありますっ」

「湊ちゃんはまだっ!?」

「先ほど会場を出られました。すぐお越しになりますので先に医務室へっ」

「翠葉ちゃん、もう少しだけがんばってっ。すぐに湊ちゃんが来るから」

 遠い……。すぐ近くにいるはずの人の声がどんどん遠くなっていく。

 そこでようやく気づいた。自分の状態の悪さに――。

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